隣に、君がいたから

舞夢宜人

たった1枚の壁が、僕らの世界を繋いだ。

### 第1話:壁を隔てた出会い


 新生活は、段ボールの埃っぽい匂いと、少し開け放した窓から吹き込む春風の匂いから始まった。東京郊外にある古いアパートの二階、201号室。畳のない、フローリングの六畳間は、殺風景なほどに白い壁と木目調の床が広がっていた。地方の小さな町から上京してきた涼介にとって、この部屋は、まだ「自分の場所」ではない。ただ、新しい人生の始まりを告げる、無機質な箱でしかなかった。


 引っ越しの手続きを終え、涼介は机とベッドを組み立てる。プログラミングで培われた、長くて骨ばった指は、不器用ながらも着実にネジを締めていった。汗が額からこめかみへと一筋流れ落ち、少し日焼けした肌にまとわりつく。時刻はもう夕暮れ時。開いた段ボールからは、本とパソコン、そして最低限の衣類が顔を覗かせていた。これから始まる大学生活への期待と、慣れない場所での一人暮らしへの不安が、心の中で入り混じり、ざわついている。


 そんな時、壁の向こうから、何かが床を滑るような重い音が聞こえてきた。続いて、女性の「うーん、重い!」という、少し困ったような声。涼介は、思わず手を止めて耳を澄ませる。それは、引っ越し作業で家具を動かしている音のようだった。すると、壁一枚を隔てた隣の部屋から、軽やかな鼻歌が聞こえてきた。それは、涼介が幼い頃に母がよく歌っていた童謡だった。その懐かしいメロディは、張り詰めていた涼介の心を少しだけ緩めてくれた。


 作業を再開しようとしたその時、廊下から大きな物音が響いた。慌ててドアを開けると、隣の部屋のドアの前で、一人の女性が倒れた段ボールに埋もれていた。その女性は、肩にかかるくらいの柔らかい茶色のボブで、少し乱れた髪の間から、ぱっちりとした大きな瞳がこちらを見上げていた。


「大丈夫ですか?」


 涼介が声をかけると、彼女は「あ、ごめんなさい!」と、白い肌を少し赤らめて起き上がる。その時、彼女の柔らかな髪から、甘いシャンプーの香りが涼介の鼻腔をくすぐった。それは、埃っぽい部屋の匂いとは全く異なる、新しい匂いだった。


「あの、よかったら手伝いましょうか」


 涼介の不器用な申し出に、彼女はぱっと笑顔を見せた。その笑顔は、涼介の心を一瞬で明るくする力を持っていた。


「ありがとうございます! 助かります! 私、春奈って言います! 同じ大学の、情報工学科です!」


 春奈の言葉に、涼介は驚いて目を見開く。まさか、同じ学科の人間が隣の部屋に住んでいるとは。涼介の骨ばった指が、彼女の小さな段ボールを掴む。二人の視線が交錯し、一瞬の沈黙が流れた後、涼介は小さく頷いた。


「涼介です。俺も、同じ学科です」


 壁一枚を隔てた出会いは、こうして始まった。


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### 第2話:最初の共同作業


 五月の風は、少しだけ温かみを帯び、新緑の匂いを運んでくる。キャンパスの木々は眩しいほどに葉を茂らせ、涼介と春奈の大学生活は本格的に始まっていた。


 情報工学科の必修科目「プログラミング基礎論」の授業で、グループ課題が発表された。三、四人のグループを組むように教授から促され、涼介は戸惑いながら周囲を見渡す。人見知りで口下手な彼にとって、グループを組むことはいつだって高いハードルだった。そんな涼介の横に、春奈がふわりと歩み寄る。


「ねえ、涼介くん。私と組まない?」


 にこりと笑う春奈の提案に、涼介は驚いて目を見開いた。彼女の髪からは、相変わらず甘いシャンプーの香りが漂ってくる。涼介が言葉を詰まらせていると、春奈は「隣人同士、協力しましょ!」と明るく言い、強引にグループを組んだ。


 課題に取り組むため、二人は涼介の部屋で会うことにした。パソコンが三台並んだ無機質な机を前に、春奈は少し緊張した面持ちで座っている。部屋にこもった新しい機械と、専門書が並んだ本棚から漂う紙の匂いに、春奈は涼介という人間がどんな世界に生きているのかを肌で感じた。涼介は不器用ながらも、プログラミング言語について丁寧に説明する。彼の骨ばった指がキーボードを叩くたびに、カチャカチャと規則的な音が響き、それは春奈にとって心地よいBGMとなった。


 作業は深夜に及び、二人は息抜きに大学の電算室へ行くことにした。真夜中の電算室は、独特の雰囲気に満ちている。複数のサーバーが稼働する冷却ファンの重低音の轟きと、わずかに焦げ付いたようなオゾンが混じった特有の匂い。その無機質な空間で、二人は隣り合わせに座り、互いの将来の夢について語り合った。涼介は、将来AIの研究者になりたいという熱い想いを、不器用な言葉で語る。春奈は、彼の寡黙な優しさの裏に、誰にも負けない情熱があることを知った。


