Entity“愛の証”

宮野 大

Entity“愛の証

 窓の外に広がる空は病室の重苦しさとは対照的にどこまでも青く澄み渡っている。


 名前の分からない白い二羽の鳥が仲良さそうに並んで彼方へと飛び去っていく。


「君のところに飛んで行ければいいのにな…」


 自分以外に誰も居ない病室でそう呟き

 私はそっとペンに手を掛けた。



 高校一年の春。

 入学後の慌ただしさが、ようやく少し落ち着いてきた頃。


 放課後、緊張を隠すように私は勢いに任せて音楽室のドアを開けた。


「し、失礼します! 一年二組、岩崎夏恋いわさきかれんです! 見学させてください!」


 天井近くの壁には、音楽界の偉人たちの肖像が一列に並び、難しそうな表情でこちらを見下ろしている。


 音楽室には誰の姿もないようだった。

 中学でも吹奏楽部に所属していた私は高校でも続けたくて、この部屋を訪れた。


 ――音楽が好きだ。

 大勢の奏者たちとの、言葉のいらない会話。

 指揮棒タクトが振り下ろされた瞬間、楽器たちが一斉に歌い出す。

 あの一体感に包まれると、言いようのない幸福が胸いっぱいに広がるのだ。


 突如、音楽室のドアが開いた。

「失礼します」


 広がる海原を思わせるような、ドラマティックなテノールの声に思わず耳が震えてしまう。

 慣れていないのだろうか、彼は少し窮屈そうにネクタイの結び目を気にしながら立っていた。すらりと伸びた指先は、未完成ながらも大人の輪郭を感じさせる。


「吹奏楽部、入りたいんすけど」

 見上げなければ目が合わない高さ。そこには力強くも柔らかな瞳があり、真っ直ぐに私を見ていた。

 彼は入部届と書かれた紙を差し出してきた。


 ―― 一年一組 坂元 崇さかもとたかし

 希望パート:テナーサックス。


「やっぱり…テノールなんだ……」

 思わず漏れた言葉に、彼は怪訝そうに眉を寄せる。

 入部もしていない私が、なぜかその入部届を受け取っていた。


「今日、部活休みっすか?」

 彼が私を吹奏楽部の先輩と勘違いしていると気づくのに、少し時間がかかった。

 胸の奥で、鼓動がやけに強く響いている。


「そう……みたいです」

 声が震えそうになるのを抑えながら、それだけ言うのがやっとだった。


「そうですか。じゃあ、また明日来ます。お疲れさまでした」

 軽く会釈して、彼は音楽室を足早に後にした。


 静まり返った部屋に、ひとり取り残された私。

 手の中には彼の名前が書かれた入部届だけが残っていた。


 追いかければまだ引き止められたのに、私は彼の入部届に視線を落とし、胸の内で別の旋律を聴いていた。


 ――私のフルートと、彼のサックス。

 いつか重なり合うであろうその音色アンサンブルに、私は「運命」という名の調和を感じていた。


 こうして私は、崇と出会った。





 中学校の時とは比べ物にならない、怒涛の様な情報量の日々は、あっという間に私たちのカレンダーをめくっていった。


 新入生たちの姿が、また新たな春の訪れを告げ、私たちは高校二年生になった。


 あの日に受け取った入部届は、次の日に家に忘れてしまい、私は大恥をかく羽目になった。おっちょこちょいは父親ゆずりかもしれないと悪魔のような責任転嫁をして無理矢理に自己完結させたが、彼は少し不満そうに二枚目の入部届を顧問の先生に渡していた。


 別にその事件の影響では無いが、私は彼を意識はするも、中々近づくきっかけを見つけられないでいた。


 彼は一組で、私は二組。クラスで会えない分、

 毎日、部活の時間が待ち遠しかった。


My Heart Will Go Onマイハートウィルゴーオン

 コンテストに向けて練習中の曲目。


 深く冷たい海へと沈みゆく豪華客船タイタニックでの切ない二人の恋を描いた、世界一有名なラブロマンス映画を美しく彩った名曲が、その瞬間だけ、私たちの距離を縮めてくれる。


 サックスはフルートの左隣り。演奏中、私の左耳はいつも嬉しそうに彼の旋律を探す。指揮者のリズムに合わせ、私たちは楽器だけで言葉無き会話をする。


 彼の声と同じ、

 美しい海を思わせる力強く壮大な彼のサックスから紡がれるハスキーな音色が、

 雄々しく叫ぶかのように転調し私たちにクライマックスの訪れを告げる。


 それを聴いた私のフルートも彼を追いかけるように転調し、光輝くかのような音色で高らかに唄う。

 床をも震わすパーカッション達が、私の背中を力強く押して彼に近づけていく。


 My Heart Will Go On 《私の心は生き続ける》


 愛し合うかのように交錯する二人の旋律が音楽室に響き渡る。


 彼との夢のような航海は五分間だけ。

 いつも時間通りに指揮者が終焉を告げてしまう。


 いつも彼は部活が終わると、談笑する部員たちに手早く挨拶して忙しくアルバイトへと向かってしまうのだった。


「話したかったな…」

 無意識に出た言葉に、今まで話をしていた女子生徒が「え?誰と?!」と反応してしまって慌てて取り繕った。




 そんなある日、部活帰りに自転車で帰っていると、異音とともに突然ペダルが回らなくなった。

「うそ?!」

 自転車を止め、確認するとチェーンが外れている。

 ペダルを前後に動かすが回ってくれない。周りに人の姿は無く、大きくため息をついた。歩いて二〇分位のところに自転車屋があったのを思い出し健康のためと自分に言い聞かせ、押して歩く覚悟を決める。


 直後、一台の自転車が私の横を通り過ぎた。

 同じ学校の制服ということは分かったが、決めた事だと希望を捨てて自転車に向き直る。

 もう一つため息をついて、ハンドルに手を掛けようとしたとき、


 彼だ。

 坂元崇さかもとたかし

 彼が私の目の前に居る。


 私の目を見ず無言でしゃがみこんだ彼は、躊躇無くチェーンに手をかけ一瞬で直した。私は思わず歓喜の声を上げてしまう。

 彼の指が油で黒く汚れてしまったのに気が付き、バッグからお礼の言葉と共にハンカチを差し出した。


「いや…いいよ。汚したら悪いし…」

 遠慮する彼の手に半ば無理矢理にハンカチを手渡す。


 高鳴る鼓動が聞かれてしまいそうで恥ずかしくなり、誤魔化すように自転車を無意味に押したり引いたりしてみる。


 嬉しい…

 嬉しい…

 自然と笑顔になってしまう。


「サンキュ…洗って返すよ。岩崎さんだよね…?コンサートフルートの」


 彼が私の名を呼んでくれた。

 私のことを覚えてくれてる。


「そう!坂元くんサックス凄く上手だよね!!私、坂元くんの演奏すごく好き!いつもちゃんと聴いてるよ!」

 自分でも何を言っているか分からなかった。

 ただ、今しかない。今しかない。と理不尽な衝動が私を突き動かす。


「そ、そう?ありが…と。俺も…岩崎さんのフルート、その…綺麗で…良いと思うよ」

 彼の顔は赤く染まっていて、あの日の音楽室と同じように窮屈そうにネクタイの結び目をいじっている。

 私の『声』も届いていたんだ…嬉しい…

 返す言葉が出てこない。胸に湧き上がる感情を抑えるのに必死になる。


「じゃ…俺、行くわ。おつかれ」

 気温はそう高くないのに、大きな手で赤い顔をパタパタ仰ぎながら彼は足早に自転車に跨った。


 彼が行ってしまう。

 感じたことのない焦燥感。

 私の胸の鼓動がallegroアレグロへとテンポアップする。

 スタンドを蹴り払い走り出す彼。


「坂元くん!」

 甲高いブレーキ音と共に彼が停まりこちらを振り返る。


「一緒に…帰らない?」

 どんな顔してただろう。

 ひどい顔だったらどうしよう。

 でも言えた。ちゃんと言えた。


 彼は赤い顔のまま目を伏せがちに少し上擦った声で返してくれた。


「…是非」


 この日は私の記念すべき日になった。


 私の日頃の行いが余程いいのか、

 それとも、

 初詣で二時間も並んだのに寒さに気を取られ、恋愛成就と間違って買った交通安全のお守りの効果が暴発したのかは分からないが、彼は同じ町内で私の家から歩いて数分の所に住んでいた。

 一緒に帰れる…と私の心が暖かく揺れる。


 帰り道、色々な話をした。部活と同じ左側から、今は彼の本当の言葉が私の耳に届く。

 音楽のこと。趣味のこと。

 家族のこと。学校でのこと。

 一年分溜まった私の坂元くんへの質問リストは壊れたプリンターかのように溢れ出していった。


 彼が笑い、私も笑う。

 いつしか羞恥心は消え幸福感にだけ包まれていた。


 ただ一つ。

 私の病のことだけは出力されずに残っていることを、彼は知らない。





 月に一度の検診。待合室は今日も患者で溢れていた。

 ――病院は嫌いだ。


 一人だと途中で脱走するから、この歳になっても両親が“警護”のように付き添ってくる。

「もう少し娘を信じなさいよ」と言いたいところだが、実際に今も脱走のタイミングを見計っているので、文句は言えない。


 私は生まれつき病気を抱えていた。

 お経みたいに長く、覚える気すら起きない病名。

 珍しい症例だと医者は言っていた。

 それでも私は元気だ。たまに動悸や眩暈がある程度で、日常生活に不自由はない。


「一生進行しない人もいる。進行しなければ恐れることはない」


 ――そう言われてきた。


 毎日、職場からゾンビのように帰ってくる父の方が、よほど具合が悪そうに見えるくらいだ。


「夏恋。あなた……恋人ができたでしょう?」


 肩がピクリと跳ねた。

 恐る恐る横を見ると、私と同じ瞳をした母が、

 大人の女として私を見据えている。

 母の肩越しに、顔面蒼白の父の姿も見えた。

 私が「うん」と認めた瞬間、父は集中治療室送りだろう。


「うん。できたよ」


 ――お父さんごめん。

 けれど母には敵わない。

 一番の理解者でもあるから。


「そう……同級生? 今度、家に連れていらっしゃい。ご挨拶がしたいわ」


 母は少し悲しげに壁へ視線を移し、優しい声で言った。後ろで父が無言で悲鳴を上げている。

 誰か酸素マスクを渡してあげてほしい。


 不思議と母に合わせることに抵抗はなかった。

 余計なことは決して言わない

 ――その信頼があるから。



 あの自転車チェーンの一件をきっかけに、限界まで引き延ばしたゴムを手放したかのように、私たちの距離は一気に縮まった。

 部活での会話も増え、目が合うことが増えた。

 アルバイトのない日は必ず一緒に自転車を押しながら帰った。


 なかなか最後の一歩を踏み出せず、悶々と過ごす日々が続いた後の、ある日の部活後。

 片付けをしながら女子たちと談笑していた私は、つい音楽室の反対側の彼に視線を向けてしまった。

 楽しそうにトロンボーン担当の男子とふざけ合う姿は、少し幼く見えて可愛らしかった。


 大きな発表会を良好な成績で終え、

 部員全体が良い連帯感を持続している。


「岩崎。ちょっと話したいことがあるんだ。二人だけで……いいか?」

 チューバ担当の男子が、決意を込めた真剣な目で声をかけてきた。

 何を伝えたいのか、目を見れば分かる。


「うん……いいけど……なんの話?」

 女子たちから歓声が上がり、音楽室全体の視線が私たちに注がれる。

 彼には悪いが、必死に逃げ道を探そうとした。


