反復トゥモロー
庵途
反復トゥモロー
「また明日」
「……おう、また明日」
深夜2時過ぎ。
空は暗闇に染まり、人々が寝静まった夜の中。橙色の小さな街灯が照らす小さな公園で、2人の男性がそんな言葉を交わしていた。
片方は黒色のスーツを着た男性だった。彼は左手に銀色の大きな時計を付けており、艶のある黒い革でできた鞄を手に持っている。
もう片方は灰色のスウェットを着た男性だった。彼はぼさぼさの黒い髪を整えようともせず、顎髭も無造作に伸びていた。そんな彼の瞳には生気がなく、表情もどこかぎこちなかった。
「……啓介、大丈夫か?」
「あ、あぁ。うん。大丈夫だよ……。多分」
スーツを着ている男性、壮馬はスウェットを着た男性、啓介の顔を覗き込む。
啓介は壮馬から視線を逸らし、体をビクリっと大きく振るわせた。その様子を見た壮馬は申し訳なさそうに体を仰け反って啓介から距離を取った。
「……そっか。じゃあな」
「……あぁ、また明日」
啓介はそれだけ言い残し、彼に背を見せながらトボトボと歩く。壮馬はその背中を眺めながら、拳を固く握りしめる。
そして、啓介が暗闇に消えて見えなくなった頃、壮馬は啓介とは真逆の方向へ歩き始める。
「……ごめんな、啓介」
泣きそうな声で、壮馬はそう言葉を漏らした。
そう口にした瞬間、彼の脳裏に啓介との出会いとそれからのかけがえのない日々が想起されていく。
10年前、蓬丘高校。
満開の桜で彩られた緩やかな坂道を、黒色のブレザーに身を包んだ高校生の壮馬が歩いていた。
壮馬は少しサイズの大きな真新しいブレザーをだらしなく着ていて、本人も歩きにくいのかしかめ面で歩いていた。
彼は新品の革靴で落ちている桜の花びらを踏みしめながら歩いていく。
今日は蓬丘高校の入学式であり、壮馬は今年入学する新入生だ。
坂道の先には丘の上にある白い校舎があり、壮馬も含めて多くの生徒がその校舎に向けて一歩一歩大地を踏みしめて歩いている。
壮馬はそんな彼らの歩幅に合わせてゆっくりと歩き続ける。
満開の桜と新たな青春の舞台。他の人に比べて感情の起伏が少ない壮馬も、今日ばかりは心が躍ってしまう。
それは他の生徒たちも同じのようだった。彼らは緊張で顔を強張らせており、どこか荘厳な雰囲気が桜並木を支配していた。
「うぉぉぉおお!」
そんな空気を打ち壊すほどの、男の叫び声が桜並木に響き渡る。
その声に驚き、壮馬は叫び声がした方向を見る。叫び声がしたのは上の方。具体的に言うならば満開の桜の木の中から聞えたような気がした。
周囲にいる生徒も首をキョロキョロと動かして、声のした桜の木を特定しようとする。
そんな生徒たちに倣い、壮馬も目を凝らして桜の木を一本一本見つめていく。
「あっ」
そして、壮馬は一本の桜の花の中に、1人の青年がいることに気が付いた。
青年は太い枝の上に乗っていた。しかし、いくら太いといっても所詮は枝であり、人ひとりを支えられるほどの耐久性はなく、枝は不安げに大きく揺れていた。
「危ないッ!」
それに気が付いた壮馬は肩に掛けていたスクールバックを投げ捨てて、桜の木に向けて走り出す。
ミシリッ!
嫌な音が壮馬の耳に届き、彼は何も考えずに必死で両手を伸ばす。
一方で、壮馬の声が聞こえた木の上にいる青年は、自分に向かって走ってくる存在に気が付いた。
「頼んだ!」
彼は走っている壮馬に向けて、大きな声を出し、両手に抱えていた何かをゆっくりと手放す。
「はぁ!?」
彼が手放した物が何なのかはよく見えなかったが、黒い塊だということだけは見て取れた。
そのことに驚きつつも、壮馬は両腕を開いてそれを受け止める。
「……ね、猫!?」
彼の両腕にゆっくりと落ちてきたのは宝石のような金色の瞳をした黒い猫だった。
猫は驚いたように目を見開きながら、どこか涼しげな顔で壮馬の顔を見つめている。
突如として自分の両腕に現れた猫を見つめ、壮馬は思考と足を止めてしまう。
バキッ!
なぜ自分の両腕に猫が落ちてきたのか、動揺していた壮馬の意識はそんな嫌な音で現実に呼び戻される。
壮馬の足元に桜の太い枝が落ちる。それはさきほど青年が自分の体重を預けていた木の枝だった。
しかし、壮馬の視界内には木に登っていた青年の姿はどこにもなかった。
それに疑問を持った彼は首を動かして彼の姿を探す。
「ちょっとそこで、待っててくれ!」
そんな声が自分の頭上から聞えて、壮馬は上を向く。
視線の先には、別の桜の木の上にいる満面の笑みを浮かべた彼がいた。どうやら枝が折れる直前に別の桜の木へ飛び移ったようだ。
彼は首を小さく動かして、落下地点を見極めると、意を決し桜の木から飛び降りる。
「は、はぁぁ!?」
いきなり桜の木から飛び降りた彼の突拍子もない行動に、壮馬は素っ頓狂の声を上げる。
しかし、壮馬の心配をよそに、彼は地響きが起こりそうなほどの大きな音を立てながら大胆に着地した。
彼は地面に着地した後、何事もなかったかのように壮馬に向き直る。
「助かったよ。猫が木から降りられなくなっていて、助けようとしたんだが……俺が高所恐怖症だっていうことを忘れててさ!」
「バカじゃないの?」
大きな声で自分の失態を笑顔で話す彼に、壮馬は条件反射で棘を吐いてしまう。
そう口にした瞬間、初対面の人に失礼なことを言ってしまったと気づき、慌てて口元を抑えつける。
しかし、そんな壮馬の心配をよそに彼はまるで、新しいおもちゃを買ってもらった子供のように口角を上げて、目を輝かせた。
「確かにバカだな!」
バカという悪口を言われたのに、彼はとても嬉しそうだった。
そんな彼がどこか気持ち悪く、壮馬は一歩下がって彼をジト目で睨みつけた。
「んにゃ~」
2人の会話を遮るように、壮馬の両腕の中で完全にくつろぎ始めた黒い猫は、暢気にあくびをする。
壮馬と彼はそんな黒い猫を見つめ、すぐさま相手に視線を戻した。
「この猫って君が飼っているの?」
「いいや。首輪もしていないから多分、野良猫だろう」
「そっか……」
それを確認すると、壮馬はゆっくりしゃがんで猫を地面に下ろしてあげる。
猫はしっかりと四本足で立つ。その立ち姿から怪我をしていないことは明らかだった。しかし、猫は動こうともせずにじっと二人の顔を見比べていた。
青年はