第6話 彼女に纏う蘭香は、彼の香り
――
巨大寝台の真ん中に積まれた枕の山を境に、
毒の一件があったばかり。
ほんの少しだけ――心配していたのだ。
「……殿下、まだ起きてる?」
恐る恐る声をかける。
「寝ていない。」
返ってきたのは、やけに短い答え。
『※既読スルーのボイス版』
『※塩対応きた』
そっけなさに、
「……
「……無関係だ。」
声色は低く、不機嫌さがにじむ。
「無関係なら、どうして私に毒!?殿下は、あの子をかばってるじゃない!」
その瞬間、
長い黒髪が肩から流れ、月明かりを映す瞳がじっとこちらを射抜く。
「……私は美しいか?」
「は?」
「私は美しいか。格好いいか。お前の目に、どう映っている?」
『※急な美形自己確認』
『※ナルシスト三皇子w』
「な、なにそれ!私、殿下なんて好きじゃないし!自惚れすぎ!」
けれど
「答えろ。」
「……顔は、まあ……綺麗だと思う。美しいっていうか。でも、格好いいかは微妙!」
「……ちっ。」
彼は舌打ちして天井をにらみつける。
「この私に嫁ぎたい者など、いくらでもいる。」
その言葉に、
彼が美しいのは事実だ。皇帝がかつて最も愛した妃の子で、才学もあり、未来を嘱望されている。
太子にはなれなくても、彼の妃となれば栄華は約束されたも同然。あるいは、彼を利用して一気に出世を狙う官僚なんて、星の数ほどいるに違いない。
……だからこそ、疑問がこみ上げる。
「――なら、どうして私と結婚したの?」
そして、寝返りを打ちながら冷たく言い捨てた。
「……お前は、脳みそを犬にでも食われたのか。」
「はあっ!?」
残された
――せっかく心配してあげたのに。
……あれ、そういえば私、肝心の「体調どう?」って聞き忘れてない?
でも、どうせ
毒を渡されたのは私だったのに、彼は自分で口にして中毒しても、相手を責めることも声を上げることもなかった。
一方で「自分は美しいか」とか急に訊いてくるし……自分の美貌に酔いしれながら、
……ほんと、宮廷恋愛なんてやつはごめんだ!
私はただ、話本に書かれているみたいな――
甘くて、あったかくて、誰かがちゃんと「好きだよ」って笑ってくれる恋が欲しいだけなのに。
翌朝。
その間、
彼女は伸びをして、気の抜けた大あくびをひとつ。
「……いま、何時?」
「お嬢様、ようやくお目覚めですか!もうすぐ昼膳のお時間です!」
小青が慌てて駆け寄り答える。
「えっ、うそ!後宮学堂が――!」
「ご安心ください。三皇子殿下が、今日は休講だと仰せでした。」
「……そっか。」
ようやく息を整えた
「小青が戻ってきてくれて、ほんとにうれしい!」
「私もです!」
「……大切になんて、きっと大げさよ。ただ、私が実家に逃げ帰って恥をかかせないためでしょ。」
「そうでしょうか?」
『無理やり恋愛認定!』
『いや普通にお似合いでしょ!』
『何が良縁だ、これはむしろ運命の悪縁だ!死ぬフラグw』
彼女は思わず睨み上げ、心の中で叫んだ。
――無理やり恋愛認定は分かる!悪縁でも別にいい!
でも……「死ぬフラグ」って何!?誰が死ぬっていうのよ!?私!?それとも……
「お嬢様、またぼんやりして……何を考えておられるのですか?」
「……何でもないわ。とりあえず髪を整えてちょうだい。」
それから髪をほどけば、黒髪が滝のようにさらさらと肩へ流れ落ちる。
小青は象牙の櫛を取り、毛先から少しずつ梳き上げた。引っかからぬように、痛ませぬように。
やがて
「……お嬢様、入宮してからずっと蘭の香りがしますね。」
その一言に、
「そ、それは……
今度は小青の顔も真っ赤になる。頭に浮かんだのは――昨夜、二人がずっと抱き合っていたに違いないという、あらぬ想像。
「やっぱり……殿下とは仲睦まじいのですね……」
「……???ちょ、ちょっと待って!あなた今、絶対おかしなこと考えたでしょ!!」
だがふと、実家で母が蘭を育てていたときに聞いた言葉を思い出す――蘭は清熱解毒の効能がある、と。
はっとして彼女は立ち上がり、ぱっと戸を開けて駆け出した。
「お嬢様っ……お嬢様ぁ!」
長い回廊を行きつ戻りつしながら、
「二っ!二、いるの!?二っ!」
「……何事でしょうか、皇子妃殿下。」
「ねぇ二、
「はい……ですが、それだけではございません。」
「どういう意味?」
「蘭には解毒の効能もありますが、さほど強くはありません。肝の気をめぐらせ、鬱を晴らし、咳をやわらげる作用がございます。」
「……じゃあ、やっぱり咳の持病があるってこと?」
――やっぱり病弱キャラ!?
「いいえ。我らが殿下は、ただ純粋に蘭を好まれるだけです。」
「…………え、じゃあ何でわざわざ遠回しに言ったの!?」
「とにかく――昨日、彼は私をかばって毒を受けたようなものだわ。……ねぇ二、蘭と甘草を少し探してきて。焚香にして、お礼をしたいの。」
「御意。」
二は恭しく頭を下げ、闇に溶けるように姿を消した。
午後の陽ざしは柔らかく、窓紙を透けて机の上に散った光は、星の瞬きのようにきらめいていた。
「本によると……干してから粉にして……それを固め直すのね!」
彼女は書物を覗き込みながら、ひとりごとのように呟く。
「
しかし返事はない。
「小青?ねぇ、お願い――」
そのとき、足音が近づき、ひやりと冷えた指先が額に触れ、乱れた髪を掬い上げた。けれど、その手は離れず、髪を留めてくれる気配もない。
「……粉が目に入っちゃった。吹いて……」
次の瞬間、顎をやわらかく支えられ、もう一方の冷たい手が目もとを覆った。乱れた前髪を払い、まつ毛に落ちた粉を払う。かすかな吐息が瞼に触れ、指先が頬をなぞるようにして流れた涙を拭い去った。
甘やかな蘭の香りに包まれ、秋音の胸はとくんと跳ねる。
「なっ……あなた!?」
「戻ったら君が小青を呼んでいて……でも姿が見えなかったから、代わりに手を貸したんだ。」
「なら、最初から『小青はいない』って言ってくれればいいのに……」
「そうか。じゃあ言うよ――小青はいない。」
真顔で答える景澄に、秋音は思わずむっとする。
「……え?じゃあどこに行ったの?今朝までは一緒だったのに……」
不安が胸をよぎり、秋音は急に真剣な顔で問い詰める。
「心配するな。すぐに人をやって探させる。」
景澄はすぐに立ち上がり、軽やかに外へと歩み出ていった。
そして――ついに
「殿下。妃殿下の侍女だという
その瞬間、
「待て、どこへ行く。」
「
「……勘違いするな。私は止めていない。」
「ただ――お前は宮の道を知らぬ。迷えばかえって彼女を助けられんだろう。一緒に行く。私が案内する。」
「母上、ご機嫌麗しゅうございます。」
「まあ、
「母上、聞き及びました。
「なるほどね。先ほど
皇后は楽しげに目を細めた。
――わざとらしい。
「母上、彼女は私の侍女です。入宮したばかりで――」
「黙りなさい!」
皇后の声が鋭く響いた。「自分の侍女すら管束できぬとは、何たること。」
「母上、どうかお情けを。新婚の祝いに免じて、今回は咎めをお許しいただければ……私が必ず彼女を正しく戒めます。」
「本来ならこんなささいなことに私が口を出す必要もない。けれど妃が訴えてきた以上、放置もできぬわね。……
皇后はにこやかに立ち上がり、
「六十!?そんな――」
思わず
「ほう。つまりお前は私を非道だと言うの?」
皇后の目が冷たく光る。
「母上、
「規矩なくして、円も方も成らぬ――規律を外れた者に、居場所はない。もし不満なら、父上に直訴すればいい。ただし、今日この場では処断する。」
皇后は御座に戻り、茶を口にした。
「それに――学堂を休んで遊んでいた妃が、何を言えるのかしらね。」
「母上、どうか……私は本当に秋音を大切に思っております。どうか彼女を悲しませないでください。」
「ふふ……面白い。では十杖で済ませましょう。」
――だが十回といえども、小青の細い体にはあまりに重い。
二度叩かれただけで「お嬢様……お嬢様、助けて!」と泣き叫んだ。
彼女は彼の手を振りほどき、板刑の場へ飛び出した。
四度目の杖は
「不敬な!」
皇后の声が雷のように響く。「続けなさい!」
だが打ち手の兵は顔を青ざめさせ、
「三皇子殿下……どうかお許しくださいませ……」
そして
「……母上。続けろ。」
残り六度の杖は、すべて
夜。
三皇子の宮内では、
「お嬢様……ごめんなさい……わたしのせいで……」
「違うわ、
そのやり取りを、側から
「……小青。これからは『お嬢様』ではなく、『皇子妃殿下』と呼べ。後宮では呼び方一つ、立ち居振る舞い一つが命取りになる。お前が間違えば、痛みを受けるのは秋音だ。」
小青はすすり泣き、秋音は微笑んで涙を拭って「大丈夫よ」と頷く。やがて薬を塗り終えると、秋音は二に小青を託して下がらせた。
主殿に静けさが戻る。景澄はしばし黙って小青の背を見送り――
「……肌着を脱げ。薬を塗る。」
「だ、大丈夫。私は一度しか叩かれてないし……一番ひどかったのは
「……痛くないの?」
「痛くない。」
「こんな小さなことで……そこまでしなくてもいいのに。」
「宮中に理は通じない。」
「でも……あなたが庇ってくれたのに、それでも手を止めないなんて。どうして……殿下まで打つの?」
「……婚約の時もそうだっただろう。あの時も、代わりに板を受けたのは私だ。」
そう言って彼は秋音の頬に触れ、涙を指先で拭った。
「――ほら。これ以上、小さな真珠をこぼすな。」
秋音の胸が一瞬で跳ね上がる。
彼は、彼女の涙を真珠と呼んだ。
「
「……ああ。とても好きだ。」
彼はかすかに笑みを浮かべて答えた。
「どうして?」
「……いいから。背を向けろ。服を少し下ろせ。背中に薬を塗る。ほかには何もしない。」
「……別に、誰もそんなこと疑ってないけど。」
「いい子だ。さ、背を向けろ。」
白い肌に浮かぶ痣は紫色に変わり、痛々しい。
「……こんなに腫れているのに、まだ痛くないと言うのか。」
背に触れる薬の冷たさが沁み、少し顔をしかめる。
「……蘭が好きなのはな。ある人に聞いたんだ――『母の庭に咲く蘭がいちばん美しい』って。彼女は蘭の香りが大好きで……抱いて眠る
その笑みは秋日和の陽射しのようにやわらかく、
心臓は激しく跳ね、耳の奥まで響くほど。
息をするたび、空気は蘭の香りに染まり――それはまるで、深まる秋を彩る一面の蘭花の園に抱かれ、息さえ甘くなるようだった。
ーーーーーー
後書き:
侍衛はもう4人登場しました!ちびキャラ風「七人の侍衛」デザインはこちら
https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818792440101232530
それから――今日は更新がいつもより1時間以上遅くなっちゃいました~
それは単純に「このエピソードを一気に語り切りたい!」と思って、二話分のボリュームをまとめて書いちゃったからです。
そのぶん、きっともっと尊くて、もっと「カップル推し」しやすい回になったはず……どうぞ心ゆくまで尊みを味わいつつ、来週を迎えてくださいね〜💕
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます