第15話 空っぽの玉座
時計塔の鐘が夜明けを告げていた。
シュガーティアの裏社会はその日、歴史が音を立てて変わる瞬間を目撃した。
王子が堕ちた。
『災厄の魔女』によって、その魂を砕かれた という報せは、朝霧のように裏社会の隅々まで 瞬く間に広まっていった。
そしてその報せはショコラトル・カルテルという完璧だったはずの帝国を、内側から崩壊させた。
「神」を失った信者たちは、その信仰の拠り所を失い、ただの烏合の衆と化したのだ。
カカオの《絶対魅了》という
ある者は街から逃げ出した。
ある者は自暴自棄に暴れ始めた。
そしてまたある者は昨日までの忠誠をあっけなく捨て去り新しい支配者であるガレット・ファミリーに尻尾を振った。
鉄壁だったはずの城壁は、その王冠が砕け散った、ただそれだけで砂の城のように呆気なく崩れ去っていったのである。
その大混乱の中を。
ビスキュイ率いるガレット・ファミリーは、まるで血の匂いを嗅ぎつけた飢えた狼の群れのように、冷徹に、そして効率的に進軍していた。
もはやそれは戦争ではなかった。
ただの残党狩り。
そして主を失った領地の接収作業に過ぎなかった。
カルテルの本部であったあの白亜のマカロンタワーも、僅かな抵抗の末あっけなく陥落した。
ビスキュイはかつてカカオ・ヴァレンティノが君臨していた、その宮廷のようなオフィスへと足を踏み入れる。
部屋は静まり返っていた。
ただ床に転がる高級なティーカップの破片だけが、昨夜ここで繰り広げられたであろう、王の不在による、醜い内紛の跡を物語っていた。
ビスキュイは、巨大な窓の前まで歩を進めると、眼下に広がるシュガーティアの街並みを見下ろした。
昨日までとは、全く違う景色に見えた。
この甘く美しい街が、今や自分たちの手の中にある。
彼は背後で控える部下に、短く、そして力強く命じた。
「全て接収しろ。抵抗する者は、一人残らず、掃除しろ」
「―――今日から、この街は、俺たちのものだ」
新しい王の誕生を告げるその声は、どこか、虚しく静まり返ったオフィスに響き渡った。
本当の支配者がこの場にはいないことを、彼自身が誰よりも理解していたからだった。
◇
裏社会の全てを手に入れたノワールが次に向かったのは、彼女が生まれた場所だった。
シュガーティアの光が、決して届くことのないスラム街。
その最も汚れた一角にある、今にも崩れ落ちそうな安アパート。
ノワールはその一室の扉を、躊躇なく蹴破った。
中にいたのは痩せこけた中年の男女だった。酒と薬に溺れきった、その濁った瞳が突然の、
彼女をかつて捨てた実の両親の成れの果てだった。
「……誰だ、てめえは」
父親が震える声で威嚇する。
ノワールは何も答えなかった。
ただその二人を、値踏みするようにじっと見つめる。
やがて母親の方が何かに気づいたように、息を呑んだ。
「……お前、まさか……ノワール、なのかい……?」
その名を聞いて父親の顔が、恐怖から浅ましい欲望へと変わっていく。
「おお、そうか、お前、あの、災厄の魔女……! 俺たちの、娘じゃないか! こんな、汚いところに、いないで、早く、上がってくれ! なぁ親子なんだ、少しぐらい金の援助を……」
その醜悪な言葉をノワールは最後まで聞かなかった。
彼女は背後で控えていたビスキュイの部下に短く命じた。
「……全て、奪いなさい」
「はっ」
男たちが部屋になだれ込む。
両親の絶叫が響き渡る。
彼らはその汚れた部屋を追い出された。僅かな蓄えも、家財道具も、全て差し押さえられた。そしてこの街のあらゆる仕事から締め出され、誰からも一切の施しを受けられないように手配された。
ノワールは彼らに、自分と同じ絶望を与えたのだ。
路地裏でただ飢えて、死ぬのを待つだけの未来。
彼女は泣き叫び、自分を罵る両親の姿を、ただ黙って見つめていた。
長年彼女の心を支配してきた、復讐の炎。
しかしその目的を遂げた今、彼女の心に訪れたのは完全な無だった。
喜びも、満足も、憎しみの終わりさえもない。
ただ、空っぽの心がそこにあるだけだった。
ノワールはその虚無を抱えたまま、静かにその場を後にした。
もうこのスラムに用はなかった。
◇
その場所は今や、ノワールの玉座の間となっていた。
かつて、カカオ・ヴァレンティノが、偽りの理想郷を夢見た、マカロンタワーの最上階。
がらんとした、だだっ広い部屋の中央に、
ノワールはその玉座に一人座っていた。
その小さな体には、あまりにも不釣り合いな巨大な玉座。
彼女は全てを手に入れた。
裏社会の絶対的な権力。
シュガーティアの富の半分以上。
誰にも脅かされることのない安全。
そして焦がれてきた復讐の完遂。
彼女が路地裏で夢見た全てのものが今、彼女の足元にある。
彼女は幸福になるはずだった。
ノワールはゆっくりと目を閉じた。
そしてその感情を感じようと試みた。
勝利の喜びを。
全てを手に入れた達成感を。
しかし。
彼女の心は凍り付いた湖面のように、静まり返ったまま微動だにしない。
何の感情も湧き上がってはこなかった。
他人の幸福を奪い続けたその代償。
彼女は自らが「幸福」を感じるための心の、機能を完全に失ってしまっていたのだ。
奪うことはできる。
だが自らがそれを味わうことは決してできない。
それが彼女の
ノワールは、ゆっくりと目を開けた。
そして、ガラス張りの窓の向こうに広がる、美しいシュガーティアの夜景を見下ろした。
手に入れたはずのその全てがまるで自分とは関係のない、遠い世界の作り物のように見えた。
広大な玉座の間にただ一人。
空虚な女王が君臨する。
その瞳は、路地裏にいた頃よりも、さらに深く、そして救いのない闇に満ちていた。
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