第37話

私たちの新しい家に、未来への手紙という宝物が隠された日から、さらに数ヶ月の月日が穏やかに流れた。

季節は巡り、庭のハーブたちが力強く新しい芽を吹き始めている。

陽だまりカフェも相変わらずの人気で、毎日たくさんの笑顔に囲まれてパンを焼く日々は、本当に幸せだった。


そんな穏やかな毎日の中で、私は自分の体に、ほんの少しの変化を感じ始めていた。

最初は、気のせいだと思っていた。

朝、ベッドから起き上がる時に、少しだけ体が重く感じる。

大好きで毎日嗅いでいるはずのパンの焼ける匂いを、時々、やけに強く感じて気分が悪くなることがあった。


「少し、疲れてるのかな…」


カフェの仕事が忙しいからだろうか。

そう思うことにして、あまり気にしないようにしていた。

けれど、そんな状態が何日も続くと、さすがに少し不安になってくる。


「ユイ、顔色が良くないぞ。無理はするな」


ルゥフは、私の些細な変化にもすぐに気づいてくれた。

彼はいつも以上に私を気遣い、重いものを持とうとするとさっと取り上げたり、夜は早く休むようにと促してくれたりした。

その優しさが嬉しくもあり、心配をかけていることが申し訳なくもあった。


「大丈夫だよ、少し寝不足なだけだから」


私は彼を安心させようと笑顔でそう答えるけれど、原因が分からない不調は、心の隅に小さな影を落としていた。

ある日の午後、カフェの営業が終わり、エララちゃんが片付けを手伝ってくれていた時のことだ。

私が少し顔をしかめながら、残ったパンを棚に並べていると、彼女が心配そうに声をかけてきた。


「ユイちゃん、本当に大丈夫?さっきから、なんだか辛そうよ」

「うーん、大丈夫だと思うんだけど…。最近、ちょっとだけ体調が優れなくて。特に、匂いに敏感になったみたいで…」


何気なくそう漏らした私の言葉に、エララちゃんはピタッと動きを止めた。

彼女は最初、私と同じように心配そうな顔をしていたが、やがて何かを思いついたように、はっとした表情に変わる。

そして、その瞳がみるみるうちに、きらきらと輝き始めた。


「ねえ、ユイちゃん…」


エララちゃんは私のそばに駆け寄ると、興奮を隠せないといった様子で、声を潜めて言った。


「それって、もしかして…もしかしない?」

「え?もしかしてって、何が?」


きょとんとする私に、エララちゃんは両手を握りしめ、まるで世紀の大発見でもしたかのように、目を輝かせながら続けた。


「赤ちゃんよ!新しい命!本で読んだことがあるわ!そういう体の変化は、お腹に赤ちゃんがやってきた印だって!」

「え…あ、あかちゃん…?」


エララちゃんの言葉が、すぐには理解できなかった。

赤ちゃん。

私と、ルゥフさんの?

まさか。そんなこと、考えたこともなかった。

驚きと戸惑いで、頭の中が真っ白になる。


「ぜ、絶対にそうよ!だってユイちゃんとルゥフさんはあんなに仲良しだもの!早くフェンウィック先生のところに行ってみなくちゃ!」

「で、でも、そんな…」

「いいから、いいから!さあ、行こう!」


半ば強引にエララちゃんに腕を引かれ、私はわけがわからないまま、フェンウィック先生の診療所へと連れて行かれた。

診療所に着くと、先生は私たちの慌てた様子を見て、穏やかに微笑んだ。


「おや、どうしましたか、二人とも。そんなに慌てて」


エララちゃんが、事の経緯を早口で説明する。

先生は静かに私の話に耳を傾け、そして優しく手招きをした。


「ユイさん、こちらへ。少し、脈を見せていただけますか」


私は言われるままに椅子に座り、先生に手首を差し出した。

先生の冷たくて乾いた指が、私の手首にそっと触れる。

先生は目を閉じ、じっと何かに集中しているようだった。

その沈黙の時間が、やけに長く感じられる。

私の心臓は、どきどきと大きな音を立てていた。


やがて、先生はゆっくりと目を開けると、満面の、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。


「おめでとうございます、ユイさん」


その一言で、全てを悟った。


「エララさんの言う通りでしょう。あなたのその中には、新しい、小さな命が確かに芽吹いていますよ。まだ、本当に小さいですが、力強い生命の響きが聞こえます」


先生の言葉が、夢のように遠くに聞こえる。

嬉しい。

嬉しいはずなのに、涙がぽろぽろと零れ落ちてきた。

信じられない、という気持ちと、胸の奥からじわじわと湧き上がってくる、温かい喜び。

そして、これから母親になるのだという、身が引き締まるような思い。

色々な感情が一度に押し寄せてきて、どうしていいか分からなかった。


「よかった…!よかったわ、ユイちゃん!」


隣でエララちゃんが、自分のことのように泣いて喜んでくれている。

私はただ、何度も頷くことしかできなかった。


その夜、私はどうやってルゥフにこのことを伝えようか、ずっと悩んでいた。

夕食の準備をしながらも、心はそぞろだ。

帰ってきたルゥフは、やはり私の様子がおかしいことにすぐに気づいた。


「ユイ、今日は何かあったのか?いつもより、少し上の空だぞ」

「う、ううん、何でもないよ!」


慌てて取り繕うけれど、顔が熱くなるのが自分でも分かった。

夕食を終え、いつものように暖炉の前で二人で寛いでいる時、私はついに意を決した。

今、言わなければ。


「あの、ルゥフさん…」


私が改まって声をかけると、ルゥフは不思議そうな顔でこちらを見た。


「大切な、お話があるの」


私の真剣な様子に、彼の表情も真剣なものに変わる。

彼は私の隣に座り直し、真っ直ぐに私を見つめて、言葉を待ってくれた。

ごくり、と喉が鳴る。

心臓が、張り裂けそうなくらい速く脈打っていた。


「私…ううん、私たちのもとに…赤ちゃんが、来てくれたみたいです」


震える声で、ようやくそれだけを伝えるのが精一杯だった。

一瞬の沈黙が、部屋を支配した。

ルゥフは、大きな金色の目を見開いたまま、微動だにしない。

何を考えているのか、その表情からは読み取れなかった。

もしかして、喜んでくれていないのだろうか。

不安が胸をよぎった、その時だった。


彼の美しい瞳から、ぽろり、と一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。

彼は何も言わなかった。

ただ、ゆっくりと立ち上がると、私の前に跪いた。

そして、まるで壊れやすい宝物にでも触れるかのように、優しく、けれど力強く、私を抱きしめた。

彼の腕が、かすかに震えている。

その震えが、彼の言葉にならないほどの深い喜びを、私に伝えてくれた。


「…本当か…?」


ようやく絞り出すように発せられた声は、掠れていた。


「本当に、俺と…お前の…子が…?」

「うん…」


私がこくりと頷くと、ルゥフはさらに強く私を抱きしめた。


「…ありがとう、ユイ…!ありがとう…っ!」


私の肩に顔をうずめ、彼は何度も、何度も、感謝の言葉を繰り返した。

その声は、紛れもなく、人生で最高の喜びを見つけた男の人の声だった。


翌日には、この嬉しい知らせは町中に知れ渡っていた。

最初に駆けつけてきたのは、ボルギンさんだった。


「なんだってー!本当か、ユイ!ルゥフ!」


彼は工房から文字通り飛んできたようで、息を切らしながら、満面の笑みで叫んだ。


「がっはっは!めでたい!こいつは、結婚式よりめでたいかもしれねえな!孫ができたみてえで、俺ぁ嬉しいぞ!」


そう言うと、大きな目でうっすらと涙を浮かべている。

続いてやってきたエララちゃんは、もうすっかり舞い上がっていた。


「やっぱり私の思った通りだったわ!ああ、どうしましょう!男の子かしら、女の子かしら?どちらにしても似合うように、可愛いベビー服のデザインを今から考えなくちゃ!」


彼女はもう、デザイン帳を片手に目を輝かせている。

陽だまりカフェには、次から次へと町の人々がお祝いに駆けつけてくれた。

花を持ってくる人、栄養のある食べ物を差し入れてくれる人。

カフェは再び、結婚式の時と同じくらいの、大きな祝福ムードに包まれた。


「ユイちゃん、これからは体を大事にするんだよ」

「そうだぞ、辛い時は無理せず休めよ」

「何か手伝えることがあったら、いつでも言うんだからね!」


誰もが、自分の家族が増えるかのように喜び、そして私と、まだ見ぬ小さな命を気遣ってくれる。

この町の温かさが、私の心をじんわりと満たしていった。


その日の夜、ベッドに入ると、ルゥフは私のお腹にそっと耳を当てた。


「…まだ、何も聞こえないな」


少し残念そうに、彼が呟く。

私はおかしくて、くすくすと笑った。


「当たり前だよ。先生も言ってたでしょ、まだ本当に小さいんだから」

「そうか…。早く、会いたいな。…男の子だろうか、女の子だろうか」


ルゥフはそう言うと、子供のようにわくわくした表情で、未来の我が子に思いを馳せている。

その顔を見ているだけで、私の心も温かくなる。


「どちらでもいい。ユイに似てくれると嬉しい」


ルゥフはそう言って、私のお腹を大きな手で優しく、優しく撫でた。

その温かい手に、私は自分の手をそっと重ね、満たされた気持ちでゆっくりと眠りに落ちていった。


私が寝息を立て始めたのを確かめると、ルゥフはそっとベッドを抜け出した。

音を立てないようにリビングへ向かうと、暖炉の残り火が揺らめく前で静かに目を閉じる。

次の瞬間、彼の体は滑らかに、そして音もなく、本来の姿である大きな銀色の狼へと変わった。


狼の姿になったルゥフは、再び寝室へと戻る。

そして、眠る私のベッドの足元に、まるで忠実な番犬のように静かに丸くなった。

彼は私のお腹に鼻先をそっと寄せ、新しく宿った小さな命の気配を、その鋭敏な感覚で感じ取ろうとするかのように、穏やかに目を閉じた。


言葉はない。

けれど彼のその姿は、夫として、そしてこれから父となる者としての、深く静かな決意を物語っていた。

愛する妻と、まだ見ぬ我が子を、己の全てをかけて守り抜くという、揺るぎない愛情の誓いそのものだった。


やがて東の空が白み始め、柔らかな朝日が窓から差し込む。

その光は、穏やかな寝顔のユイと、彼女の傍らで守護者のように眠る美しい銀色の狼を、祝福するように優しく照らし出していた。

二人の未来が、光に満ちていることを象徴するかのように。

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陽だまりの魔法パン工房 ~もふもふ狼さんと焼きたての幸せ~ ☆ほしい @patvessel

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