エピローグ
※
病院泊用の荷物を取りに行くという姉さんを家まで送り、その後また病院へ送ったあと、ぼくは58号線を、北に向かって車を走らせていた。死に場所を探すためだった。変な話だけど、ぼくはそうすることが、楽しみだった。ぼくは適当な場所を探して走り続けた。その途中で着信音が鳴った。麻凪からの電話だった。車を路肩に駐車して、携帯を手に取った。
「もしもし?」ぼくは言った。
「どう? 男の子の容態は」
「大丈夫だったよ。たった今、麻凪に電話しようと思ってたんだ」
自分の口からそんなにも滑らかな嘘が出てきたことが不思議だった。よかった、と麻凪が言った。
「ありがとう、麻凪のおかげだよ」
「ううん、竺が頑張ったからだよ」
ぼくは何も答えなかった。
「でね、明日朝一で、こっち出ようと思うんだ」
「そっか」
「だから昼過ぎには、そっちに着けると思う」
「そっか」
「っていうか今、平気? 話せる?」
「話せるよ」
「あのね、あの本のことなんだけどね」麻凪は言った。「確かに、わたしがああいう宗教めいた本を読んでたことは事実だよ。そしてあの本と、今回の旅行が関係あることも確か。でもね、順番が違うんだよ。っていうのもね、いつか、優衣が言ったことがあったの。奄美の海に行きたいなって。わたしは優衣に、奄美のことを話した記憶がなかったから、すごくびっくりしたんだけど、優衣は確かにそう言ったんだ。そしてわたしは約束した。パパと三人で、いつか必ず行こうねって。奄美はパパのパパの、故郷だからねって。だからあの本を読んだから、奄美に行きたいって思ったわけじゃないんだよ。順番が逆なんだよ。それはわかってくれた?」
「わかったよ」
気が付けば夕陽に変わりつつある太陽が、辺り一体をクリーム色に染め始めていた。けれど、ぼくは何も思わなかった。
「でね、これは少し言いづらいんだけど……」
何も言わずにぼくは待った。
「たとえもしも、その順番が逆じゃなかったとしても、わたしは、同じように思った気がしてるんだ。それにね、ああいう本に書いてるようなことを信じてる人たちを、わたしは竺のように、批判的な目で見ることは、やっぱりできないと思う。もちろん、竺の言うことはわかる。ああいう本を読む人たちは、自分での物事の選択や、決断を放棄してるっていう考えは。そこにはいくらかの自惚れや、怠惰があるんじゃないかって、わたしだってそう思う。だからわたしもそういう人たちのことを、どこかで遠ざけてるのかもしれない。事実わたしにあの本を勧めてくれた人のことも、それまではそうしてたし、今でもそういう部分があることは否定できないし……。でもね、逆に自惚れや怠惰がない人なんて、いるのかなってわたしは思う。そういう意味じゃ、その人よりも、わたしの方がずっとだめだって思う。だってその人、すごくいい人なんだよ? 多少とっつきにくいだけで、一度仲良くなってみると、周りの誰よりもずっとずっと親切で、穏やかで、押し付けがましくなくて、いい人なの。いろいろと話してみてそのことがわかったの。結構前にもう、死んじゃったけどね……。だから本当に責められるべきなのは、そういう人の心に付け込んで、利用しようとする人のことであって、その人たちじゃないんじゃないのかなってわたしは思う」
そうだね、とぼくは言った。まさにその通りだったからだ。
数拍間を置いたあとで麻凪が言った。「あとね、まだ言わなきゃいけないことがあるんだ」
「何?」
「あのKっていう少年の妹さんからね、手紙が来たの」
「……会ったのか?」
麻凪は質問に答えなかった。
「その手紙をね、まずは竺にも、読んでみてほしい」
今度はぼくが何も答えない番だった。
「ごめんね黙ってて。怒ってる?」
「怒ってないよ」ぼくは言った。「でも、おれにそんなこと、できるわけがないだろう?」
息を吸ったあとに麻凪が言った。「わたしはね竺、前に進みたいの。その子はね、わたしたちよりも、ずっとずっと辛い経験をしてきてるみたいなの。手紙でそのことを、思い切って告白してくれた。そしてその子もわたしと同じように、必死で前に進みたがってるの。直接は書いてなかったけれど、その手紙を読んで、わたしはそう思ったの。そしてそれを読んでくれれば、竺もきっと同じことを感じ取ってくれるって思ってる」そこで麻凪はまた息を吸い込んだ。「ねえ竺、竺も知ってるでしょ? あの公園の生花のこと。いつからか、飾られ始めたあの花のこと。あれってね、ずっとその子が、お供えし続けてくれてたんだよ? 花を毎日替えるわけにはいかなかっただろうけど、でも枯れないように、水だけは毎日毎日、替えに来てくれてたんだよ? だからってわけじゃないけど、わたしはあのKって子を、ううん、少なくともKの妹さんを──」
ぼくは麻凪に最後まで言わせなかった。花の件を聞いた瞬間、予想外にも大きく揺さぶられてしまった感情を抑えつけるべく、自分に言い聞かせるように語気を強める。「おい麻凪、優衣はな、死んだんだ。まだたったの三歳だったってのに。そいつのくだらないシンナー中毒の兄貴に轢き殺されて……。いいか麻凪、あいつはな、優衣をはねたとき、笑ってたんだ。笑ってたんだぞ? へらへらと笑いながら逃げて行ったんだ。おれはちゃんとそれを目撃したし、他に目撃した人間だってそう言ってるんだ。おまけに刃の太いカッターナイフまで隠し持ってたって言うじゃないか。だからそいつの妹ってやつに、何をどう吹き込まれたのかは知らないが、そんな手紙、絶対におれは読まないぞ。そんなものは結局、言い訳の手紙でしかないからだ。自分の不幸をでっち上げて、してしまったことを正当化するような、所詮言い訳の手紙なのにもかかわらず、そんなことは一言も書いてないような、たとえ書いてたとしても、表立ったポーズにしかすぎないような、薄汚い手紙でしかないからだ。なあ、そうだろう? だいたい手紙を出すって行為自体がその証拠じゃないか。花の件だってそうだよ。なぜ自分が供えてたってことを、ばらす必要があるんだ? それはな、パフォーマンスだからだ。そんなものはな、結局テクニックでしかないんだよ。心がなくたってできることなんだ」
落ち着くために大きく息をついてから、ごめん取り乱した、とぼくは言った。麻凪は何も答えなかった。
「なあ麻凪」ぼくは言った。「結局はみんな、自分のことしか考えてないんじゃないのか? みんな優衣のことを、忘れたがってるだけなんじゃないのか? なかったことにしようと、そうしようとしてるだけなんじゃないのか? その妹ってやつも、お前も、おれも、みんな優衣がいなかったことにして、この先自分だけが幸せになろうとしてる。違うか? なあ、違うのか?」
麻凪は何も答えない。
「だから、いや、だからこそおれにはできないよ、そんなことは。あのKってやつを許すことも、優衣を忘れてしまうことも、前に進むことも、したくは、ない」
深呼吸一つ分の時間を置いたあとで、ささやくような、でもはっきりと意思の込められている声で、違うよ、と麻凪が言った。
「わたしたちは、忘れたくないから進むんだよ。優衣はもうわたしたちの前から姿を消してしまったけれど、でも、幸せな記憶を残していってくれた。そうでしょ?」
ぼくは砂浜で見た、優衣が生まれたときの夢のことを思い出した。幸せな記憶。二度とは繰り返すことのできない、退屈で、ありふれた、かけがえのない奇跡。ぼくは大声で叫びだしてしまいたい気持ちをぐっと押し殺し、麻凪の声を聞き続ける。
「その記憶を、きっとわたしたちは、忘れないために進むんだよ。生きていくんだよ。だってわたしたちが死んじゃったりしたら、その記憶までもが一緒になくなっちゃうじゃん。だからその記憶を守るために、わたしたちは、生きていけばいいんじゃないのかな。そして同じことが、もう二度と起こらないようにするために……。もちろん、そんなに大したことはできないかもしれないけれど、でも、そういう風に考えて生きていけば、もしかしたら、いつか自分でも考え付かなかったような、何かとんでもないことができるかもしれないし、とんでもない何かが、起こるかもしれない。少なくともわたしたちにできる何かは、確実にあると思う。だからそれを探し出して、成し得るために生きていくんだよ。ねえ竺、そういう生き方も、あるんじゃないのかな。決して幸せになりたい想いが、一番なわけじゃない、そんな風な生き方が……」
もしかしたら麻凪はぼくが死のうとしていることに気が付いたのかもしれないと思ったが、確認はしなかった。──ふと、優衣の声が聞こえてきたことも言おうかと思ったけれど、やめた。何もぼくは、死ぬのを止めてほしいわけじゃないからだ。
それにね、と麻凪が続ける。「いいんだよ、きっと。幸せを感じても。悲しいことを避けられないことと同じように、生きてる限り、それはきっと避けられないものだって思うから。だからね、いいんだよ竺。幸せになっても。それに溺れなければ、大事なことを忘れてしまわなければ、きっと……ね?」
「麻凪、まさかお前、優衣もあの世でそう思ってるとかって言うんじゃないだろうな?」
何か攻撃的なことを言ってやりたくてそう言ったけれど、ぼくの声は、ほとんど消えかかっていた。
「そこまでは言わないよ」落ち着いた声で麻凪は言った。「そんなことは、結局は後付けの理由だって思うから、そこまでは言わない。でも、あえてそう考えた上で、そう『信じて』いくことは、間違ってはないんじゃないのかなって、わたしは、思う」
「……でもやっぱり、おれには無理だよ。おれはそういう風には、生きていくことができないと思う。なぜならそれすらも、自分が生き残ってゆく為の『戦略』でしかないっていう浅ましい考えを、捨て切ることが、できないからだ……それにな麻凪、おれの中から、あの日の記憶が、どうしても消えてくれないんだ。確かにあの子は、優衣は、幸せな記憶を残していってくれた。でもおれの思い出す優衣は、一番に『本当』だと思う記憶の優衣は、最後に見たあの日の、あの瞬間の優衣なんだ。あの日の……」
穏やかな声で麻凪は言った。「確かに大きな意味で見たら、今わたしが言ったことは、竺の思うように、自分が生き残ってゆく為の、生命としての、単なる戦略でしかないのかもしれないね。でもそれは、そういう風に生きてみないことには、わからないじゃない? もしかしたらその先に、何かが待っているのかもしれないじゃない? ねえ、違う? それとも竺は、簡単な方の道を選んで、それでいいの? それこそあの子の死を無駄にするような、浅ましい生き方なんじゃないの? それににね、最後に見たあの子の記憶が忘れられないのは、わたしだって同じだよ。あれが本当の優衣なんじゃないかって思うのは、わたしだって同じなんだよ。最後に見たあの、小さな棺の中で──麻凪の声は震えていた──眠っている優衣が忘れられないのは、わたしだって……。でもね、違うんだよ竺。あの子はきっと今、とっても温かくて安らげる場所に、いるはずなんだよ。そしてその場所からわたしたちを、優しく見守ってくれているはずなんだよ」
ぼくは、何も答えなかった。麻凪が、大きく息を吸い込んだ。
「ねえ竺、お願いだから、単純なイメージで物事を捉えないで。目の前のことを、ありのままに、はっきりと見てほしいの。だってそんなの、竺らしくないよ。確かにこの世には、一方的に理不尽で、不条理なことが溢れてるかもしれない。でもね、それと自分の目の前の出来事を、一緒にしちゃだめなんだよ。すべてのことは似てるけど、違うことなんだから。そのそれぞれが、ちゃんとした理由を持ってるんだから。一つとして同じなんかじゃない、原因を。なのにそこに目を向けようとしないで、周りに氾濫してる、自分に都合のいいイメージだけを当てはめて、はいそれでおしまいなんて、そんなことは、自惚れた怠け者のやることじゃないの? そして竺は、そういう人間が一番に嫌いで、なりたくないんじゃなかったの? ねえ、これはいつか、あなたがわたしに言ったことだよ? 憶えてないの?」
麻凪の話を聞きながら、おれは一体、誰のことについて必死に話していたんだろうなと思った。そう、きっとそうなんだ。これまでにぼくがしてきた批判めいた全ての発言は、他の誰でもない、ぼく自身に向けられていたに過ぎないのだ。
「最後にね、竺、もう一つだけ、言うことがあるの。その子はね、手紙を出したあと、死ぬつもりだったみたい。その子を育てた施設の人が、教えてくれたの」
「……そんなこと、自分が楽になりたかったからに過ぎないじゃないか。本当に死ぬ気があるなら、死んでから言えばいい。違うか?」
「違うよ、竺。その子はね、今、わたしの勤めてる病院に、意識不明で入院してるの。一昨日運ばれて来た、三次救急の患者さんっていうのは、その子のことなの。その子はね、中学校からの帰り道、手紙を投函したあとに、駅のホームに飛び込んだの。それに、花のことだって、彼女から聞いたわけじゃない。その施設の人から聞いて、はじめて知ったんだよ。そしてその施設の人も、彼女から聞いたわけじゃなかったの。あるとき、たまたま気が付いただけみたいなの」
ぼくはそれらの事実にさっき以上に感情を揺さぶられたけれど、必死でそれを押し隠した。
「……花のことは、そうかもしれない。でも病院のことは、わざと麻凪のいる病院に搬送されるように、知ってて行動した可能性がある。あてつけのために……そうじゃないか?」
「実を言うとね、そのことは、わたしも考えたの。でもね竺、違うんだよ。だってその子は、わたしの病院に運ばれて来るまで、三件の病院に受け入れを断られてたんだから……。それにね、その子は、普段電車を使わない環境にいたのにもかかわらず、電車に飛び込んだらしいの。迷惑をかけてごめんなさい、電車を止めてごめんなさいって書かれた遺書も見つかってるから、衝動的じゃなくて、確信的に。ねえ竺、それが一体どういうことか、予想できる? きっと彼女は、優衣と同じ痛みを背負おうとして、あえて電車って方法を選んだんじゃないのかな……」
ぼくは何も答えなかった。震える心を抑えるだけが、精一杯だった。意を決したように麻凪が続ける。
「わたしはね、竺、その子を、養子に迎え入れるつもり」
「……本気か?」
「本気だよ。その子が目覚めたら、わたしから言うつもり。もしもその子が断っても、多少強引になっても、わたしは、その子を娘として迎え入れるつもり。もしも、どうしても嫌だってことになったとしても、わたしは、その子と一生付き合ってゆくつもり。一生関わってゆくつもり」麻凪は震える息を吐いた。「……でも、正直に言うと、少しだけ、自信がない。覚悟はできてるけど、不安なの……。だから竺にも、力を貸してほしい。その子とわたしのために。優衣のために」
「偽善だよ、そんなことは……ただの自己満足でしか……」
ぼくの声は、掠れていた。
「たとえそうだとしても、かまわない。その子を幸せにすることが、その子と笑い合える人生を勝ち取ることが、あの子が、優衣がこの世に生きたことを全肯定する、唯一の方法だと、わたしはそう、信じてるから……」
大きく息を吸い込んだあとに麻凪が続ける。「それにね、わたしはやっぱり、竺のことが、好きだから。これからも竺と一緒に、生きていきたいって思うから。竺を、変わらずに愛してるから……」
「……ありがとう」
「わたしの話は、これでおしまい。返事は、明日教えて。待っててくれるよね?」
「ああ、待ってるよ」
「よかった」
ぼくはそれ以上応えずに、電話を切った。
おれは、本当に死ぬつもりなんだろうか?
麻凪には悪かったけれど、Kの妹の想いも伝わってきたけれど、暗くなるのを待って、やっぱりそうするつもりだった。
──暗くなってからだと?
思わずぼくは嗤った。そんなものなんて待たずに、今すぐに死んでしまえばいい。今すぐに。
ぼくは再び車を発進させると、アクセルを踏み込んだ。ゴムホースとガムテープを使う気は、今やもうない。それだと時間がかかるし、自殺であることが、ばれてしまうからだ。そうすると、残った者たちに、迷惑をかけてしまうからだ。ぼくはアクセルを限界まで踏みながら、自分の死をイメージした。ハンドルを切ると同時に、アクセルを踏んだまま急ブレーキをかけて、ガードレールに激突する。そうすれば、何かを避けた拍子に、事故で死んでしまったと思われるはずだ。完璧ではないが、そうすれば、事故死として扱われる可能性は上がるはずだ。ぼくはシートベルトを外そうと、ハンドルから片手を離す──着信音が鳴ったのは、そのときだった。ぼくは、助手席に放り投げていた携帯を見た。ディスプレイには、南子姉さんの名前が表示されていた。どうしようか迷ったけれど、三太君に何かあったのかもしれないと考え、反射的にスピードを緩める。不満を訴えるような音を立て、エンジンが急速に回転数を下げた。車を路肩に停めて、おそらくはこれが最後の電話になるんだろうな、とぼんやりと思いながら、携帯をスライドさせて、通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「あんた今、どこにおるん?」
「……今はね、どこだろ。北の方だけど」
「北?」
「うん、灯台のとこ」
ぼくはいつの間にか、58号線を走り終え、島の北端に位置する、灯台のある岬の、ふもとへとたどり着いていたらしかった。「それより、どうしたの?」
「……いやね、ちょっと話があって」
姉さんのかつてないほど深刻な声に、まさかと思いながらぼくは訊ねる。「ひょっとして、三太君に何か──」
「それは大丈夫。さっき目が覚めて、今はまたゲームしよるけん」
ほっとしてぼくは言った。「ならよかったけど」
少しの沈黙のあとで、思い切ったように姉さんが言った。「ねえ竺、もしかしてあんた、優衣ちゃんのこと、三太に何か、話したりした?」
「……優衣のことを?」
一瞬、息が止まった。心臓を氷のハンマーで叩かれたような感触があった。うん、と姉さんが応える。
「いや、何も」
「ほんとに?」
「ほんとだよ。どうして?」
不思議なこともあるもんやね。静かに姉さんは言った。
アクセルを踏み込んでいたときよりも、ずっと強烈な胸騒ぎを感じながらぼくは訊ねる。「……なんかあったの?」
「あのね、実はさっき、三太とちょっと話したんやけどね。あの子が言うには、溺れて気を失ってるとき、暗くて大きな、迷路みたいなところにいたらしいんよ。けど出口がわからなくて、行ったりきたりしてたらしいんだけど、そんときにね、大きなガジュマルの木の枝に、三人で並んで座ってた、体育座りの小さな赤い妖怪と、おかっぱ頭で赤いワンピースを着てる、同じくらいに小さな女の子と、中学生くらいのセーラー服を着たお姉ちゃんに、出口を教えてもらったんだって言うんよ」
胸騒ぎがより強くなったのをぼくは感じた。「……それ、で?」
「それで、無事に出口までたどり着いたときに、おかっぱ頭の女の子が、わたしのママとパパによろしくね、このお姉ちゃんと仲良くしてねって言ったらしくて」
「ねえみっちゃん、それって……」
それ以上ぼくは何も言うことができなかった。鼻の奥で何かがはじけたような、ひどく懐かしい感覚があった。
「……うん。だけど優衣ちゃんのことは、わたしも三太には何も言っとらんから、知らないはずなんやけどね。それに、セーラー服を着た女の子ってまったく心当たりがないし……聞いとる?」
「聞いてるよ」
はじけた何かが、ゆっくりと広がってゆく。ぼくはぐっとそれを飲み込んだ。姉さんが言った。
「どうしようか迷ったんやけど、なんとなく、すぐに言っといた方がよかかなって思ってね」
「言ってくれてよかったよ」
「ほんとに?」
「ほんとだよ、ありがとう」
電話を切ろうとすると、姉さんがぼくを呼び止めた。「──あ、ちょっと待って竺、そう言えば、もう一つあったの忘れとった」
「何?」
「三太が言うには、その女の子が最後に、『あともう一人にもよろしくね』って言ったらしいんやけど。何か、心当たりとかあったりする?」
「……もう、一人?」
「うん、もう一人」
──ぼくは、電話での麻凪の『ある言葉』を思い出していた。『なんだかちょっと、気分が悪いんだよね』という言葉を。再び鼻の奥で何かがはじける。
「ねえ、もしかしてわたし、余計なこと言っとらんかな」
「全然。教えてくれて、ありがとう」
「だったらいいんやけど。それはそうと、どうすると? これから」
「どうしようかな。まだ、決めてないよ」
今度はもうはじけたそれを、飲み込むことができそうになかった。だから一刻も早く電話を切ってしまいたいと、そうぼくは思った。
「また車で寝るんやったら、家に来んさいよ。どんだけ遅くなってもかまわんから。母さんに言って、泊めてもらえるようにしとくけん」
「ありがとう。そのときは、そうさせてもらうよ」
「遠慮なくそうしんさい」
「じゃあ、とりあえず切るよ。三太君に、よろしくね。きっとまた、明日会うだろうけど」
「わかった。明日は麻凪さんも一緒だったらいいけど。ぜひともお礼したいけんね」
「そうだね」
もう一度ありがとうと言ってから、ぼくは電話を切った。
老夫婦に聞いたケンムンの話。おかっぱ頭。小さな赤い体。そのあとに立ち寄った浜辺で目にした、女の子の姿。そして声。大方はゲームをしていたけれど、それらの情報を得たときに、三太君が近くにいたことは、事実だった。聞いていたとは言い切れないが、聞いていなかったとも言い切れない。だから三太君が姉さんに言ったことに対して、理由をつけようと思えば、いくらでもできる。セーラー服の少女のことだってそうだ。その可能性は、姉さんと電話をしているときから考えていた。そして今もどこかではそう考えている。いまだにはっきりとした決断を下していないとは言え、むしろそっち側の考えをぼくは支持しているのかもしれない。そんな気がする。
でもそのときのぼくは、そうじゃない側の考えを、無条件に、心から信じていた。もしかしたら、ぼくの願いを聞き入れてくれたケンムンが、優衣を連れて来てくれたのではないのかという可能性を。そしてそれによって込み上げてきた涙を、もう、どうすることもできなかった。車を降りて、急いで人気のない場所に行こうとしたのだけれど、結局間に合わず、車の窓に両手をついて、泣き始めた。もう自分ではどうしようもないほどに、大声を上げながら。ほとんど叫ぶようにしながら、延々と。涙が次から次へとこぼれ落ちてきて、止まらなかった。姉さんのあの言葉を思い出すことさえもなく、ただひたすらに、赤ん坊のようにぼくは泣き続けた。そんなに泣いてしまったのは、それこそ、生まれたとき以来初めてだった。辺りに人がいるかどうかも確認しないままに、ずい分長い間、夢中になってぼくは泣き続けた。
ようやく泣き終えると、ぼくは灯台へと続く石の階段を上り始めた。そして携帯を伸ばして、麻凪の番号を呼び出した。ぼくは、ある決意を胸に秘めていた。照れや迷いは、一切なかった。空はいよいよ、金色に輝いていた。
「もしもし」麻凪が言った。「どうかしたの?」
「麻凪、体調は平気かい?」
「え? 体調? もうとっくに気分はよくなってるけど……なんで?」
だったらいいんだ、とぼくは答えた。「だったら、何の問題もない」
変なの、と麻凪が言った。
ぼくは階段を上りきった。白い灯台と、その向こう側に広がる、東シナ海が見えた。
「なあ麻凪」
「ん?」
「さっきの電話で、優衣のことを忘れないために生きていけば、いつか、とんでもないことが起こるかもしれないって、そう言ったよな?」
「言ったよ」
ぼくは大きく息を吸った。自分の中に、この空気が吸い込まれてゆくんだと思いながら。ぼくの内側を、光り輝く金色が流れる。
「なあ麻凪。おれは初めて麻凪に会ったとき、麻凪のことを、とっても素敵な人だなって思った。もしもこんな人と付き合えたら、毎日がどんなに愉しいだろうなって思った。みんなにも自慢できるぜって思った」
「どうしたの、急に……」
笑ってぼくは続ける。「初めて麻凪の声を聞いたときに、なんてかわいらしい声なんだろうって思った。普段はクールなのに、笑うとすごく優しそうになるんだなって思った。それに、麻凪の書く字が、とても好きだ。ふとしたときに、髪を耳にかけるしぐさも、笑顔も、しっかりしてて、気が強いところも。だから優衣が生まれたときには、うらやましかったくらいだよ。こんなにも素敵な人が母親だなんて、こんなにも頼りになる人が母親だなんて。そしていつか、優衣も麻凪のような人に、成長してくれたらなって思った。嘘じゃなくて、心からおれはそれらのことを思ったし、今でもそう思ってる」
「だからどうしたのよ、急に」
「どうもしないよ」
「嘘だね、絶対どうかしてるよ。だってさっきの電話のときと、全然違うもん」
「麻凪に恋してるだけだよ」
麻凪が笑った。「ちょっと竺、寒いよ、その台詞」
「そう? それなら、こっちに来ればいいじゃないか」
もう麻凪は笑わなかった。目の前にはゆるやかな金色が漂っている。さっきよりも光り輝いているそれを、大きくぼくは吸い込んだ。九年前にプロポーズしたときよりも緊張している自分にふと気が付いて、声を出さないままに思わず笑った。そして笑ったあとで、今すぐに、麻凪にここに来てほしいんだ、と言った。
「明日じゃなくて?」
「うん、今すぐに」
「……本気で言ってるの?」
「もちろんだよ」
「でもこれからじゃ、時間的に、もう難しいよ、奄美までは」
「だったら、鹿児島まで来てくれないか。迎えに行くよ。それならまだ平気だろう?」
「そっちからの飛行機はあるの?」
「多分まだ大丈夫だと思う。もしなければ船で行く。だから遅くとも、明日の朝には会えるはずだよ」
「だけど……きっと竺は、今日あんなことがあったから、気分が昂ぶってそう思ってるだけかもしれないよ」
「そうかもしれないね。けど、それだけじゃないよ。誓ってもいい。それだけじゃない」
「竺……」
「麻凪に会いたいんだ。来てくれないか」
灯台の壁に寄りかかりながら空を見上げると、一面が金色に輝いていた。空だけでなく、海も、灯台も、ぼくも、目に見える何もかもが、きらきらとまぶしく輝いていた。そしてそれは血液に溶けて流れ込み、ぼくの内部をもまた同じように輝かせている。確かにそれを感じる。感じながら、目の前に見えるすべてに目を細めながら、来てくれないか、ともう一度ぼくは言った。
少しだけ間を置いたあとに、わかったよ、と麻凪が答えた。それからゆっくりとした、力強い口調でこう付け加える。
「すぐに行く」
【『金色が流れる』〈了〉】
金色が流れる カミュカ @kamyuka
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