エピローグ 私の幸福
世界から色が消えた。
あの日を境にアンの世界からは、全ての鮮やかな色彩が抜け落ちてしまった。
あれほどきらきらと輝いて見えたシュガーティアの街並みはまるで古いセピア色の、写真のように色褪せて見える。宝石のなる
味も消えた。
父が焼くパンの香ばしい匂いも、母が淹れてくれるミルクティーの優しい甘さも、その全てがまるで灰を噛むかのように無味乾燥な感触しか残さない。
彼女の
心を込めて、込めても彼女の作るお菓子が、誰かを笑顔にすることはもう二度となかった。
幸福を失った彼女には、幸福を与える力が残ってはいなかったのだ。
彼女はパン屋の
あの日砕け散った虹色マカロン《レインボー・マカロン》の残骸は、彼女の心の中に今もガラスの破片のように、突き刺さっている。
アンは抜け殻になった。
ただ呼吸をし、食事をし、眠るだけの生きる
両親はそんな彼女の姿に、心を痛め、あらゆる手を尽くした。
しかし、どんな名医も、どんな高価なお菓子も、彼女の心を癒すことはできなかった。
誰も知らないのだ。
彼女の病が、魂そのものを蝕む呪いであるということを。
そんな色のない日々が、何か月も続いた、ある日のこと。
アンは目的もなく、街を彷徨っていた。
そして無意識のうちに、彼女の足は裏社会「ビタールート」の入り口へと向かっていた。
そこで彼女は耳にした。
ごろつきたちの下卑た噂話を。
「聞いたかよ、ガレット・ファミリーの、新しい、『災厄の魔女』の話を」
「ああ。あの銀髪の小娘だろ。奴に睨まれた奴は皆破滅するって話だ」
「ビスコッティ・ファミリーのピスタチオとかいう若手もあの魔女に運気を吸い取られて破滅したらしいぜ」
―――銀髪。
―――運気を、吸い取る。
その言葉がアンの止まっていた心の歯車を、ぎしり、と軋ませた。
あの日の光景が、フラッシュバックする。
路地裏の少女。
銀色の髪。
そしてあの全てを吸い取るかのような空っぽの瞳。
自分の人生が砕け散ったあの瞬間。
偶然ではなかった。
不運でもなかった。
あれは明確な悪意を持った略奪だったのだ。
アンはその場で崩れ落ちそうになる足を、必死で踏ん張った。
なぜ?
ずっと彼女の心を支配していたその問いに、初めて答えが与えられた。
なぜならそこに奪う者がいたからだ。
そのあまりにも単純で、あまりにも理不尽な答えを理解した瞬間。
アンの心の中に初めて、絶望以外の感情が、生まれた。
それは憎悪だった。
自分の全て、奪っていった、あの少女に対する静かで、しかしどこまでも深い、憎しみの感情。
その黒い炎は、彼女に新しい生きる意味を与えた。
復讐。
あの少女を見つけ出し、そしてこの手で自分が味わった絶望の万分の一でも味あわせてやる。
アンはその日生まれ変わった。
幸福なパン屋の娘、アンは死んだ。
そしてただ一つの目的のためだけに生きる、復讐者が生まれたのだ。
彼女の行動は迅速だった。
アンはまずこれまでの自分を全て捨てた。
お洒落をするために、伸ばしていた長い髪をばっさりと切った。
色とりどりの可愛らしいドレスを全て売り払い、動きやすい地味な灰色の服に着替えた。
そして泣きながら引き留める両親に、一通の置き手紙を残し彼女は家を出た。
彼女は自ら光の世界から、影の世界へと足を踏み入れたのだ。
ビタールートの最も治安の悪い地区にある、酒場で皿洗いの仕事を見つけた。
彼女はそこで心を殺した。
夢も、希望も、何もかも全て捨てた。
ただ、情報を、集めるためだけに、彼女は、存在した。
彼女はそこで学んだ。
裏社会の言葉を。ルールを。そして生き抜くための術を。
時に厨房の片隅でゴロツキたちの会話に耳を澄まし、時に大切にしていた貞操をすべて投げ出し体を重ねた男達から聞いた。
ノワールという魔女の噂。
彼女がサブレを失脚させ、ファミリーを乗っ取った物語。
彼女がマカロン同盟を内部から崩壊させた物語。
ノワールの栄光の物語が語られるたびに、アンの心の中の憎悪の炎は、ますます強く燃え上がっていった。
あの少女の成功は、全て自分の幸福の残骸の上に築かれているのだ。
許せない。
決して許してはならない。
アンはけして表には出なかった。
ただひたすらに待ち続けた。
力を蓄え、情報を集め、そしてその牙を研ぎ澄ませ続けた。
彼女は稼いだ僅かな金で、一本のナイフを買った。
それはかつて、彼女がフルーツの飾り切りに使っていた、パティシエール用のナイフ。
彼女の失われた夢の象徴。
彼女は毎夜そのナイフをただ一つの動きで、突き出す練習を繰り返した。
来るべきその瞬間のために。
そして数年の月日が流れた。
ガレット・ファミリーがショコラトル・カルテルを打ち破り、シュガーティアの裏社会の、頂点に立ち時間が少し過ぎた頃
