SCENE#84 Feel The Benefit 〜夢をあきらめない君へ

魚住 陸

Feel The Benefit 〜夢をあきらめない君へ

第一章:沈黙の部屋





ミオは、古い木造アパートの片隅で、今日もまた、深くため息をついた。使い古されたスケッチブックと、もう何年も触れていないアコースティックギターが、まるで忘れ去られた宝物のように置かれている。






かつては絵を描くことと歌うことに情熱を燃やしていたミオだったが、現実は容赦なく、今はアルバイトを掛け持ちしながら、ただ日々の生活を送るのに精一杯だった。部屋の隅の光も、どこか鈍く見えた。





「はぁ……これで本当に良かったのかな。私って、何してるんだろう…」




スマホの画面には、SNSのフィードが流れている。かつての美術大学の友人が個展を開いたという投稿が目に留まる。彼女の絵は、どこか魂を揺さぶるような力があり、見る者の心に深く訴えかけるものがあった。ミオは、その友人の作品の隣に、彼女自身の描いた絵が、いつか並ぶ日を夢見ていた。





「あの子はすごいな…才能がある人は違う。私なんか、もう何も描けないし、歌う気力もない…」





大学時代、大きなデザインコンペに出品したものの、結果は惨敗だった。その時、ミオは自分の才能の無さを改めて痛感し、絵を描くことが怖くなった。友人と自分を比べては、彼女がどんどん上達していくのに、自分は停滞している気がして苦しかった。何より、生活のためのアルバイトで時間も費用も捻出できず、夢を諦めざるを得なかった。





絵筆を握る時間も、新しい弦を買うお金も、そして何よりも「自信」が、今のミオには欠けていた。夢は遠い過去の残像となり、日々の忙しさに紛れて、その存在すら忘れかけていた。ミオの部屋は、情熱を失った心と同じように、静かで、そして少し冷たい空気に包まれていた。窓の外からは、賑やかな街の音が聞こえてくるが、ミオの心には届かない。まるで、自分だけが世界から切り離されているような感覚だった。






第二章:誘いのポスター




ある日のアルバイト休憩中、ミオはふと、壁に貼られた小さなポスターを見つけた。白と黒のシンプルなデザインに、力強い筆跡でこう書かれていた。





「あなたの中のクリエイティブを解き放つ!ワークショップ参加者募集!」





その下には「Feel The Benefit」という見出しが大きく躍っていた。ワークショップの内容は、具体的な技術指導というより、参加者それぞれの「心の声」に耳を傾け、それを表現する手助けをするというものらしい。ミオは一瞬ためらった。





「何言ってるのよ…どうせ私には無理だよ。今さら何ができるっていうの?」





そんな諦めの感情が頭をよぎる。けれど、ポスターの隅に書かれた「初回体験無料」の文字が、なぜかミオの背中をそっと押した。





「でも、まぁ無料なら……ちょっとだけなら、いいかな。もしかしたら、何か変わるかも…」





失われた情熱の小さなかけらが、再び鼓動を始めたような気がした。もしかしたら、このポスターが、停滞していた日常に変化をもたらす、ささやかなきっかけになるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、ミオはスマホでワークショップの予約ページを開いた。ミオの指が震えた。





「本当に、これでいいのかな……」





最終的に「申し込む」ボタンを押すと、少しだけ、胸の奥が温かくなったような気がした。






第三章:解放の場所




ワークショップの会場は、商店街の裏路地にある、古い倉庫を改装した場所だった。恐る恐る中に入ると、木の温もりを感じさせる空間が広がり、天窓からは柔らかな光が差し込んでいた。壁には、抽象的ながらも見る人の心を惹きつけるような、様々な作品が飾られている。講師は、白髪交じりの穏やかな女性、白井さんだった。彼女の瞳は優しく、それでいて深い洞察力を秘めているように見えた。






「皆さん、今日はようこそ。講師の白井といいます。ここでは、絵が上手になる必要も、歌が上手になる必要もありません。ただ、あなたの『感じるまま』を表現すること。それだけが大切です。さあ、皆さんの今日の気分を、自由に色で表現してみましょうか!」






白井さんの言葉は、ミオの凝り固まった心を少しずつ解き放っていくようだった。ミオは、久しぶりに絵の具を手に取った。最初は戸惑い、思うように筆が動かなかったが、次第に筆が走り始める。描いたのは、混じり合った様々な色。それは、不安や諦め、そして、かすかな希望が入り混じった、今のミオの心そのものだった。





隣では、粘土をこねていた男性が、ミオの絵を見て話しかけてきた。彼の名はミノルといった。





「素敵な色ですね。何だか、生命力があるというか……」




ミオは驚いた。




「え、そうですか?自分では、ただごちゃごちゃしてるだけだと思ってました…」




「いや、それがいいと思います。正直な感じがしますよ。僕は、以前は完璧な形ばかり追い求めていたけど、今はただ感じるままに作ることの喜びを知りました。これも、このワークショップに参加したおかげです」





他の参加者たちも、それぞれの方法で自由に表現していた。若手のダンサー、サクラは、体が思うように動かせないと悩みを語りながらも、音楽に合わせて自由に身体を揺らすことで、表現の多様性を見せてくれた。




「この体でも、こんなに心が躍るんだって、初めて知ったのよ!」




定年退職した元教師の三枝さんは、ずっと書きためていた詩を震える声で朗読し、言葉の奥深さを教えてくれた。彼の朗読が終わると、全員が静かに拍手をした。彼らの表現に触れるたび、ミオは、表現することの自由さ、そして、それが生み出す共感の温かさを感じていた。





「ミオさんのこの色、すごく力強くて好きだな!」




「あなたのそのギターの音色、心に染みるわ!」




――参加者同士が互いの作品に送るポジティブなフィードバックは、ミオが自信を取り戻す上で大きな後押しとなった。ワークショップが進むにつれ、ミオは少しずつ、しかし確実に変わっていった。以前は灰色ばかりだったパレットに、鮮やかな赤や青が自然と加わるようになった。描かれる線も、以前より迷いがなく、力強く見えた。






第四章:恩恵の光




ワークショップも終盤に差し掛かった。ミオは、初めて描いた絵を見つめていた。あの時描いた混沌とした色の中に、今は、かすかな光が灯っているように見えた。ミノルさんが、ミオの隣にそっと座った。





「ミオさん、この絵、とてもいいですね。それに初めて来た時と、表情が全然違いますよ?」





「そうですか?けれど自分では、まだ自信が持てなくて……」





「自信はね、表現を続けることで、少しずつ育っていくんですよ。僕にもね、ずっとそんな時期があったんですよ。完璧な作品を作ろうとして、手が止まってしまった。でもね、やめなかった。なぜなら、表現することは、呼吸することと同じだから。表現するというのはね、自分の心と向き合うことなんですよ。そして、それを誰かに見せることで、初めて自分自身を認めることができるんです。そうすれば、あなたはきっと『Benefit(恩恵)』を感じられるはずですよ!」






その言葉は、ミオの心の奥底に響いた。そして、ワークショップ最終日。ミオは、ゆっくりと立ち上がり、ずっと埃をかぶっていたギターを手に取った。しばらく触っていなかったそのギターは、ミオの指先が弦に触れると、懐かしい音が響いた。緊張で指先が震えた。声も震えた。





「あの、今日私、歌います。ずっと、誰にも聞かせられなくて、でも、今日は、歌いたいです!」





ミオは歌い始めた。下手でもいい。声が震えてもいい。ただ、今の自分の心を、ありのままに歌った。最初は歌詞を追うだけだったけれど、自然と心は歌っていた。歌い終えたとき、ミオの目からは、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみの涙ではなく、何かが解放されたような、温かい涙だった。ワークショップの参加者たちが、温かい拍手と優しい眼差しを送ってくれた。





「よかったよ!ミオさんの歌、すごく心に響いた!」ミノルさんが声をかけた。





白井さんも満面の笑みで言った。




「素晴らしいわ!ミオさん。素敵だったわよ!」





その瞬間、ミオは心の中で確信した。





「ああ、これが、Feel The Benefitなんだ…」





第五章:繋がる未来




ワークショップが終わってからも、ミオは絵を描き続け、ギターを弾き続けた。以前のようにアルバイトは忙しかったけれど、ミオの心は、以前よりもずっと穏やかで、そして、力強くなっていた。表現することの喜びを知ったミオは、以前には感じられなかった充実感を日々味わっていた。





もちろん、また絵筆が重く感じられる日もあった。ギターの弦に指が届かないような、停滞感に襲われる日も。そんな時、ミオはワークショップでのミノルさんの言葉や、白井さんやサクラ、ハルキたちの真摯な姿を思い出した。自分の描いた絵を眺め、あの時歌った曲をもう一度口ずさんでみた。すると、不思議と心が軽くなり、再び筆を握る気力が湧いてきた。






アルバイトで疲れたはずの帰り道、ふと見た夕焼けが、以前よりもずっと鮮やかに見えた。道端の小さな花や、カフェで流れる音楽も、以前とは比べ物にならないほど美しく感じられた。これも、表現する心がミオにもたらしてくれた「Benefit」かもしれなかった。





ある日、ミオは、友人の個展に足を運んだ。会場には、様々な絵が飾られていた。どの絵も、友人の情熱と努力が詰まっていた。友人がミオに気づき、駆け寄ってきた。





「ミオ!来てくれてたんだね!どうだった?私の絵」





「すごく良かったよ!やっぱり、才能あるんだね、あなたは。実は私も、また絵を描き始めたんだ。今度は、ちゃんと続けていきたい…」





友人は、驚いたような顔をしてから、にっこりと微笑んだ。




「本当!?嬉しい!ねえ、今度一緒に描かない?」





「うん!描こう!」





ミオは、もう自分の作品を誰かに見せることを恐れてはいなかった。完璧じゃなくてもいい。ただ、自分の心を表現する。それ自体が、何よりも尊いことだと知ったからだ。






部屋の窓から差し込む朝日は、かつてないほど輝いて見えた。沈黙の部屋に響くのは、もうため息ではなく、希望に満ちた創作の音。ミオの未来は、無限の可能性を秘めたキャンバスのように、輝き始めていた。





「完璧じゃなくていい。私だけの『Benefit』を、これからも見つけていく。だって、私の心は、まだこんなに色鮮やかなんだから!さあ、次は何を描こうかな。もっとたくさんの『Benefit』を見つけたい!私だけの『Benefit』を…」


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