色を奪う画家

@baketsumogura

色を奪う画家

# 色を奪う画家


灰谷の目に映る世界は、灰色の濃淡だけだった。色盲の画家である彼にとって、赤も青も存在しない。ただ線と影が織りなす単調な世界を、彼は鋭い筆致でキャンバスに刻んだ。その絵は、色がない分だけ形と感情の輪郭を際立たせ、ひそやかな賞賛を集めていた。


ある日、古びた骨董屋の棚で、灰谷は埃をかぶった一本の筆を見つけた。触れるものを飲み込むような奇妙な光を放つ筆だった。「これで描けば、色が見える」。どこからともなく響く囁きに、半信半疑で筆を手にすると、隣の花瓶の赤が消え、灰谷の目に初めて「赤」が宿った。


驚愕した彼は試した。街角の看板の青、子供の服の黄、夕焼けの橙――筆が触れるたび、色は世界から消え、キャンバスに鮮烈に蘇った。人々は色の記憶を失い、「赤い花」をただ「花」と呼ぶようになった。だが、灰谷の絵は「斬新な色彩」と称され、彼は一躍名を馳せた。モノクロだった自分の世界に色が宿る喜びに、筆を持つ手は震えた。


ある日、アトリエに若い男が現れた。色盲の少年、蒼太。灰谷の熱心なファンだった。「先生の昔の絵が好きでした」と彼は静かに言った。「最近の絵は色鮮やかですけど、街から色が消えてる。皆、色の名前を忘れてる。先生が奪ってるんですよね?」


蒼太も色を知らなかった。だからこそ、人々の言葉や記憶の変化に気づいたのだ。灰谷は動揺した。自分の欲望が世界から色を奪い、少年の純粋な瞳に罪悪感を映していた。「色を返して」と蒼太は言った。灰谷は震える手で、色鮮やかな絵を白黒に塗りつぶした。キャンバスから色が消え、街に色が戻った。人々は記憶を取り戻し、再び「赤い花」をそう呼んだ。


だが、灰谷は変わっていた。色を知った彼にとって、モノクロのキャンバスは虚しく、かつての情熱は色褪せていた。


---


数ヶ月後、灰谷は筆を置く決意をした。アトリエを片付けていると、蒼太が再び現れた。「先生、新しい絵を見せてください」。灰谷は苦笑いした。「もう描けない。色を知ってしまったから、白黒じゃ物足りないんだ」


蒼太は穏やかに答えた。「僕には色なんて最初から見えない。でも、先生の昔の絵には『温かさ』や『悲しさ』が宿ってた。それって、色より深いんじゃないですか?」


その言葉に、灰谷はハッとした。失ったのは色ではなく、「見る心」だった。彼は筆を握り、蒼太をモデルに描き始めた。色のないキャンバスに、確かに「何か」が宿った。灰谷は二度と色を見ることはなかった。だが、彼の後期の作品は、色を超えて人の心を揺さぶった。蒼太はその絵を見つめ、静かに微笑んだ。


色のない世界で、二人は確かに「何か」を見ていた。



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