「すごいね、涼介くん。ちゃんと、やりたいことがあるんだね」


 春奈が素直に尊敬の念を口にすると、涼介は少し照れたように俯く。そして、春奈の瞳の奥にある、漠然とした将来への不安を涼介は感じ取った。言葉には出さないが、彼女の表情のわずかな変化から、彼の観察力は彼女の心を読み取っていた。


 夜明けが近づき、二人は課題を無事完成させた。涼介は達成感に満ちた表情で、春奈は疲労と安堵が入り混じった顔で、互いに見つめ合う。この共同作業を通じて、二人の関係は「隣人」から、互いを深く理解し、支え合う「友人」へと確かな一歩を踏み出した。そして、その友情が、やがて特別な感情へと変化していくことを、二人はまだ知らなかった。


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### 第3話:心の距離を縮める時間


 六月に入ると、雨の日が増えた。しとしとと降り続く雨音は、大学の講義中も、アパートの部屋にいる時も、涼介の耳に静かに響いている。共同課題を終えてからも、涼介と春奈の交流は続いていた。大学の図書館で隣り合って自習をしたり、夕食を一緒に買いに行ったり。そんな何気ない日常が、涼介にとってはかけがえのない時間になっていた。


 ある雨の日の夕方、春奈が小さなタッパーを手に、涼介の部屋のドアを叩いた。


「涼介くん、よかったらこれ、一緒に食べない? 作りすぎちゃって」


 差し出されたタッパーからは、醤油とみりんの甘い香りが漂ってくる。涼介の部屋に、温かい料理の匂いが広がるのは初めてのことだった。春奈は涼介の部屋に慣れた様子で上がり込み、小さなテーブルの上にタッパーを並べる。普段は無機質なパソコンと専門書に囲まれている部屋が、彼女の存在と温かい料理の匂いで、まるで別世界のように感じられた。


 箸を手に取り、春奈が作った肉じゃがを口に運ぶと、懐かしい故郷の味が口いっぱいに広がった。涼介は黙って頷き、もう一口、と食べる。その温かくて優しい味が、彼の心を満たしていく。


「口に合ったみたいでよかった」


 春奈は涼介の表情を見て、嬉しそうに微笑んだ。涼介は不器用な笑顔を浮かべ、「…美味しい」と呟いた。その一言に、春奈は心から喜んでくれた。二人で向かい合って食事をする。それは、孤独な一人暮らしでは感じられない、温かな時間だった。


 その日の夜、春奈の部屋で彼女の友人とオンライン通話をした。画面越しに、涼介の存在に気づいた友人は、冷やかしの言葉を投げかける。


「あれ、春奈の隣にいるの、もしかして彼氏さん?」

「違うよ! 大学の友達で、隣の部屋に住んでる涼介くん!」


 慌てて否定する春奈の声に、涼介は少しだけ心がざわついた。そして、自分の不器用な優しさが、春奈を困らせているのではないかという不安に駆られた。春奈は、そんな涼介の心情を敏感に察した。通話を終えた後、彼女は涼介の部屋へと戻り、彼の少し日焼けした手に、彼女の透き通るような白い手を重ねた。


「ごめんね、涼介くん。気まずかったよね」


 柔らかな春奈の手の感触と、彼女から漂う甘い香りに、涼介の心臓はいつもより速く脈打つ。それは、友人としての感情では片づけられない、はっきりとした胸の高鳴りだった。春奈もまた、涼介の誠実で穏やかな瞳をのぞき込み、彼の熱い体温を感じ、それがただの友人に対する感情ではないことを自覚した。


 雨音が響く静かな部屋で、二人は初めて、互いを異性として意識した。この温かくも切ない時間が、二人の友情の終わりと、新しい愛の始まりを告げていた。


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### 第4話:夏の日の小旅行


 七月。大学は夏休みに入り、照りつけるような強い日差しがアスファルトを揺らめかせていた。六月の雨音が嘘のように晴れ渡った空の下、涼介と春奈は日帰りで海辺の町へ行くことにした。


 熱気を帯びたホームを抜け、電車に乗り込む。窓から差し込む日差しは強く、涼介は少し眩しそうに目を細めた。隣に座る春奈は、白いノースリーブの涼しげなワンピースを着ている。普段、キャンパスで見慣れたカジュアルな服装とは違う、女性らしいその姿に、涼介は不意に心を奪われた。


 電車が走り出すと、窓から吹き込む風が春奈のボブヘアをふわりと揺らす。甘いシャンプーの香りが涼介の鼻腔をくすぐった。二人は大学での講義や研究の話をしながら、他愛もない時間を過ごす。この日常とは少し違う非日常の空間が、二人の距離をさらに縮めていくようだった。


 目的の駅に着き、海へと続く道を歩く。人波が押し寄せる砂浜は、潮風の香りと、たくさんの人々の賑やかな声で満ちていた。サンダルを脱ぎ、熱を帯びた砂の感触を足の裏に感じながら、二人は波打ち際を歩く。波が寄せては返すたびに、足元が冷たい水に濡れ、それがまた心地よかった。


 その時、小さな貝殻につまずいた春奈が、不意によろけた。


「あっ……!」


 涼介は考えるよりも早く、とっさに彼女の手を掴んだ。骨ばった涼介の硬い指が、春奈の柔らかく、ひんやりとした掌に触れる。その指先から伝わる繊細な感触に、涼介の胸は高鳴った。


「大丈夫か?」


 涼介の声に、春奈は顔を赤らめて頷く。二人の手は、しばしの間、つないだままだった。それは、友達としての触れ合いとは明らかに違う、特別な触れ合いだった。


 帰りの電車の中、昼間の疲れからか、春奈は涼介の肩にもたれて眠ってしまった。穏やかな寝息と、彼女の髪から香る甘い匂いが涼介を包む。涼介は、そっと彼女の髪を指で梳いた。普段の明るい笑顔の奥に隠された、無防備で繊細な春奈の姿。彼女のすべてを自分だけのものにしたい、という独占欲にも似た感情が、涼介の心に芽生え始めていた。


 この旅は、ただの思い出に終わるわけではない。涼介は、眠る春奈の姿を見つめながら、この小さな旅が、二人の関係を次の段階へと進める、決定的な一歩になることを確信していた。


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### 第5話:友情の終わり、愛の始まり


 夏が終わりを告げる九月。まだ残暑は厳しいものの、吹き抜ける風にはどこか秋の気配が混じり始めていた。しかし、涼介と春奈の間に流れる空気は、季節の移り変わりとは無関係に、張り詰めて冷たかった。


 春奈は、大学の研究室で取り組んでいた実験に失敗し、大きなショックを受けていた。彼女の部屋からは、いつもの明るい鼻歌も、料理をする楽しげな音も聞こえてこない。ただひたすらに、静寂が支配していた。涼介は何度もメッセージを送ったが、既読にはなるものの、返信はなかった。彼女の繊細さを知っている涼介は、どう声をかけていいかわからず、ただ心配するばかりだった。


 その日の夜、涼介は思い切って春奈の部屋のドアを叩いた。しかし、返事はない。もう一度、少し強めにノックをする。それでも、やはり音沙汰はなかった。涼介は、自分が彼女の心を傷つけてしまうのではないかと恐れ、その場で立ち尽くしていた。しかし、壁の向こうにいる春奈の存在を思うと、このまま引き下がるわけにはいかなかった。不器用な自分にできることは、言葉ではなく、ただ彼女のそばにいることだと信じていた。


 もう一度、今度はゆっくりと、静かにドアを叩く。すると、内側から小さな鍵の回る音がした。重いドアが、ゆっくりと開く。


 そこに立っていた春奈の顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。潤んだ瞳は赤く腫れ上がり、彼女の白い肌は痛々しいほどに荒れていた。涼介は何も言わず、ただまっすぐに彼女を見つめた。その誠実な瞳に、春奈は、ずっと張りつめていた糸が切れるのを感じた。


「りょう、すけくん……」


 春奈の震える声を聞き、涼介は迷わず彼女を強く抱きしめた。春奈の細い肩が彼の胸の中で震える。涼介は不器用な手で、彼女の柔らかい髪をそっと撫で、背中を優しくさすった。彼の腕の中で、春奈は彼の頼りがいのある胸板と、安心できる温かい体温を感じた。それは、言葉よりも雄弁に、涼介の気持ちを彼女に伝えていた。


「大丈夫だよ」


 涼介の口から絞り出されたのは、ありきたりな一言だった。しかし、その声は、春奈の心に深く、深く響いた。


 彼女は、彼が本当に求めていた「支え」であると確信した。これまで、友人として、隣人として、互いを尊重してきた二人の関係は、この抱擁を境に、完全に終わりを告げた。そして、その終焉は、二人の間に新しい愛が芽生えたことを意味していた。互いの気持ちを言葉にしなくても、その心と体が強く求め合っていることを、二人ははっきりと感じていた。


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### 第6話:恋人としての新しい日常


 夏の暑さが過ぎ去り、秋風が心地よく吹き始める十月。涼介と春奈の関係は、少しずつ、しかし確実にその形を変えていた。


 恋人として最初の日、涼介は大学のキャンパスで春奈を待っていた。着ていたのは、いつもの地味なTシャツとジーンズではなく、春奈が以前「涼介くんに似合いそう」と言っていた、少し明るい色のシャツだった。不器用ながらも春奈の好みに合わせようとする涼介の姿に、春奈は嬉しそうに微笑んだ。


「そのシャツ、すごく似合ってる!」


 春奈の言葉に、涼介は少し照れくさそうに顔を赤らめた。


 二人の部屋の間の壁は、もはやただの壁ではなく、いつでも行き来できる特別な扉になった。涼介が春奈の部屋を訪れると、料理の甘い香りに包まれ、彼女の生活感が涼介の孤独な心を温める。春奈が涼介の部屋に入ると、パソコンや専門書が並ぶ無機質な空間に、彼の真面目さや情熱を感じ取り、愛おしさを募らせる。


「涼介くんの部屋、なんか落ち着くね。パソコンの匂いがする」


 春奈が涼介の部屋の匂いを嗅ぎ、笑った。涼介は、春奈の存在が自分の部屋を、そして自分自身を温かいものにしてくれていることを感じていた。


 大学の帰り道、二人は自然と手をつないでいた。涼介の骨ばった手が、春奈の柔らかい手を包み込む。その感触は、一度知ってしまえばもう離せないほど心地よかった。人通りが少ない道では、涼介が春奈の肩を抱き寄せたり、春奈が涼介の腕にそっと頭を乗せたりした。そんな些細なスキンシップのたびに、二人の胸には温かく、穏やかな感情が満ちていった。


 講義が終わると、涼介は自然と春奈の部屋に立ち寄り、春奈は涼介の部屋で課題に取り組んだ。同じ屋根の下、壁を隔てた二つの部屋は、もはやお互いにとってかけがえのない場所となっていた。恋人としての何気ない日常が、二人の絆を確かなものにしていく。それは、特別なイベントがなくても、二人の間に流れる空気が、すでに特別なものへと変わった証だった。


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### 第7話:それぞれの家族との時間


 十二月に入り、街はクリスマスに向けて煌びやかな装飾で彩られ始めた。冬の冷たい空気が肌を刺すようだった。大学の冬休みが始まり、涼介は春奈に地元の実家に帰省することを提案した。春奈は少し緊張した面持ちで、しかし嬉しそうに頷いた。彼女の笑顔を見て、涼介の胸に温かいものが込み上げてきた。


 新幹線を降りると、そこは涼介が育った、静かで雪深い町だった。都会の喧騒とはまるで違う、どこか懐かしい空気が二人の頬を撫でる。涼介の父と母が駅まで迎えに来てくれていた。涼介の不器用な優しさが、彼の両親から受け継いだものだと春奈はすぐに気づいた。言葉は少ないが、春奈を迎える両親の温かい眼差しに、彼女の緊張はみるみるうちに解けていった。


 実家に着くと、涼介の母は春奈を温かく迎え入れ、手作りの料理をたくさん振る舞ってくれた。食卓を囲みながら、涼介の幼少期の思い出話に花が咲く。少年時代、口数が少なく、不器用だった涼介が、どれほど家族に愛されて育ってきたかを春奈は知った。涼介が時折見せる、ぶっきらぼうな優しさや、寡黙な誠実さは、この温かい家庭で育まれたものなのだと、春奈は確信した。


 夕食後、母が涼介と春奈の二人に温かいココアを淹れてくれた。ココアの甘い香りが部屋に満ちる中、涼介の母は春奈に微笑みかける。


「涼介、昔から口下手でね。でも、好きなものには真っ直ぐだった。あなたといる涼介を見ていると、本当に安心するわ。涼介の隣にいてくれて、ありがとう」


 その言葉は、春奈の心に深く、深く響いた。それは、涼介の隣にいる自分の存在価値を認められたような、温かい承認だった。と同時に、涼介を守ってあげたいという、まるで母親のような感情が湧き上がってくるのを感じた。


 冬の冷たい空気の中、涼介と春奈の絆は、家族という温かい場所で、より確かなものになった。それは、恋人としての結びつきを超え、二人がお互いを生涯のパートナーとして見つめ始める、大切な時間となった。


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### 第8話:初めての夜、身体の記憶


 一月。冬の寒さが一段と厳しくなった夜。冷たい雨が窓を叩く音が、静かな部屋に響いていた。期末試験を終えた涼介と春奈は、春奈の部屋で二人、毛布にくるまりながら映画を観ていた。暗い部屋の中、スクリーンの光だけが二人を照らしている。映画の音と、雨音。そして、互いの呼吸が、心地よく混ざり合っていた。


 映画が終わると、部屋には雨音だけが残った。春奈は涼介の腕の中で、彼の心臓の穏やかな鼓動を聞いている。涼介は、春奈の柔らかい髪から漂う甘い匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、彼女の存在を全身で感じていた。二人の間に流れる空気は、これまでの温かく穏やかなものとは異なり、どこか熱を帯び、重みを増していた。


 涼介が、静かに春奈の顔を覗き込む。春奈もまた、彼のまっすぐな瞳を見つめ返した。互いの視線が交錯した瞬間、涼介はゆっくりと彼女の唇にキスを落とした。それは、戸惑いと、確かな愛を込めたキスだった。春奈は目を閉じ、そのキスを受け入れる。互いの吐息が混じり合い、熱がじんわりと伝わっていく。


 涼介は春奈を優しく抱きしめ、そのままベッドに横たわる。春奈は、彼の腕の中で震えながらも、その温かい体温に身を委ねた。涼介の骨ばった指が、彼女の顔の輪郭を優しくなぞる。春奈は、彼が自分を大切に扱おうとしてくれていることを感じ、さらに胸が熱くなった。春奈は、涼介の視線を意識し、彼に選んで欲しいと思って身につけていた、シックな黒のレースがあしらわれたインナーウェアを、彼が目にするのを待っていた。


 涼介は、春奈のインナーウェアに触れた。柔らかな素材が指先に触れた瞬間、春奈の身体がびくっと跳ねる。涼介は、彼女の反応を確かめるように、さらに優しくインナーウェアのレースをなぞった。春奈は、彼の触れる場所全てに、電流が走るような感覚を覚えた。


