第8話 立ち止まらぬ誓い、ただ一人の妻のために
彼は相変わらず「漢界」で寝ていて、私は「楚河」で寝ている。
間には猫と犬と枕が並んでいて、物理的にはちゃんと距離がある――のに、なぜだか胸のあたりがざわざわする。
私にとってこの婚約は、ただの事故みたいなものだ。
最初から和離するつもりでいたし、彼は「期間限定の夫」――ほんの少し一緒に暮らして、それでさよならする相手。
でも彼にとっては違うらしい。
彼はこの婚約を、偶然と運命が絡み合った「奇跡」だと考えている……いや、そこまで大げさな言葉は使っていなかったけれど。
それでも「好きだから和離に応じる、だけどその前にチャンスが欲しい」なんて言ってきた。
――は?それってもう「完璧な和離」じゃなくない?
とうとう布団を蹴って上体を起こし、ベッドの縁に腰掛ける。
隣で眠る
陶器みたいに滑らかな頬。でも、あの日見てしまった身体は、傷だらけだった。
――正直、私は彼のことをよく知らない。
知ろうとしたことも、なかった。
でも……せめてこの「期間限定の生活」のためくらいは、知ってみた方がいいのかもしれない?
殿の外から吹き込む風は、金木犀の甘い香りを運んでくる。庭の池にはさざ波が立ち、天は高く、遠くの山並みは青く霞んでいる。
けれどその四方を囲むのは、幾重にも重なる宮の塀。
これほどの風月が目の前にあるのに――触れようとすると、分厚い壁に遮られてしまう。
きらびやかな宮殿の装飾は、文句のつけようもない。
でも、ここは「家」じゃない。
彼女はそれを、誰よりもよくわかっていた。
けれど私はただ、普通に空を飛ぶ小鳥でいたいだけ。
私はね、飛び上がって枝にとまる鳳凰なんかになりたくない。
……まあ、そう見られてしまうのかもしれないけど。
『え、鳳凰ってむしろ良いイメージじゃないの?』
『いやいや、「枝に飛び移った鳳凰」って皮肉の言い方なんだよ!』
『自分の力じゃなくて、誰かに取り入って出世したり贅沢するって意味。』
考え込むのに飽きて、秋音は外へ出た。
足元の
「よし、次の石……ちょっと遠いなあ……」
小さく呟きながら、思い切って跳んだ。
――けれど、案の定届かない。
膝をぎゅっと寄せて、せめて着地だけは……!と必死に踏ん張る。
……が、バランスは崩れてしまい、結局ぐらりと傾いた。
そのとき――ひゅっと人影が飛び込んできて、秋音の体をしっかりと受け止めた。
ぎゅっと目をつぶった秋音は、絶対に転ぶと覚悟して心臓がばくばくしていたのに……あれ、痛くない?
……え、私、転んでない?
もしかして侍衛・三?だって一番足が速いし。
いやいや、侍衛・五かも?やたらと周りを観察してるタイプだし……
恐る恐る目を開けると――
「――殿下?!」
思わず声が出た。
「え、なんでここにいるの?」秋音は眉をひそめる。
「ちょっと待って……まさか武芸できるの!?」
その瞬間ようやく気づく――自分はいま、彼に片腕で抱き上げられているのだ。
「……放して……」
思わずそう言うと、
彼は問いには答えず、ただ視線だけをこちらに向けていた。
「……どうして、好きだって言った途端に『
「
「でも私は、君に『
声は抑えられて低く、冷たささえ混じっているのに――妙に甘えるような響きがあった。
「……あなた、武芸できないんじゃなかったの?」
「まあ、外向きには『できない』ってことになってるけどね。」
「君、前に犬に向かって言ってただろ。『病弱で武芸もできない、繊細で美形な三皇子』って。」
「……盗み聞きしてたでしょ!」
「遠くから愛しい妻を眺めていただけだよ。」
月明かりに照らされた横顔に、
そして気づいたら口からぽろり――
「……ほんと、綺麗な女の人みたい。」
その瞬間、
「あ、ち、ちがっ……そうじゃなくて!」
「そ、それで……やっぱり武芸できるんでしょ?」
「――そうだよ。」
「じゃあさ、あなたに関する噂ってどこまで嘘なの?」
「さあ。どんな噂があるのか、私は知らないし。」
「体が弱くて病気がち?」
「そこまでじゃない。ただ食欲なくて、胃が弱いだけだ。」
「野心家で、冷酷非情で、人を斬りまくってる――とか?」
「皇帝になりたいって野心は認めるけど、後の二つは違うな。」
「ねえ、女の人といっぱい寝たことあるんでしょ?」
「なっ……ないから!」
「じゃあ、男が好きとか?」
「試してみるか?私が好きなのは男か女か?」
「~~~っ!」
「……離して……」
「何だよ。名ばかりの妻でも妻は妻だろ。私が父上に頭下げて、縁談の儀礼も全部済ませて、正々堂々と娶ったんだぞ?抱きしめるくらい、許されないのか?」
「……っ、離して!」
「はいはい。」
しぶしぶ腕を解きながら、
「噂なんて全部無視していい。君だけには、誰よりも本当の私を見せてるんだから。」
その言葉に、
しばらく迷った末に、彼女は顔を上げてまっすぐ告げた。
「……
その瞬間、彼の瞳にぱっと光が宿った。
翌朝。
いつもなら早々に出ていく
やがて立ち上がると、彼は軽く手を振って
「
「えっ?
