第14話 時計塔の悪夢

行前夜。

 ガレット・ファミリーのアジトは墓場のような静寂に支配されていた。

 誰もが自らの役割を果たそうとしている。銃の手入れをする男。作戦経路を再確認する男。ただ黙って酒を呷る男。しかしその全ての動きから音と感情が抜け落ちていた。

​ 彼らはこれからシュガーティアの絶対王者との最終戦争に臨むのだ。

 それは十中八九死地へと向かうことを意味していた。


 ビスキュイは、その覚悟を決めた部下たちの顔を、一人ひとり見渡していた。彼のその石のように硬い表情の下にどれほどの葛藤が渦巻いているのか誰にもうかがい知ることはできない。

 彼はファミリーの生存のために、自らの魂を悪魔に売り渡した。

だがその悪魔は今このアジトにはいなかった。


​ シュガーティアの裏路地にひっそりと佇む古い孤児院。

 その裏庭でノワールは作戦の最も重要な「駒」と対面していた。

 月明かりの下に立つその少女はフロマージュが探し出してきた奇跡だった。

 カカオの亡き妹に瓜二つ。

 痩せた体躯。大きな瞳。そしてそのどこか儚げな雰囲気。

 少女はただ寒さと恐怖にその小さな体を震わせていた。手には片方の耳が取れかかった古びたうさぎのぬいぐるみを固く握りしめている。

​ノワールはその怯える小動物のような少女に静かに近づいた。

 そして何の感情も宿さない声で告げた。


​「あなたは何もしなくていい」


​少女の肩がびくりと跳ねる。


​「ただそこにいて可哀想に震えていればそれでいい。それがあなたの仕事」


​ そのあまりにも冷たい言葉。

 それは演出家が舞台の小道具に語りかけるのと何ら変わりがなかった。

 ノワールは懐から一つキャンディーを取り出すとそれを少女の手に握らせた。


​「……これは前金。上手く演じられたらあなたが生涯お菓子に困らないだけのお金をあげる」


​金と恐怖。

 彼女が知る人間を動かすただ二つの方法。

 ノワールは少女に背を向けると闇の中で待機していたビスキュイの部下に顎でしゃくった。

 男たちは無言で少女を連れていく。


​ ノワールはその小さな後ろ姿が闇に消えていくのを見届けると空を見上げた。

 シュガーティアの夜空には今夜も星屑を散りばめたような美しい砂糖菓子の星々が瞬いている。

 街は眠っている。

 この甘く美しい街の誰もがまだ知らない。

​ 明日この街の心臓部で一人の男の魂が公開処刑に処されるということを。

 その断頭台を作り上げたのは自分自身であるという静かな実感だけがノワールの空っぽの心をを満たしていた。


​◇


​ その日シュガーティアの甘く平和な夜は唐突に引き裂かれた。


​深夜。

 街の巨大な時計塔の鐘が十二時を告げたその瞬間を合図として。

 街の東西南北四つの地区でほぼ同時に小規模な爆発と襲撃事件が発生したのだ。

 狙われたのは全てショコラトル・カルテルが管理する施設。カフェ、ブティック、そしてチョコレートの貯蔵庫。

 ビスキュイ率いるガレット・ファミリーの戦闘員たちが仕掛けた陽動だった。

 彼らの目的は勝利ではない。ただ混乱を引き起こしカルテルの戦力を街の中心部から引き離すこと。


​ シュガーティアの表層「シュガーコート」は一夜にしてパニックに陥った。平和に慣れきった市民たちの悲鳴が響き渡り無能な市の警備隊が右往左往する。

 その計算され尽くした混沌の闇に紛れて、ノワールはただ一人、作戦の最終段階を実行していた。


 彼女はあの孤児の少女の手を引き街の心臓部である巨大な時計塔の内部へとその身を滑り込ませていた。

 巨大な歯車が不気味な音を立てて回転する暗い螺旋階段を上へ上へと登っていく。

 怯える少女の嗚咽おえつだけが時計の無機質な秒針の音に混じって響いていた。

 やがて二人は塔の最上階吹きさらしの鐘楼へと辿り着いた。


​同時刻。

 ショコラトル・カルテルの本部。

 カカオ・ヴァレンティノと彼の幹部たちは次々と舞い込んでくる襲撃の報告を冷静に分析していた。


​「……やはりガレット・ファミリーの仕業ですな。猿どもが最後の悪あがきを」


​ 幹部の一人が吐き捨てるように言った。

 カカオはその報告を静かに聞いていた。その美しい顔に何の動揺の色も浮かんでいない。

 彼が部隊の配置を指示しようとしたその時だった。

​―――コン、コン。

 会議室の巨大な窓ガラスを何かが叩く音がした。

 全員の視線がそちらへと向かう。

 窓の外の闇の中に一羽のカラスが滞空していた。そしてそのくちばしには一枚のチョコレート色の便箋がくわえられている。

 幹部の一人が窓を開けると、カラスは便箋を床に落とすと再び闇の中へと消えていった。

 便箋にはただ一文だけ美しいしかし悪意に満ちた筆跡でこう記されていた。


​『時計塔にて君が救えなかった妹が再び君を待っている』


​ その文面を幹部が読み上げた瞬間、会議室の空気が凍り付いた。


​「……ふざけた挑発を……! 閣下プリンスこれは言うまでもなく罠です。我々があの魔女を駆除して参ります」


​ 幹部が進言する。

 しかしカカオは何も答えなかった。

 彼の顔からあの完璧な微笑みが完全に消え失せていた。

 そしてそのいつもは慈愛に満ちているはずの瞳の奥に、これまで誰も見たことのない静かなしかし地獄の業火のような怒りの色が燃え上がっていた。


​彼の神聖な領域。

 決して誰にも触れさせてはならない最愛の妹との思い出が今下劣な害虫によって汚されようとしている。

 彼はそれが罠であると誰よりも理解していた。しかしそれでも許すことができなかった。


​「……いや」


カカオは静かに立ち上がった。


​「庭園の最も神聖な花を踏み荒らそうという害虫は。庭師であるこの私が自らその根を絶たねばならない」


​ 彼は幹部たちの必死の制止を振り切ると、ただ一人その罠の中心である時計塔へと向かい始めた。

 王子が自ら断頭台へと歩みを進めていく。

 その破滅の舞台の幕は今静かに上がった。


​◇


​ 時計塔の鐘楼は街の喧騒から切り離された孤高の舞台だった。

 吹き抜ける夜風が巨大な鐘を低く唸らせる。眼下にはガレット・ファミリーが引き起こした偽りの混乱がまるで宝石箱をぶちまけたかのようにきらきらと広がっていた。

​ カチ、コチ、と。

 時を刻む巨大な歯車の音だけがやけに大きく響いている。


 その舞台の中央にカカオ・ヴァレンティノは一人静かに現れた。

 彼はまず鐘楼の隅でうずくまる小さな少女の姿をその目に捉えた。

 ぼろ布の服。痩せた手足。恐怖に見開かれた大きな瞳。

 その姿は彼の記憶の最も柔らかな部分を容赦なく抉った。

 カカオのあの完璧なまでに管理された表情がほんの一瞬だけ激しい苦痛に歪む。

 だが彼はすぐにその動揺を鋼の意志で押し殺した。

 そしてゆっくりともう一人の人物へとその視線を移した。

 影の中に佇む黒いドレスの少女ノワールへと。


 カカオの瞳に宿っていた慈愛の光は完全に消え失せていた。

 そこにあるのは神聖な領域を侵犯された王の絶対的な怒りだけだった。


​「これが君のやり方か」


​カカオの声は静かだった。


 しかしその静けさの奥底でマグマのような激情が煮えたぎっているのがわかった。


​「人の最も神聖な思い出を土足で踏み躙ることが」

「神聖な思い出こそ人の最も脆い弱点です」


​ノワールは平坦な声で答えた。


​「私はあなたの信じる『幸福』がいかに脆く偽善に満ちた砂上の楼閣であるかを、この街の全ての人間に証明するために来ました」

「……偽善だと?」

「ええ。あなたは幸福を与えているのではない。ただ管理しているだけ。無秩序な不幸が生まれないように人々から自由という名の牙を抜き、美しい鳥籠の中で飼育しているに過ぎない」