 互いの服を脱ぎ、初めて肌を重ねた瞬間、涼介は、春奈の透き通るような白い肌の柔らかさに息をのんだ。彼の少し日焼けした肌とは対照的で、その違いが、二人の体をより強く引き合わせた。互いの心臓の鼓動が一つになるのを感じる。涼介は、春奈の小さな吐息や震える声を聞きながら、彼女の体の中に深く沈んでいった。


 行為中、涼介は春奈の表情や身体の反応を敏感に感じ取っていた。彼の腰の動きに合わせて、春奈の白い肌が赤く染まっていく。春奈もまた、涼介の真剣な眼差しから、彼が自分を心から愛してくれていることを感じ、彼の力強い動きに合わせて、何度も身体を震わせた。互いの体がぶつかるシーツの擦れる音だけが、二人の愛の営みを物語っていた。


 すべてが終わった後、二人は互いを強く抱きしめ合った。肌に残る温かさと、身体の奥に残る満たされた感覚。それは、単なる快楽ではなく、心と体が完全に一つになったという深い実感だった。二人は、言葉を交わさなくても、互いがどれほどかけがえのない存在になったかを、はっきりと理解していた。


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### 第9話:すれ違う二人


 四月、大学は三学年へと進み、新たな生活が始まった。涼介は研究室に配属され、春奈は就職活動を本格的に開始した。それぞれの夢に向かって走り出した二人の間に、いつの間にか、目に見えない溝が生まれ始めていた。


 涼介は朝早くから研究室にこもり、夜遅くまでパソコンと向き合う日々。新たな研究テーマに没頭する彼の部屋は、以前にも増して機械の無機質な匂いが強くなっていた。深夜になっても消えない涼介の部屋の明かりを見て、春奈は心配しつつも、どう声をかけていいかわからなかった。


 一方、春奈も慣れない就職活動に追われ、心が休まる暇がなかった。面接の準備、企業研究、そして慣れないスーツ姿での移動。足の裏には、靴擦れの痛みがじんわりと広がっていた。疲れ果ててアパートに帰ると、すぐにでも涼介に会いたかったが、彼の部屋からはいつも、カチャカチャとキーボードを叩く音だけが響いてくる。


 ある日、久しぶりに二人で夕食をとることになった。春奈は、少しでも涼介を癒してあげたいと、彼の好きなハンバーグを作った。しかし、涼介はハンバーグに手をつけず、スマホの画面に目を落としたままだった。


「涼介くん、聞いてる?」


 春奈が不安げに尋ねると、涼介はハッと顔を上げた。


「ごめん、ちょっと論文のことが気になって」


 その一言に、春奈の心は凍り付いた。ハンバーグを前にした涼介の、冷めた眼差し。そこには、以前のように自分を見つめてくれる温かい光はなかった。多忙な彼を理解したいと思う反面、自分を後回しにされているような孤独感に苛まれた。


「……なんか、最近の涼介くん、冷たい」


 春奈の言葉に、涼介の表情が一瞬にして険しくなる。


「忙しいんだ。わかってくれよ」

「わかるけど……でも、私だって」


 言葉が、互いの心をすれ違っていく。これまでなら、不器用ながらもすぐに謝ってくれたはずの涼介は、疲労からか、いつになく言葉が荒くなっていた。そして、春奈もまた、心に溜まっていた不満を感情的にぶつけてしまった。


 些細な口論は、やがて二人の関係に決定的な亀裂を入れた。


「もういいよ……」


 春奈の震える声を聞き、涼介は何も言えなかった。互いに部屋に戻り、ドアを閉める。壁一枚を隔てて隣にいるのに、二人の心は、遠く離れた場所にあるように感じられた。


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### 第10話:誕生日、そして見つめ直す愛


 六月。梅雨の時期が再び訪れ、空は鉛色に淀んでいた。九月の喧嘩から、涼介と春奈の間に深い溝ができていた。互いに隣の部屋にいるのに、壁一枚がまるで万里の長城のように、二人を遠く隔てている。


 その日は、春奈の誕生日だった。


 涼介は、そのことを知っていた。彼女の誕生日を祝ってあげたい気持ちと、喧嘩したままの気まずさが心の中で激しくせめぎ合っていた。一日中、研究室にこもっていても、彼の心は春奈のことでいっぱいだった。このまま何もせずに一日を終えるわけにはいかない。不器用な涼介は、意を決して、春奈のために何かをしようと決意した。


 彼は研究室を早めに切り上げ、近くのスーパーに立ち寄った。慣れない手つきで生クリームとスポンジ、イチゴをカゴに入れる。そして、家に帰り、不器用ながらも一生懸命、手作りのケーキを作り始めた。イチゴの甘酸っぱい匂いが、無機質な部屋に広がる。ケーキが完成すると、彼は次に、春奈への想いを綴った手紙を書き始めた。言葉を紡ぐのは苦手だが、文字にすることで、自分の気持ちをまっすぐに伝えられる気がした。


 日付が変わり、真夜中を過ぎた頃。涼介は、手紙を添えたケーキを抱え、春奈の部屋のドアの前に立った。手を伸ばし、ドアを叩こうとするが、躊躇してしまう。もし、また言い争いになったら。もし、このケーキを拒否されたら。そんな不安が、彼の心を支配していた。それでも、彼の指はゆっくりと、そして力強く、ドアを三度叩いた。


 ドアが開くと、そこに立っていた春奈の顔は、驚きと、そして悲しみで満ちていた。その瞳は赤く腫れ上がり、涼介は自分がどれだけ彼女を傷つけてしまったのかを、改めて痛感した。


「……誕生日、おめでとう」


 涼介はそう言って、ケーキを差し出す。春奈は無言でそれを受け取ると、涼介の手紙に目を落とした。そこに綴られていたのは、これまで言葉にできなかった、彼の正直な気持ちだった。すれ違っていた間の孤独、彼女の存在の大きさ、そして、もう一度やり直したいという切ない願い。


 手紙を読み終えた春奈の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。


「…ありがとう、涼介くん」


 彼女はケーキと手紙をテーブルに置くと、涼介に駆け寄り、強く抱きついた。二人の間にあった壁は、この瞬間、完全に崩れ去った。春奈は、彼の胸に顔を埋め、震える声で言った。


「大切なのは、一緒にいる時間そのものだったんだね……」


 この出来事をきっかけに、二人はもう一度、自分たちの愛を見つめ直した。それは、物理的な距離や心のすれ違いを乗り越え、互いの存在が揺るぎない支えであることを再確認する、大切な時間だった。


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### 第11話:再確認する絆


 六月の雨が、また窓を濡らしていた。春奈の誕生日に見つめ直した愛は、二人の間にできていた溝を少しずつ埋めてくれた。しかし、まだ完全に元の関係に戻ったわけではなかった。互いの心には、一度すれ違ったことによる小さな傷が残っている。涼介は、あの日の自分の言葉を後悔し、どうすればいいか分からずにいた。


 その日の夜、涼介は思い切って春奈の部屋を訪れた。ドアをノックする彼の指は、少し震えていた。中から「どうぞ」という春奈の小さな声が聞こえ、涼介はゆっくりとドアを開ける。部屋の中には、夕食を終えたばかりの春奈がいた。部屋に漂う料理の匂いが、少しだけ彼を安心させた。


「あのさ、話がしたい」


 涼介が口を開くと、春奈は黙って頷いた。二人は向かい合って座り、静かに話し始めた。涼介は、研究と就職活動でいっぱいいっぱいになっていたこと、そして、それによって春奈を傷つけてしまったことを正直に話した。彼の口から語られる、不器用な後悔の言葉に、春奈の瞳から涙がこぼれ落ちる。


「私、寂しかった。涼介くんが、遠い世界に行っちゃうみたいで……」


 春奈の震える声を聞き、涼介は迷わず彼女を抱きしめた。彼女の細い肩が彼の腕の中で震え、涼介の心臓は激しく脈打つ。


「ごめん。絶対に、もう二度と寂しい思いはさせないから」


 その夜、二人は再び肌を重ねた。それは、以前の情熱的な行為とは少し違っていた。涼介の骨ばった手が春奈の柔らかな肌を優しくなぞる。春奈は、彼が触れる場所全てに、心からの愛を感じた。互いの鼓動と吐息が混じり合い、言葉を必要としない対話が始まった。


 涼介は春奈の体を、春奈は涼介の体を、五感を通して知っていく。互いの心の傷を癒すように、その行為は優しく、そして深く、二人を包み込んだ。それは、心と体が完全に一つになったという深い実感だった。


 すべてが終わった後、二人は互いを強く抱きしめ合った。この衝突を乗り越えたことで、二人の絆は揺るぎないものとなった。もう、どんな困難が待ち受けていても、互いがそばにいれば大丈夫だと、二人は確信していた。


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### 第12話:分かれ道の選択


 十月。大学のキャンパスを、晩秋の冷たい風が吹き抜ける。枯葉が舞い、二人の心もまた、どこか冷え冷えとしていた。四年間の大学生活も終わりに近づき、涼介と春奈の就職活動は、それぞれが内定を獲得するという形で一つの区切りを迎えていた。


 涼介は、地元にある大企業から内定をもらった。それは、彼が地方から上京した時からの夢だった。内定通知書の硬い紙を手に、彼は達成感と安堵で胸がいっぱいになった。すぐに春奈に伝えたい気持ちでいっぱいだった。春奈もまた、東京のベンチャー企業から内定をもらっていた。彼女の創造性とコミュニケーション能力を高く評価してくれた企業だった。喜ばしいはずのニュースだった。


 その日の夜、二人は互いの部屋で内定の喜びを分かち合った。しかし、次の瞬間、喜びは不安へと変わった。


「涼介くん、おめでとう。じゃあ、地元に帰るんだね」


 春奈の声が、かすかに震えていることに涼介は気づいた。彼の内定先は地元に本社を置く企業であり、春奈の内定先は東京の企業だ。二人の進路が、別々の都市になってしまった。それは、遠距離恋愛という、新たな試練を意味していた。