アンはついにその好機を掴んだ。
彼女は作り上げた偽りの経歴を使い、城と化したマカロンタワーの侍女の募集に潜り込むことに成功したのだ。
採用を告げられた日、彼女は何の喜びも感じなかった。
ただ、長い、長い、道のりの終わりが、ようやく、見えたという静かな実感だけがそこにあった。
アンは侍女として完璧にその役を演じた。
寡黙で従順で決して目立たない、その他大勢の一人として。
そして彼女は待った。
たった一人、ノワールの心に隙が生まれる、その瞬間を。
彼女が全てを手に入れ、そしてその全てが、虚しいものであると気づく、その一瞬を。
舞台は整った。
あとは最後の幕が上がるのを待つだけだった。
◇
ノワールは、一人テラスに出て眺めていた。
その視線は、眼下に広がるシュガーティアのきらびやかな夜景へ
美しいとは思った。
だがそれだけだった。
その光景はまるで、ガラスの向こう側にある精巧なミニチュア模型を眺めているかのようだった。
綺麗だ。
けれどそこに実感はない。
あれほど焦がれたはずの、全てをその手にしたというのに。
彼女の心は路地裏で飢えていたあの頃よりも、さらに深く、冷たく、乾ききっていた。
その永遠に続くかと思われた静寂を破ったのは、ごく僅かな衣擦れの音だった。
一人の侍女が、銀の盆を手にノワールのもとへと近づいてくる。
ノワールはその侍女の顔を、知らなかった。
この城には、何百人という使用人がいる。その一人ひとりの顔と名前を覚えることは、彼女の興味の対象外だった。
侍女はノワールの前で、深く頭を下げると、その盆を差し出した。
盆の上にはただ一つだけ。
まるで芸術品のように、完璧な形をした、レモンクリームのプチフールが乗せられていた。
「ノワール様。夜食を、お持ちいたしました」
その声は静かで、しかしどこか懐かしいような響きを持っていた。
ノワールはその声に促されるように、侍女の顔を見た。
灰色の地味な服、短く切りそろえられた髪。そしてその無駄な肉が削ぎ落とされた頬。
やはりノワールにその侍女の見覚えがなかった。
けれどその瞳の奥。
ノワールはその瞳の奥に宿る光の正体を知っていた。
それはかつて、自分が持っていたものと同じ。
全てを失い、そしてただ一つの目的のためだけに生きている、人間の光。
侍女はノワールの視線をまっすぐに受け止めると、静かにそしてはっきりと問いかけた。
「女王陛下。あなたは今幸せですか?」
その問いは呪いだった。
ノワールの心の最も深い部分に突き刺さる、氷の刃だった。
幸せか?
わからない。
幸せとは、なんだ?
どんな、味が、する?
どんな、色が、ついている?
どんな、温もりを、している?
わからない。
わからない。
わからない。
ノワールは答えることができなかった。
彼女の完璧な思考が、そのたった一つの問いによって完全に停止した。
その一瞬の隙。
侍女──アンは決して逃さなかった。
彼女は盆を床に落とす。
銀食器が落ち、甲高い音が響く。
その手には、1本のナイフ
かつて彼女が夢を追いかけるために使っていた、パティシエール用のフルーツナイフ。
アンはその失われた夢の刃を、ノワールの、無防備な胸へと深々と突き立てた。
肉を抉る鈍い感触。
ノワールはゆっくりと自分の胸を見下ろした。
黒いドレスがじわりと赤く染まっていく。
痛み。
熱い焼けるような痛み。
それは彼女がこの数年間で感じた、初めての、そして唯一の確かな感覚だった。
アンはナイフを握りしめたまま、涙を流していた。
その瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていく。
「私の、『幸福』を、返しなさい」
それは、絶叫ではなかった。
ただあまりにも悲しい、魂の
ノワールは、抵抗しなかった。
彼女は、ゆっくりと崩れ落ちていく。
薄れゆく意識の中で。
彼女の壊れていたはずの五感が最後の奇跡を起こした。
彼女の口の中に一つの味が広がっていく。
それはあの路地裏で、彼女がくれた。
その時はわからなかったあのマカロンの、甘酸っぱい、優しい味だった。
ああ。
これが幸福か。
ノワールの、瞳から生まれて初めて一筋の涙がこぼれ落ちた。
そして彼女の世界は、永遠の闇に閉ざされた。
後に残されたのは。
空っぽの玉座と。
泣き崩れる一人の復讐者と。
そして何も知らずに美しく輝き続ける、シュガーティアの夜景だけだった。
メルヘン・スウィートワールド ~わたしたちの甘くて幸せな世界~ 成海。 @Naru3ta
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