​ ノワールの言葉はカカオの正義の核心を正確に貫いていた。

 カカオは初めてその美しい顔に歪んだ笑みを浮かべた。


​「無秩序な自由は不幸しか生まない。君のような害虫を生み出すだけだ。私の庭園では全ての者が争うことなく等しく幸福でいられる。それこそが絶対の正義だ」


「管理された幸福など家畜の餌と同じ。奪い奪われその果てに自らの手で掴み取るものこそが本物。……あなたのその美しい庭園には本当の『生』はない」


​ 二人の視線が夜空の下で激しく火花を散らす。


決して相容れない二つの哲学。

二つの正義。


カカオは静かに告げた。

​「……問答は終わりのようだね。君という害虫はやはり私のこの手で完全に駆除するしかない」


​ノワールはその言葉を待っていたかのように答えた。


​「あなたの偽りの庭園ごと全てを喰らい尽くしてあげます」


​ もはや言葉は不要だった。

 夜風が一層強く吹き荒れる。

 時計塔の巨大な針が次の一秒を刻むその音を合図として。

 二人の規格外の祝福ギフトが今まさに激突しようとしていた。


​◇


​問答は終わった。

 先に動いたのはカカオだった。

 彼はノワールに敵意を向けるのではない。彼はその美しい顔に深い慈愛に満ちた表情を浮かべると、眼下に広がるシュガーティアの街に向かって両手を広げた。

 まるで迷える子羊たちを抱きしめるかのように。


​その瞬間。

 彼の祝福ギフト、《絶対魅了アブソリュート・チャーム》がその本来の力を解放した。

 陽動によって混乱に陥っていた街の人々の心に温かい光が灯る。


恐怖は安堵に。

不安は希望に。


 そしてその全ての感情は天上の時計塔に立つ王子への絶対的な信頼と心酔へと変わっていった。

 街中から祈りにも似た膨大な「幸福」のエネルギーが光の渦となって時計塔のカカオのその身へと集束していく。

彼の全身が黄金色のオーラに包まれる。


​「……これが私の力だ」


​ カカオはその神々しいほどの力でもってノワールの精神を直接圧殺しようと試みる。

 だがノワールは動じなかった。


​「―――ならばその全てを奪うまで」


​ 彼女もまたその小さな両手を広げた。

彼女の祝福ギフト、《幸福吸引ハピネス・ドレイン》。

 その災厄の力が初めて街全体を対象としてその牙を剥いた。

 ノワールを中心として目に見えない黒い波紋が広がっていく。


 それは幸福を喰らう波紋。

 カカオが灯した人々の心の光が端から次々と虚無に飲み込まれていく。


​希望は絶望に。

安堵は再び恐怖に。


 街のきらびやかなネオンの灯りがまるで寿命が尽きたかのように明滅を繰り返し始めた。空に浮かぶわたあめの雲がその色を失い病的なまでの灰色の塊へと変わっていく。


​「幸運」という概念そのものがこの空間から希薄になっていく。


幸運を失った機械は壊れる。

幸運を失った人間はつまずく。


 時計塔の巨大な針がぎしりと軋みを上げありえない速度で逆回転を始めた。

 鐘楼の巨大な鐘が誰が鳴らすでもなくごおおおんと不吉な音を立てて鳴り響く。


 時計塔の下ではビスキュイ率いるガレット・ファミリーとカカオの親衛隊であるカルテルの部隊との本格的な戦闘が始まっていた。


​天上では神々の戦い。

地上では人間たちの殺し合い。


 シュガーティアの心臓部で光と闇が幸福と絶望が街そのものを引き裂かんばかりに激しく拮抗していた。