 隣の部屋で、いつも通りの生活を送りながら、二人の心は、初めて遠く離れた場所にあるように感じられた。


 次の日、二人は真剣な話し合いを始めた。大学の片隅にある、人通りの少ないベンチに座り、互いの将来について語り合う。


「春奈は、本当にその会社で働きたいんだよね?」


 涼介は、不器用ながらも、春奈の夢を尊重したいという気持ちを込めて尋ねた。春奈は、力強く頷いた。


「うん。私のやりたいこと、全部詰まってる。……でも、涼介くんと離れたくない」


 春奈の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。その言葉に、涼介の胸は締め付けられるように痛んだ。彼は、自分の夢と、春奈と離れたくないという本音の間で激しく揺れ動いた。春奈の夢を諦めさせて、自分についてきてくれとは言えない。かと言って、彼女の夢のために、自分が諦めることもできない。


 互いの手を握り締めながら、言葉は途絶えてしまった。喜びに満ちたはずの就職活動が、二人の関係にとっての最大の試練となってしまったのだ。


 この問題は、単なる進路選択ではなかった。「一緒にいること」が、二人の人生における最大のテーマとなった。秋の冷たい風が、葛藤する二人の心を冷たく撫でていく。


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### 第13話:思い出巡りの旅


 二月。春の訪れを待ち望む寒さの中、大学生活の終わりを目前に控え、涼介と春奈は二人で卒業旅行に出かけた。それは、就職という未来の選択を前に、これまでの四年間を振り返り、互いの絆を再確認するための旅だった。


 旅の目的地は、二人が初めて日帰り旅行に行った、あの海辺の町。少し冷たい潮風が二人の頬を撫でる。涼介の骨ばった手が、春奈の柔らかい手をしっかりと握る。あの日、手をつないで歩いた砂浜を、二人はゆっくりと、一歩一歩確かめるように歩いた。


 次に訪れたのは、二人が初めて共同課題に取り組んだ大学の電算室。もちろん中には入れないが、窓の外から中の様子を窺う。あの冷却ファンの重低音と、オゾンが混じった特有の匂いを思い出す。それは、彼らが初めて「個」ではなく「二人」として目標に向かった場所。無機質な空間で交わした熱い夢が、二人の関係の原点だった。


 旅の途中、二人は初めて海に行った時に買ったキーホルダーが付いたUSBメモリを、ノートパソコンに差し込んだ。中には、四年間で撮り溜めた二人の写真が収められていた。大学の授業風景、友人たちとの飲み会、雨の日のカフェ、そして、二人が密かに愛を育んだ部屋での日常。写真を見るたびに、その時の感情や感覚が鮮やかに蘇る。


 笑顔で映る春奈の横顔を見て、涼介は不意に涙がこぼれそうになった。隣で笑ってくれる彼女の存在が、自分の人生をどれほど豊かにしてくれたかを、改めて痛感する。


「……ねえ、涼介くん。私ね、この四年間、涼介くんと出会ってから、一番幸せだったよ」


 春奈の言葉に、涼介は何も言えなかった。ただ、強く、彼女の手を握り返すことしかできなかった。


 旅の終わり、駅のホームで電車を待つ間、二人の間には遠距離になることへの不安が再びよぎった。しかし、これまで乗り越えてきた数々の困難と、写真に収められたたくさんの思い出が、二人の心を強く結びつけていた。互いの存在が揺るぎない支えであることを確認し合った二人は、不安を抱えながらも、未来へと進む覚悟を決めた。


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### 第14話:葛藤と決断


 三月。卒業を目前に控え、大学生活もいよいよ終わりを告げようとしていた。涼介と春奈は、それぞれが掴んだ内定を手に、互いの夢と、共にいる未来との間で激しく葛藤していた。涼介は春奈のために、春奈は涼介のために、内定を辞退することも頭をよぎっていた。しかし、相手に夢を諦めさせることへの葛藤が、二人の心を重く締め付けていた。


 その日の夜、涼介は意を決して春奈を自分の部屋に呼び出した。部屋の中は、無機質なパソコンの音だけが響き、張り詰めた空気が漂っていた。涼介は春奈をまっすぐに見つめ、これまでの感謝と、彼女への深い愛情を言葉にした。


「春奈と出会って、俺の人生は変わった。ただ研究をしていればいいと思っていた俺に、春奈はたくさんの温かさを教えてくれた。だから、春奈の夢を、俺が奪うわけにはいかない」


 春奈は涼介の言葉に、涙をこぼしながら頷く。彼の不器用な優しさが、痛いほど胸に響いた。彼女もまた、涼介の情熱的な夢を心から尊敬していた。だからこそ、自分のために彼に夢を諦めさせたくなかった。


 互いに言葉を交わし、思いをぶつけ合った後、涼介はゆっくりと春奈の手を握った。彼の骨ばった手が、春奈の柔らかな手を包み込む。その感触は、二人の心を落ち着かせ、再び一つにした。


「ねえ、春奈。俺たち、どっちかが夢を諦める必要はないと思うんだ」


 涼介の言葉に、春奈は驚いて顔を上げた。


「俺は、春奈と一緒にいるために、二人で新しい道を探そうと思う」


 涼介はそう言って、一つの計画を語り始めた。それは、二人の専門知識を活かし、卒業後、小さなスタートアップを立ち上げるという、突拍子もない提案だった。春奈の創造性と彼のプログラミング技術があれば、きっと二人で一つの大きな夢を叶えられる。