「俺、岩崎がずっと気になってて……俺と付き合ってくれないか?」


 皆の前で大した勇気だな、と感心する。

 私はまだ言えないでいるのに。


 緊張で、音楽室が凍りつく。

 ――坂元くんは、どんな顔をしているのだろう。怖くて振り返れない。


 駄目だ、これはもう逃げられない。

 覚悟を決め、チューバの彼に告げた。


「ごめんなさい…私、坂元くんが…好きなの」


 ただ断ればよかったのに。なのに口から出たのは、言い訳もできないただの真実。


 音楽室の視線が、今度は一斉に彼へと集まる。

 数分にも感じられる、長い沈黙。


 サックスを吹きだす前と同じ、勇敢さを湛えた決意ある彼の表情――

 一瞬聞こえる彼の素早く力強い呼吸ブレス


「俺も……岩崎さんが好きだ」


 部員たちの歓声が爆発する。


 数名の女子は突然の青春イベントに感化され涙し、チューバの彼は大勢の仲間に肩を叩かれて慰められていた。


 大歓声の中、トランペットがふざけて結婚行進曲を吹き始めると、次々と楽器が加わる。

 祝福のアンサンブルが音楽室を満たし、私たちは恥ずかしくて互いに目を閉じた。


 拍手と歓声の嵐が、

 まるでコンサートのアンコールのように広がっていく。


 こうして私たちは交際を始めた。


 ――それが一か月前のこと。




「岩崎夏恋さん、診察室へどうぞ」

 看護師に呼ばれ、顔を上げる。


「何かかわった事はありませんか?」という何千回も聞いた医師の定型文に、「全くありません」と食い気味に返答するだけ。

 そしていつものように薬を貰って帰るだけだ。今から学校に行けば部活にも間に合うかもしれない。


 しかし

 待っていたのは、あまりにも残酷な現実だった。



「病状の進行が認められます」


 唐突に医師放たれた残酷な言葉の矢に、母が悲鳴にもならない声を上げると、外で待っていた父が駆け込んでくる。




 どうやら、


 私はもう長くは生きられないらしい。






 月に一度だった通院が、週に一度の通院に増えた。

 学校を休む言い訳に、崇には「ちょっとしたアレルギーの治療」と嘘をついた。

 砂を舐めたようなざらついた罪悪感が胸に残る。


 私は『死』という現実から逃げていた。

 絶対に泣かないと心に決め、不安になればなるほど明るく振る舞った。

 ――これが正解だと、自分に言い聞かせながら。


 夏休み前日の終業式。

 来年は私たちも受験生だ。皆が「実質高校最後の夏」に胸を躍らせるなか、私は少し重たい気持ちを胸に、いつものように崇と並んで校門を出た。


 勇気あるチューバ担当の彼に彼女が出来た話や、夕飯の献立の話、取り留めのない会話で必死にはしゃいでみせる。


 でも、本当は言いたいことはそんなことじゃない。


 ――思い出が欲しい。

 来年の夏休みは迎えられないかもしれない…

 一生支えになるような、心に焼きつく彼との思い出が…どうしても欲しい。


 思わず、勢いで口をついた。


「海に行きたい!海!でも汚いのは嫌!白い砂浜で、人が少なくて、あのゴキブリみたいなゾワゾワした虫もいなくて……それから、美味しいケーキ屋さんが近くにあるところ!」


 本当はどこでも良かった。崇と行けるなら。彼の瞳を見ていたら、自然と「海」という言葉が出てきたのだ。


「そんな条件揃った場所、あるかよ!?」


 呆れたように言いながらも、彼の目が脳内メモリーを探るようにきょろきょろと動く。

 ――探してくれている。もう、その仕草だけで胸が熱くなる。

 彼に夢中になりすぎて電柱にぶつかりそうになった私を、崇が咄嗟に引き寄せた。


 好き。

 湧き上がる愛情が、不安を押し流していく。


「じゃあ明日までの課題ね!」

 彼が困るのが可愛らしくて自然な意地悪を贈る。鼻歌が自然と口をついて出る。嬉しさを隠せなかった。


 崇はため息交じりに「分かったよ」と答えたけれど、彼の鼓動が速まっているのは伝わっていた。

 私も動悸がバレないように、まだ買ってもいない水着の話をして誤魔化す。

「新しい水着、買ったんだよ」――嘘。

 でも、その一言で顔を真っ赤にして俯く崇が、愛おしくてたまらなかった。


 そんな彼に見惚れていたら今度は本当に電柱にぶつかってしまった。二人で顔を見合わせ、大笑いした。


 幸福だけで満ちた一瞬。

 私は自転車をスタンドに立て、崇の腕に自分の腕を絡めて囁いた。


「ねぇ、崇。連れてってくれる?」


 その言葉に応えるように、崇は力強く私を抱き寄せた。

 視界の端で自転車がゆっくり倒れていく。

 私はそっと瞳を閉じ、唇を重ねた。

 彼の唇が小さく震えているのが伝わる。


 ファーストキス。


 あらゆる感情の洪水に胸が軋んだ。

 ――どうか終わらないで。そう必死に祈った。



 数日後。

 崇は両親に挨拶するために、我が家を訪ねてきた。

 落ち着いたネイビーのシャツが、海を映すような瞳によく似合っていた。

 誠実さに溢れた自己紹介に、母の表情が安心に緩む。父は不満げに口をへの字にしていたが、母に睨まれてすぐに項垂れた。


 崇はすぐに母とも打ち解け、今はリビングで犬と戯れている。

 そんな姿を見つめながら、私がキッチンで紅茶を入れていると、母が静かに近づいてきて囁いた。


「大切にしなさい、夏恋。あの人なら、きっと大丈夫」


 普段なら「何が?」と聞き返すところだが、母の意図は痛いほど分かった。

 彼を見つめたまま私は静かに頷いた。


 ――明日は約束の日




 今日の為にと母が買ってくれた白のワンピースに袖を通し、鏡の前に立つ。

 一周くるりと回ると、裾がふわりと広がり幻想的だった。

 彼は気に入ってくれるだろうか――そんなことを考えていると、インターホンが彼の来訪を告げた。



 昨晩、崇が帰ったあと、両親に想いを打ち明けた。

「明日、崇に病気のことを話すことにしたの」

 笑顔だった二人の顔が真剣な表情へと変わる。

「何も明日じゃなくてもいいんじゃないか?折角楽しみに行くだから…」

 父の反対を、母が静かに制す。

「この子の思うようにさせてあげて」

 その言葉に、父は無言で頷いた。


 駅までは父が車で送ってくれた。

 振り返るとロータリーに停まった車の窓越しに、父の口が「が・ん・ば・れ」と動く。

 胸の奥がすこし温かくなり、不安が和らいだ。


 ――いつ話そう。こんな記念すべき日にそんな残酷は話をするなんて自分でもどうかしていると、電車に揺られながら思いめぐらす。


 気を紛らわせたくて、背伸びしてつり革に届くか試したら、バランスを崩して思わず崇の腕にしがみつく。

 見上げれば、日に照らされた優しい笑顔。

 崇なら大丈夫、大丈夫。そう自分に言い聞かせる。


 一時間ほどで乗り換えの駅。

 彼の手を引いて階段を駆け上がる。

「上まで競争ね!」

 雑念を振り払うように走ったら、崇が下から「パンツ見えてるぞ!」と意地悪そうに笑った。

 慌てて裾を押さえて、笑いながら頬をつねってやる。


 ホームに降りると潮の香りが漂った。

 不安が波のように押し寄せては引いていく。


「先頭に乗りたい!」

 駄々をこねる私に、崇は呆れたように微笑んでついてきてくれる。


 ―― 崇、私はここに居るよ


 待ち受ける闇を振り払うようにホームの上を軽やかに舞う。


 ワンピースの裾が遠心力で華やかに広がる―

 私から彼への愛の輪舞曲ロンド


 先頭車両に乗り込むと、大きなカーブの先にエメラルドグリーンの海が広がった。


「夏恋、危ないから掴まってろ」

 崇が私を抱き寄せる。私たち以外、誰もいない車両。

 胸に耳を押し当てると、指揮者のように規則正しい“生命”のリズムが聞こえた。

 崇のサックスの旋律が蘇り、左耳が少し喜んでいる。


 駅から手を繋ぎ、海まで歩いた。

 崇の手の温もりが、心を鎮めてくれる。

 それに気づいたかのように、彼の掌がさらに強く私を握りしめた。


 長い階段の先に広がるのは、青空と白い砂浜、エメラルドグリーンの海。

『夢ヶ浜』――崇が見つけてくれたこの場所は、本当に夢のようだった。


 思わず駆け下りて転び、慌てて裾についた砂を払う。

「ばか…砂、付いてるぞ」

 崇の指が髪を撫でる。その優しい仕草に、最後の勇気を振り絞り、心の中で指揮者にタクトを振り下ろさせる。


「崇。聞いてほしいことがあるの。どうしても……」


 愛の告白とは違う決意を帯びた声に、彼の顔から笑みが消え、不安そうに少し曇る。

「何か嫌だったか…?聞くよ」


 波打ち際に並んで腰を下ろす。崇は黙って待っていた。

 涙がこみ上げそうになるのを必死で堪える。泣かないと決めたんだ。


「崇……真剣に話すから、最後まで聞いてほしい。約束して。今日、崇に話すって決めたの」


 彼は真剣な面持ちでゆっくり頷いた。





「実は、私……病気なの。治せない病気。いつまで生きられるか分からないって……お医者さんに言われてる。急にこんなこと伝えてごめんなさい…」

 彼が息を呑んだのがわかる。


 私も一息ごとに喉が震える。

「何度も、何度も伝えようと思った。でも……怖かった。崇に嫌われるのが。そして、傷つけてしまうのも。やっと仲良くなれたのに」


 崇の肩が震え、大きな手が白い砂を強く握りしめる。

 指の隙間から、涙のように砂が零れ落ちた。


「本当にごめんなさい……でも、諦めてないの。初めて音楽室で出会ったあの日から…気持ちは変わらない。崇と一緒に、これから一分でも一秒でも長く過ごしたいと心から願ってるの。怖いよ。怖いけど崇がいれば頑張れる。…病気の彼女なんて嫌だと思う。でも私は必死に崇と生きていきたいと願っているの。心の底から。それだけは、それだけは信じてほしい」




 崇の頬を伝って涙が落ちる。幾つも、幾つも。

「なんでだよ……なんで……!」

 海岸に響く嗚咽は、故障したサックスの様に痛々しい。


 私はただ「ごめんね」と繰り返すしかなかった。

 それでも今日、伝えた上で崇と一緒に思い出を作りたかった。

 最低で、最悪の自分勝手な我儘。



 突如、彼の拳が砂を叩く。物凄い力で

 何度も、何度も。

 崇の怒りと涙が砂に染み込んでゆく。


 無理だ…

 私は膝を抱え、頭を伏せた。


“こんなの、受け入れられるはずがない。逆の立場だったら納得できるの?”



 言わなければよかった…

 罪悪感と恐怖が黒い津波のように押し寄せ、心を削り取る。


 波の音が優しく響く程、世界が残酷に見える。

 青く鮮やかな海から色が抜け落ち、モノクロームに変わっていく。


 ――もう駄目だ。あきらめよう。

 こんなの理解して欲しいなんて無理にも程がある。

 暗闇が大きな口を開けて、私を飲み込んでいく。



 刹那、

 全身を突き抜ける衝撃。


 押し倒された視界に広がる空はどこまでも青く、

 腕に感じるのは崇の確かな力強さ。

 鼻をくすぐる彼の匂い、光る砂が付き砂糖をまぶしたように煌めく私の髪。

 そのすべてが『愛』を告げていた。


「強がるなよ……もっと甘えてくれよ。頼ってくれよ。そんなの…辛いのは夏恋のほうじゃないか!……どうやったら嫌いになれるんだよ!もうこの気持ちは変えられない!俺だって諦めたくない!絶対に!」

 私に対しての怒りではないと分かる振り絞るような彼の声に、胸の奥が燃えるように熱くなる。

 彼の背中に腕を回し、必死に応えるように抱きしめ返した。


 砂浜に横たわり抱き合う二人に、夏の日差しが降り注ぐ。


「まだ分からないじゃないか。治せる日が来るかもしれない。希望持って何が悪いんだよ。一緒に闘おう。俺は夏恋を一人になんてしない。絶対に。ずっと、ずっと俺が支えてやるから。無理、すんな」

 崇は腕の力を緩めることなく、私に一番の特効薬を言葉にして贈ってくれた。


 モノクロに沈んでいた景色に、音と色彩が一気に戻る。


 泣かないと決めていたのに、決意という名のダムを超えた涙が一筋だけ頬を伝う。

 それは彼には気付かれなかった、私の最初の涙。


「……うれしい」

 たった一言で、最大級の感謝を伝える。


 どれくらいの時間、そうしていただろう。

 やがて崇は静かに腕をほどき、真っ赤になった目で私を見つめた。


「さあ、夏恋。思い出づくりするんだろ。沢山作ろう。」

 そう言って立ち上がり、私の手を引く。

 もう謝罪の言葉が…出てこない。あるのは感謝だけだった。


「俺も…一つだけ謝らなきゃいけないことがあるんだ。絶対に怒らないで聞いてくれるか?」

 真剣さに満ちた背中越しに告げられる声に、一瞬、胸がざわめく。


 まさか崇にも何か――。


此処ここさ……」

 深刻な声音に息を呑む。


「近くに一軒もケーキ屋さん無いんだよ。ごめんな!」

 振り返った崇の顔は、無邪気な少年のそれで、笑顔が水面のように輝いている。


 私の負けだ。敵わない、この人には。


「……ばか。許せないよ、それは…」


 歯を食いしばり、もう一度流れ出した一筋の涙を彼に隠すように私は全身で崇に抱きついた。

 私の存在を、必死に刻みつけるように。



 一日中、遊んで笑った。

 喉が枯れるほど語り合った。


 夕暮れに照らされ、エメラルドグリーンだった海は静かにオレンジへと色を変えてゆく。

 波打ち際に腰を下ろし、崇は沈む夕日をじっと眺めていた。


 私は両手いっぱいに拾った貝殻を抱えて駆け寄り、彼の隣に腰を下ろす。

「帰ったらこれで写真立てを作ろう」そう言うと、崇はいつもの優しい笑みで頷いた。


 横顔を見つめる。胸の奥で言葉が渦巻く。どうしても伝えたい、この想い。

 私は彼の名を呼んだ。


「どうした?」

 分かっているはずなのに、わざととぼけるその声が意地悪で、愛おしい。


「私ね……崇のこと、大好きだよ。また来ようね、夢ヶ浜に」

 捻りも何もないベタな台詞。

 でも、それ以外に伝えるべき言葉が見つからない。


 その言葉に重なるように、あの日、音楽室で初めて聞いたあの声――

 胸をすくドラマティックなテノールが私の耳に潮風のように流れてくる。愛の言葉を乗せて。


「俺も、夏恋が大好きだ」


 胸がかっと熱くなり、思わず苦笑いが零れる。

 冗談にもならない冗談――

 もう死んでもいいや、なんて考えてしまった。


 私はそっと彼の肩に寄りかかる。


「愛してるよ、夏恋。誰よりも、いつまでも」

 真っ直ぐな瞳が夕陽に輝き、絶対に嘘じゃないと伝わってくる。


 赤く染まる空と海を背景に、二人は静かに唇を重ねた。

 優しい温もりが波のように胸に広がる。


「崇に出会えて、本当によかった……」

 私の言葉に、彼は微笑んで、もう一度そっとキスで応えてくれた。


 やがて夜が訪れるまで、私たちは砂浜で寄り添い続けた。

 波の音だけが二人を優しく包み続ける。






 ふと窓の外に目をやると外はもう暗い。

 看護師が最後の巡回を終えて病室から去っていく。

 愛する彼への手紙を書き終えた。感謝と、最後のお願いを綴った。

 後悔は……ない。


 あの夏の日から四年。

 一年前、本格的に体調を崩して、崇と共に入った大学にもほとんど通えなくなった。

 それでも崇とは一度も喧嘩をせず楽しい日々を送り、家族同士も親しくなった。

 幸せな時間は、想い出に溢れる夏の潮風みたいに一瞬で過ぎ去っていった。


 窓際にはフルートのケース。


 私はもう、吹くことは出来ない。


 けれど、目を閉じればあの日の旋律が今も私を励ましてくれる。


 私と彼の愛は、確かにここに

 ――実在(Entityエンティティ)した。

 永遠に消えることのない愛を胸に抱き、

 私は静かに残り少ないであろう一日を終える。


 またいつか、彼に会えるその時を夢に見て。

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Entity“愛の証” 宮野 大 @yuzue0614

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