 カカオの額に初めて汗が浮かぶ。

 彼の集める幸福の光を目の前の魔女がそれ以上の速度で喰らい尽くしていく。

​ 一方ノワールの鼻からつうと一筋血が流れた。

 あまりにも巨大な負の力を行使した代償。このままでは埒が明かない。互いがそれを理解した。


 この戦いを終わらせるのは純粋な力の大きさではない。

 相手の心を先に折った方が勝つのだ。


​◇


​拮抗は破れつつあった。

 先に限界を迎えるのはノワールのはずだった。彼女のその小さな体にはこの街全体の幸福と敵対するための力はない。


カカオはそれを確信していた。

あと数分。

あと数分でこの忌々しい魔女の心臓は幸福の重圧によって潰えるだろうと。


​だが彼は知らなかった。

 ノワールが用意していた本当の切り札は祝福ギフトの強さなどではないということを。

ノワールは鼻から流れる血を手の甲で乱暴に拭うと鐘楼の隅で怯える孤児の少女へとその視線を向けた。

そして悪魔のように冷たい声で命じた。


​「……言うのよ。あのセリフを」


​少女は涙に濡れた瞳で首を横に振る。

嫌だとその目が訴えていた。

 しかし彼女はノワールのその空っぽの瞳に逆らうことができなかった。

 少女は震えながらも操り人形のようにゆっくりと立ち上がるとそのか細い声を絞り出した。

 カカオの心の最も柔らかな部分を抉るためだけの呪いの言葉を。


​「……お兄ちゃん寒いよ……。甘いものが食べたいな……」


​その言葉が響いた瞬間、カカオ・ヴァレンティノの世界が終わった。

 彼の脳裏にあの冬の夜の光景が鮮明に蘇る。


──自分の腕の中でどんどん冷たくなっていく妹の小さな体。

──何もしてやれない自分の無力さ。

──そして最期に聞くことになった叶えてやれなかった少女のささやかな願い。


​「ああ……あああああああああああああああああっ!」


​ カカオの喉から人間的なあまりにも人間的な絶叫がほとばしった。

 彼を包んでいた黄金色のオーラがまるでガラスのように粉々に砕け散る。

 祝福ギフトの制御が完全に失われ、彼の心はもはやこの鐘楼にはない。あの絶望のスラム街へと引き戻されていた。


​ その千載一遇の好機を、ノワールが逃すはずはなかった。

 彼女は無防備に立ち尽くすカカオのその胸へと一直線に駆けた。

 そしてその冷たい右手をまるで心臓を抉り出すかのように彼の純白のスーツの上から深々と突き立てた。


​―――捕まえた。

 カカオの内側にあった全ての力が濁流となってノワールの中へと流れ込んでいく。

 彼が妹を失ってからずっと積み上げてきた偽りの幸福。

 人々を魅了し支配してきた太陽のようなカリスマ。

 その全てが根こそぎ奪い去られていく。

 カカオはもはや叫び声さえ上げられない。ただその美しい瞳から光が急速に失われていくだけだった。


​ やがてノワールが手を離す。

 カカオ・ヴァレンティノはまるで魂を抜かれた抜け殻のようにその場に崩れ落ちた。


​時計塔の針の狂乱が止まる。

街の灯りの明滅が収まる。

嵐は過ぎ去った。

戦いは終わった。


 鐘楼にはただ傷つき倒れた王子とその亡霊を演じさせられた少女の泣き声と、そしてその全ての中心に勝利者として佇む一人の魔女だけが残されていた。

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