 涼介の瞳には、かつて研究に没頭していた時と同じ、熱い光が宿っていた。しかし、その光は、もう彼一人だけのものではなかった。春奈の存在が、彼の夢を、より大きなものへと導いていた。


 涼介の言葉に、春奈は涙を流しながら頷いた。この瞬間、二人の将来は、それぞれの夢を追うことではなく、二人で一つの夢を築くことに決まった。二人は、固く手を取り合い、新たな一歩を踏み出すことを誓い合った。


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### 第15話:新たな一歩


 三月。穏やかな春の光が差し込むゼミ室で、涼介と春奈は黙々とパソコンに向かっていた。互いの胸に秘めた夢を諦めるのではなく、二人で一つの夢を築くという決断をしてから、彼らの毎日は一変した。それは、就職活動というレールから外れ、未知の道を二人で歩き始める覚悟の表れだった。


 涼介の机の上には、専門書と論文の山に混じって、新しいビジネスプランの企画書が置かれている。彼は持ち前のプログラミング技術を活かし、新しいサービスの骨子を構築していた。カチャカチャと響くキーボードの打鍵音は、もはや焦燥の音ではなく、未来を切り拓く希望の音に変わっていた。


 一方、春奈の机には、デザインソフトが立ち上がった大型ディスプレイと、手書きのスケッチブックが広げられている。彼女はサービスのロゴデザインやユーザーインターフェースを考案していた。その表情は真剣そのもので、涼介はそんな春奈の横顔を見るたびに、胸が熱くなるのを感じた。


 ある日の午後、作業の合間に涼介がふと春奈に尋ねた。


「なあ、不安じゃないのか?」


 春奈は涼介の方を振り返り、にこりと笑った。


「もちろん、不安だよ。でも、涼介くんが隣にいるから大丈夫。それに、涼介くんがすごく楽しそうで、私も嬉しい」


 春奈の言葉に、涼介は心から安堵した。彼女は、彼の不器用な優しさを理解し、彼の夢を尊重してくれる。この温かい支えがなければ、自分はこんな大胆な決断はできなかっただろう。


 卒業式の日。二人は、それぞれの家族や、ゼミの友人にこれからの計画を語った。周囲は驚きながらも、二人の決断を温かく見守ってくれた。ゼミ室の窓から差し込む夕日は、彼らの門出を祝福するように、二人の未来を明るく照らしていた。


 大学生活の終わりが、二人だけの新たな物語の始まりとなった。春の温かい風が吹く中、二人は手を取り合い、新しい生活へと一歩を踏み出した。


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### 第16話:永遠の約束


 四月。桜の花びらが舞い散る季節。涼介と春奈は、新しいアパートの一室で、共に新生活を始めていた。小さな部屋は、涼介の研究スペースと春奈の作業スペースに分けられ、プログラミングとデザインの資料が混在している。埃っぽい匂いは消え、新しい生活の匂いが満ちていた。


 二人のスタートアップの計画は順調に進んでいた。それぞれの得意分野を活かし、協力して一つの夢に向かっていく日々は、大学生活で経験したどの時間よりも充実していた。二人の間に言葉がなくても、同じ目標に向かって進んでいるという確かな感覚が、互いを強く支えていた。


 ある日の午後、涼介は春奈を連れて、二人にとって特別な場所へと向かった。それは、四年前、初めて出会ったあの古いアパートだった。


 年季の入った鉄骨階段を上り、二人はそれぞれの部屋の前に立った。涼介は201号室の、春奈は202号室の、壁を見上げる。壁を隔てて生活音が響いていた日々、初めての共同作業、夏の旅行、そして、二人の心をすれ違わせた喧嘩。すべての思い出が、鮮やかに蘇ってきた。


「ここに、君がいたから。俺は、変われたんだ」


 涼介は春奈の方を振り向き、まっすぐな瞳で彼女を見つめた。その眼差しは、初めて会った時と同じ、誠実な光を宿していた。


「私の方こそだよ。涼介くんが隣にいてくれたから、私は強くなれたんだ」


 春奈の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。


 涼介は跪き、ポケットから小さな箱を取り出した。箱の中には、シンプルだが美しい指輪が収められている。


「春奈、俺と結婚してください。これからも、ずっと俺の隣にいてほしい」


 涼介の言葉に、春奈は嗚咽を漏らしながら頷く。彼女の指に、涼介の骨ばった手がゆっくりと指輪をはめる。その瞬間、二人の心臓の鼓動が一つになり、互いの体に温かい電流が走った。


 二人は、これまでの紆余曲折を乗り越え、隣人、恋人、そして生涯のパートナーとして、夫婦になることを決意した。大学生活の終わりが、新しい二人の物語の始まりとなった。春の陽射しの中、二人が手を取り合い、新しい生活へと歩み出す姿を描いて物語は幕を閉じた。


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隣に、君がいたから 舞夢宜人 @MyTime1969

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