コーヒー・ブレイキング

そうざ

Coffee Breaking

 陽光柔らかな真冬の昼下り、原稿に一段落を付けた私はシガローネの手巻き煙草を灰皿へ起き、いそいそと至福の支度に取り掛かった。

 今日は、シティローストで焙煎されたインドネシア産のカロシトラジャ。当然、ブラックだ。深みのあるコクと香り、キレの良い上品な酸味と苦味、その絶妙なハーモニー。まろやかでいて厚みのある芳醇な味わい。遠いの地で額に汗して労務に勤しむプランテーション農家の日に焼けた肌に思いを馳せ、感謝の意を表すのを忘れてはならない。これが私の美学であり、矜持であり、拘りである。

 チェスターフィールド製のソファーに深々と身を任せ、豊饒の香りを愉しみながらティファニー製のマグカップを口に――運ぼうとしたその時、視界の隅で何かが動いた。

 黒光りした小さな物体が、絨毯の上をササッと移動して行く。それは見紛う事なく、国内でも五十種余りが生息していると言われる、節足動物門、昆虫綱、ゴキブリ目に分類される、掛け値なしの、正真正銘の、天下御免のゴキブリだった。

 この上ない一時ひととき闖入ちんにゅうして来た、禍々まがまがしい異物。脂ぎった体躯から張り出た触角をゆらゆらと震わせる、季節外れの嫌らしい訪問者。この星の日常空間に於いて彼奴きゃつ程に忌み嫌われて来た存在が他にあろうか。

 私は視線をゴキブリに固定しながら、一旦口に近付けたカップをそっとテーブルに置き、ゆっくりとカッシーナ製のデスクの方へ移動した。

 職業柄、高級机の上には常に書籍だの書類だのが乱雑に積まれている。その中から汚しても構わない紙の束を選び取り、しっかりと筒状に丸め、即席の武器を完成させた。

 息を殺したまま再びゴキブリの元へ戻る――と、そこにそれは居なかった。

 私は、彼奴の触覚のように慌しく周辺を見渡した。そこでピンと来た。素早くうずくまり、カール・ハンセン&サン製のテーブルの下を覗き込んだ。案の定、そこに居た。

 筒状の武器を棚の下に差し入れて突っ突くと、彼奴は一目散に逃げ出して来た。透かさず一撃を食らわすべく後を追う私。

 ――ガツッ!――

 立ち上がろうとした瞬間、後頭部がテーブルの縁に激しくぶつかった。私が帰国子女であれば、ここぞとばかりに“Ouch!アウチッ”と声を上げるところだが、パスポートすら取得した事がないのに海外事情通を気取って外国文学の翻訳も出掛けている、生まれも育ちもバスの時刻表がすっかすかのど田舎の人間なので、“Hagya!はぎゃっ”と何語なのかも判然としない造語で痛みを表現していた。ついでにぶつけた後頭部をさすっておいた。

 そんな事は扨置さておき、脱兎の如く目の前を横切ったゴキブリがソファーの下へ潜り込んで行くのが見えた。

 直ぐ様ソファーの下へ武器を捻じ込もうとしたが、テーブルと違ってほとんど隙間がなく、全く入って行かないので、仕方がなくソファーを動かしに掛かったが、想定外の重さにびくともせず、これは日頃の運動不足の所為せいか、それとも加齢が理由なのか、前者だとしたら三日坊主のまま止めてしまったジム通いを再開すべきか否か、始めるとしたら大安吉日が良いのか、しかし後者が理由だとしたら今更ジム通いを再開したところで無駄なので、暫くは経過観察とばかり保留しておくのが得策と言えない事もなきにしも非ず、ありをりはべりいまそかり、ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー、おりもの吸収サラサーティ。

 そんなこんなで取り敢えず平穏な日常に帰投しようかと思った矢先、彼奴は逃げ込んだのとは全く別の方から姿を現した。

 私は、手放していた武器を慌てて持ち直し、追い掛けようとした。が、爪先つまさきがソファーの角に引っ掛かり、宙を泳いでつんのめってしまい、約一秒程度の滞空後、テーブルに手を突き、間一髪で顔面強打の惨事を回避した。

 と、思った次の瞬間、手を突いた衝撃でテーブル上のカップからコーヒーがわずかながら跳ね跳び、右手の中指と薬指の間の、河童ならば水掻きが付いている箇所に熱い飛沫がぴしゃっと、もとい、ぴちゃっと掛かった。

 私は声にならない奇声を発しながらその場で飛んだり跳ねたり、翻筋斗もんどりを打ったり、でんぐり返しをしたりし、その勢いですねがテーブルの脚に直撃。生誕時以来の金切かなき産声うぶごえを上げて駆け回る私。

 激痛の最中、見たいような、でも見るのが怖いような、自らの脛の傷をうっかり見てしまった私は、そこにヘモグロビンの色を認識してしまい、一気にパニックへと雪崩れ込んだ。

 傷の惨状を目の当たりにしてしまったが為に激痛が更なる激痛を呼ぶのは世の常であるからして、私は却ってじっとして居られなくなり、これが本当の居ても立っても居られない状態だなと思いながら、取り敢えずけんけん・・・・でぐるぐる自転していると、輸入壁紙を貼った壁に黒い点がへばり付いているのを視認してしまった。

 彼奴である。

 ゴキブリである。

 御器嚙ごきかぶりの誤記である。

 ここで会ったが百年と一分二十三秒目。私は片足で兎気取りでぴょんぴょん跳ねながら猪気取りで猪突猛進。これで最後だおしまいだと振り上げた腕の先に武器を所持していない事にはたと気が付いた。

 掌でじかにゴキブリを叩き潰すという事は――言い知れぬ弾力とぬめりとを併せ持ったおぞましい感触、鼓膜を舐るかの如く響き渡る嫌らしいつぶおん、皮膚を犯しかねない粘性を秘めてほとばしる体液、拭っても洗っても掌紋しょうもんの奥底にまで残留し続ける忌まわしい死臭――心の奥底に悪夢の具現のトラウマ的傷痕を刻む事は間違いない。風が吹けば桶屋が儲かる、の逆を行くような最悪の連想に囚われた私は、鳥肌と寒疣贅さぶいぼを半分ずつ立てながら壁に顔面を激突させた。

 とっくに十三回忌を済ませた祖父母の手招きがちらつく中、あろう事か、身の危険を察知してテイクオフした彼奴が不穏な羽音が耳元を掠めたものだから、私はあわや失神寸前から失禁秒読みへと連れ戻された。

 辺りを這いずり回っている時は単純な嫌悪感をもよおさせるだけの卑近な存在だった癖に、人類誕生の遥か以前からこの星に君臨していた生物の底意地を発揮せんと飛び回った途端、一転して恐怖の対象と変化へんげする生命力バイタリティー

 私は、其処そこら中の手に取れる物ならば何でも手に取って盲滅法めくらめっぽうに投げ付けた。その中の何かが見事に彼奴に命中し、彼奴が落下したような、しなかったような、『あいつはキレたら恐い』で専らの評判だった苛められっ子時代のテンションで狂乱していた私にはよく判らなかった。

 それよりも、カルティエ製かと思って購入したが実は単なる模造品に過ぎなかった置き時計がデスク上の偽バカラ製の灰皿にぶち当たり、まだわずかにくすぶっていたなんちゃって・・・・・・シガローネ煙草が書き掛けの原稿用紙に引火してしまったからさあ大変。

 火だ火だ飛騨だ火っ煙もくもく雲くもっ警察予備隊か自衛隊呼んで来てっ陸海空纏めて来てっ駄目なら国防軍っ大名火消しっ町火消しっゴホゴホッウホウホッ狒々ひひっゴリラッチンパンジー棒々鶏バンバンジーッ水水水水っ焼け石に年寄りの冷水っ向こうっ向こう見ずっH2Oっ思い出がいっぱいもう一杯っ何でも良いから体液持って来てっメタノールでもエタノールでもガソリンでもおしっこでも精液でも良いからぶっ掛けてっサイレン来たーッウ〜ウ〜ッ野次馬っ尻馬っ竈馬カマドウマっウ〜ウ〜ッ!!



 幸い火事は程なく鎮火した。

 消防と警察のねちねちとした事情聴取に応えさせられた後、お騒がせのお詫びがてら隣近所に菓子折りを配った。偶々愛読者から送り付けられた貢ぎ物の食べ残しがあったからである。しかも、クッキー、フィナンシェ、マドレーヌの焼き・・菓子セットだったので、火事の詫びにはおあつらえ向きだったのである。

 焦げ臭い書斎は台風一過の如き有り様だったが、幸い原稿は無事だったし、テーブル上のカップもその中身も無事だった。

 そうかっコーヒーを火にぶっ掛けてやれば良かったんだぁあはははっ後の祭りアフターフェスティバルと大笑し、本来ならば温かいのを淹れ直すところだが今の気分にお似合いなのは冷めたコーヒーだったので一気にあおった。

 ――ンゴッ、ンゴッ、ンゴッ――

 冷たい液体が食道を流れ落ちて行く感覚が心地好い。アイスでもカロシトラジャは充分にその芳醇な味わいを愉しませてくれる。こんなコーヒー・ブレイクもたまには良いものだ。やはりコーヒーはブラックに限る。これが私の美学、矜持、拘り、プランテーション農家さん、サンキュー。

 カップの底が見え始め、残り一口をずずっとすすったその瞬間、コーヒーとほぼ同色の亡骸なきがらが舌の上に滑り込んだ。

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