「私、そういうの下手だし。綺麗にできないよ?」
「いいんだ。君に結ってもらえれば、それで。」
そう言うと、
「……なんで急に髪なんか結ぶの?」
「妻に女みたいだと思われる趣味はないからな。」
淡々とした声。
ぷっ。
「何それ!」
しばらくして髪をまとめ終えた
「じゃあ、行ってくる!」
返事を待たず、颯爽と立ち去っていく。
「何なのよ。学堂に行くだけなのに、まるで戦場にでも向かうみたいじゃない……」
御書房。
「父上、万安を。」
突然の来訪に、皇帝は驚いたように顔を上げる。
「……なぜお前がここに?本日、お前を召した覚えはないぞ。それに今頃は学堂にいるはずではないのか?」
「父上。臣の学は、すでに学堂の範囲をはるかに越えております。夫子にお尋ねくださればわかりますし――あるいは、父上ご自身でお試しになっても構いません。」
「……どうした、
皇帝は歩み寄り、その肩に手を掛けようとした。
だが
「父上、本日ひとつお願いがございます――すでに家族を持った身として、宮を出て、自らの府を構えることをお許しください。」
皇帝の眉間に皺が寄る。手を差し伸べるのをやめ、姿勢を正して問う。
「……どうした?野心を隠そうともしなくなったか?」
「隠しません!」
「幼い頃、父上が『太子となる前は文武に秀でていた』と仰いました。その言葉を今、胸に刻んでいます――私もまた、文にも武にも恥じぬ自信があります。後宮では生き延びるため芝居を続け、武芸の才を隠してきましたが……断言できます。朝廷の武将で、私に勝てる者はそう多くはありません。」
皇帝は一瞬言葉を失い、ゆるやかに玉座へと戻って腰を下ろした。
「――放言も甚だしい!今日のお前の物言い、分寸というものがまるでないではないか!」
「父上……私はもう、自分を偽るのをやめます。これからは、本気で生きたいのです」
澄み渡る眼差しに、皇帝も思わず息を詰める。やがて肩を落とし、どこか諦めたように問うた。
「――だが三皇子府を求めるのは、あまりにも性急ではないか。他の兄弟たちはどう思う。私は常に言ってきたはずだ。『寡を憂えず、むしろ不均を憂う』と。お前だけが抜きんでれば、それは不均となり、恨みを買うことになるぞ!」
「臣は恐れません!」
皇帝はその響きを受け止めながらも、もはや何も言葉を返さなかった。
「父上、どうぞ文でも武でも医でもお試しください。ひとつでも誤れば、その罰は甘んじて受けます!」
「不均を恐れぬというのは、傲慢にも等しい。お前はまだ若い。早すぎる!」
「若いからこそ、命を懸けて挑む価値があるのです!」
――彼女が望むものなら、私はすべて与えます。どんな障害があろうと、決して立ち止まりません。
ーーーーーーー
①寡を憂えず、むしろ不均を憂う
出典:不患寡而患不均
『論語』の言葉。
財や土地が少ないことを憂えるのではなく、不公平に分けられることを憂えるべきだ、という意味。
ーーーーーーー
ミニあとがき:
今日は時間がなくて絵を描けませんでした。明日こそは、髪を結った景澄の姿を描いてお見せできるよう頑張ります。どうぞお楽しみに〜!
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