第8話 立ち止まらぬ誓い、ただ一人の妻のために

 彼は相変わらず「漢界」で寝ていて、私は「楚河」で寝ている。

 間には猫と犬と枕が並んでいて、物理的にはちゃんと距離がある――のに、なぜだか胸のあたりがざわざわする。


 私にとってこの婚約は、ただの事故みたいなものだ。

 最初から和離するつもりでいたし、彼は「期間限定の夫」――ほんの少し一緒に暮らして、それでさよならする相手。

 でも彼にとっては違うらしい。

 彼はこの婚約を、偶然と運命が絡み合った「奇跡」だと考えている……いや、そこまで大げさな言葉は使っていなかったけれど。

 それでも「好きだから和離に応じる、だけどその前にチャンスが欲しい」なんて言ってきた。

 ――は?それってもう「完璧な和離」じゃなくない?


 秋音シュウインはひとりでぐるぐる考えて、だんだんイライラしてきた。

 とうとう布団を蹴って上体を起こし、ベッドの縁に腰掛ける。


 隣で眠る景澄ケイチョウに視線を向けると、長いまつ毛が影を落とし、髪は夜の深さに星明りを散りばめたみたい。

 陶器みたいに滑らかな頬。でも、あの日見てしまった身体は、傷だらけだった。


 ――正直、私は彼のことをよく知らない。

 知ろうとしたことも、なかった。

 でも……せめてこの「期間限定の生活」のためくらいは、知ってみた方がいいのかもしれない?


 秋音シュウインは上着を羽織り、窓辺に腰を下ろして外を見やった。


 殿の外から吹き込む風は、金木犀の甘い香りを運んでくる。庭の池にはさざ波が立ち、天は高く、遠くの山並みは青く霞んでいる。

 けれどその四方を囲むのは、幾重にも重なる宮の塀。

 これほどの風月が目の前にあるのに――触れようとすると、分厚い壁に遮られてしまう。

 きらびやかな宮殿の装飾は、文句のつけようもない。

 でも、ここは「家」じゃない。

 彼女はそれを、誰よりもよくわかっていた。


 景澄ケイチョウは――そう、まるで水底を自在に泳ぐ龍のような人。

 けれど私はただ、普通に空を飛ぶ小鳥でいたいだけ。


 私はね、飛び上がって枝にとまる鳳凰なんかになりたくない。

 ……まあ、そう見られてしまうのかもしれないけど。


『え、鳳凰ってむしろ良いイメージじゃないの?』

『いやいや、「枝に飛び移った鳳凰」って皮肉の言い方なんだよ!』

『自分の力じゃなくて、誰かに取り入って出世したり贅沢するって意味。』


 考え込むのに飽きて、秋音は外へ出た。

 足元の繍靴シュウカを脱ぎ捨て、石畳に並ぶ飛び石の上をぴょんぴょんと渡っていく。

「よし、次の石……ちょっと遠いなあ……」

 小さく呟きながら、思い切って跳んだ。

 ――けれど、案の定届かない。

 膝をぎゅっと寄せて、せめて着地だけは……!と必死に踏ん張る。

 ……が、バランスは崩れてしまい、結局ぐらりと傾いた。


 そのとき――ひゅっと人影が飛び込んできて、秋音の体をしっかりと受け止めた。

 ぎゅっと目をつぶった秋音は、絶対に転ぶと覚悟して心臓がばくばくしていたのに……あれ、痛くない?


 ……え、私、転んでない?

 もしかして侍衛・三?だって一番足が速いし。

 いやいや、侍衛・五かも?やたらと周りを観察してるタイプだし……


 恐る恐る目を開けると――

「――殿下?!」

 思わず声が出た。

「え、なんでここにいるの?」秋音は眉をひそめる。

「ちょっと待って……まさか武芸できるの!?」


 景澄ケイチョウの長い髪が、ふわりと秋音シュウインの頬をかすめた。

 その瞬間ようやく気づく――自分はいま、彼に片腕で抱き上げられているのだ。


「……放して……」

 思わずそう言うと、景澄ケイチョウは少しだけためらい、秋音シュウインをまっすぐ立たせてから手を離した。


 彼は問いには答えず、ただ視線だけをこちらに向けていた。

「……どうして、好きだって言った途端に『景澄ケイチョウ』からまた『殿下』に戻ったんだ。」


小青シャオチンに言っただろ。後宮では、呼び方ひとつ、仕草ひとつが命取りになるって。」


「でも私は、君に『景澄ケイチョウ』って呼ばれたい。チョウでもいい……それとも、宮の外で恋人同士が呼ぶみたいに、『旦那さん』とか?とにかく『殿下』はやめてほしい。遠すぎるから。」

 声は抑えられて低く、冷たささえ混じっているのに――妙に甘えるような響きがあった。


 秋音シュウインはあえて呼び名を省いて口を開いた。

「……あなた、武芸できないんじゃなかったの?」


「まあ、外向きには『できない』ってことになってるけどね。」

 景澄ケイチョウはどこか狡そうに笑みを浮かべる。

「君、前に犬に向かって言ってただろ。『病弱で武芸もできない、繊細で美形な三皇子』って。」


「……盗み聞きしてたでしょ!」


「遠くから愛しい妻を眺めていただけだよ。」

 景澄ケイチョウはそう言いながら、頬にかかる髪を指先で耳に掛けた。


 月明かりに照らされた横顔に、秋音シュウインは思わず見とれてしまう。

 そして気づいたら口からぽろり――

「……ほんと、綺麗な女の人みたい。」


 その瞬間、景澄ケイチョウの眉がぴくりと動き、不機嫌そうに曇った。


「あ、ち、ちがっ……そうじゃなくて!」

 秋音シュウインは慌てて話題をすり替える。

「そ、それで……やっぱり武芸できるんでしょ?」


「――そうだよ。」


「じゃあさ、あなたに関する噂ってどこまで嘘なの?」

「さあ。どんな噂があるのか、私は知らないし。」


「体が弱くて病気がち?」秋音シュウインはぴょんぴょんと飛び石を渡りながら訊ねる。


「そこまでじゃない。ただ食欲なくて、胃が弱いだけだ。」

 景澄ケイチョウは彼女の後ろをのんびりと歩きながら答えた。


「野心家で、冷酷非情で、人を斬りまくってる――とか?」

 秋音シュウインは歌うように楽しげに並べ立てる。


「皇帝になりたいって野心は認めるけど、後の二つは違うな。」

 景澄ケイチョウは苦笑し、肩をすくめた。


「ねえ、女の人といっぱい寝たことあるんでしょ?」

 秋音シュウインは目をきらきらさせて、完全にゴシップ顔。


「なっ……ないから!」

 景澄ケイチョウはやけに慌てて、声まで裏返っていた。


「じゃあ、男が好きとか?」

 秋音シュウインが次の石へ飛ぼうとした瞬間――手首をぐいっと掴まれ、そのまま景澄の胸元に引き寄せられる。

「試してみるか?私が好きなのは男か女か?」


「~~~っ!」

 秋音シュウインは一瞬で顔を真っ赤にして、ぴたりと固まった。

「……離して……」


「何だよ。名ばかりの妻でも妻は妻だろ。私が父上に頭下げて、縁談の儀礼も全部済ませて、正々堂々と娶ったんだぞ?抱きしめるくらい、許されないのか?」

 景澄ケイチョウは少し不満げに言った。


「……っ、離して!」

 秋音シュウインはむっとして、彼の足を思いきり踏みつけた。


「はいはい。」

 しぶしぶ腕を解きながら、景澄ケイチョウはため息混じりに続ける。

「噂なんて全部無視していい。君だけには、誰よりも本当の私を見せてるんだから。」


 その言葉に、秋音シュウインの頬は一気に熱くなる。

 しばらく迷った末に、彼女は顔を上げてまっすぐ告げた。

「……景澄ケイチョウ。私ね、三皇子府が欲しいの。宮の中じゃなくて、外で暮らしたい。」


 その瞬間、彼の瞳にぱっと光が宿った。


 翌朝。

 いつもなら早々に出ていく景澄ケイチョウが、その日は部屋で猫や犬をなでながらずっと待っていた。秋音シュウインの支度が小青シャオチン整えられるのを。

 やがて立ち上がると、彼は軽く手を振って小青シャオチンを下がらせた。


秋音シュウイン。今日は君に髪を結ってほしい。」


「えっ?小青シャオチンに頼めばいいじゃない?」

 秋音シュウインはきょとんとする。

「私、そういうの下手だし。綺麗にできないよ?」


「いいんだ。君に結ってもらえれば、それで。」

 そう言うと、景澄ケイチョウは当然のように秋音シュウインの鏡台に腰を下ろした。


「……なんで急に髪なんか結ぶの?」

 秋音シュウインが紐を受け取って首をかしげると――

「妻に女みたいだと思われる趣味はないからな。」


 淡々とした声。

 ぷっ。秋音シュウインは思わず吹き出した。

「何それ!」


 しばらくして髪をまとめ終えた景澄ケイチョウは、ふいに秋音シュウインの頭を軽く撫で、きっぱりと言った。

「じゃあ、行ってくる!」

 返事を待たず、颯爽と立ち去っていく。


「何なのよ。学堂に行くだけなのに、まるで戦場にでも向かうみたいじゃない……」


 御書房。

 景澄ケイチョウは宦官や侍衛の制止をものともせず、堂々と歩み入った。

「父上、万安を。」


 突然の来訪に、皇帝は驚いたように顔を上げる。

「……なぜお前がここに?本日、お前を召した覚えはないぞ。それに今頃は学堂にいるはずではないのか?」


 景澄ケイチョウは衣の裾を払うと、そのまま勢いよく跪いた。

「父上。臣の学は、すでに学堂の範囲をはるかに越えております。夫子にお尋ねくださればわかりますし――あるいは、父上ご自身でお試しになっても構いません。」


「……どうした、景澄ケイチョウ?」

 皇帝は歩み寄り、その肩に手を掛けようとした。


 だが景澄ケイチョウは微動だにせず、固く地に膝をつけたままだった。

「父上、本日ひとつお願いがございます――すでに家族を持った身として、宮を出て、自らの府を構えることをお許しください。」


 皇帝の眉間に皺が寄る。手を差し伸べるのをやめ、姿勢を正して問う。

「……どうした?野心を隠そうともしなくなったか?」


「隠しません!」

 景澄ケイチョウは胸を張る。膝をついたまま、上半身はまっすぐだった。

「幼い頃、父上が『太子となる前は文武に秀でていた』と仰いました。その言葉を今、胸に刻んでいます――私もまた、文にも武にも恥じぬ自信があります。後宮では生き延びるため芝居を続け、武芸の才を隠してきましたが……断言できます。朝廷の武将で、私に勝てる者はそう多くはありません。」


 皇帝は一瞬言葉を失い、ゆるやかに玉座へと戻って腰を下ろした。

「――放言も甚だしい!今日のお前の物言い、分寸というものがまるでないではないか!」


「父上……私はもう、自分を偽るのをやめます。これからは、本気で生きたいのです」


 澄み渡る眼差しに、皇帝も思わず息を詰める。やがて肩を落とし、どこか諦めたように問うた。

「――だが三皇子府を求めるのは、あまりにも性急ではないか。他の兄弟たちはどう思う。私は常に言ってきたはずだ。『寡を憂えず、むしろ不均を憂う』と。お前だけが抜きんでれば、それは不均となり、恨みを買うことになるぞ!」


「臣は恐れません!」

 景澄ケイチョウの声は朗々と響き渡った。


 皇帝はその響きを受け止めながらも、もはや何も言葉を返さなかった。


「父上、どうぞ文でも武でも医でもお試しください。ひとつでも誤れば、その罰は甘んじて受けます!」


「不均を恐れぬというのは、傲慢にも等しい。お前はまだ若い。早すぎる!」


「若いからこそ、命を懸けて挑む価値があるのです!」

 景澄ケイチョウの瞳は強く揺るがず、言葉はさらに熱を帯びる。


 ――彼女が望むものなら、私はすべて与えます。どんな障害があろうと、決して立ち止まりません。


 ーーーーーーー

 ①寡を憂えず、むしろ不均を憂う

 出典:不患寡而患不均

『論語』の言葉。

 財や土地が少ないことを憂えるのではなく、不公平に分けられることを憂えるべきだ、という意味。

 ーーーーーーー

 ミニあとがき:

 今日は時間がなくて絵を描けませんでした。明日こそは、髪を結った景澄の姿を描いてお見せできるよう頑張ります。どうぞお楽しみに〜!

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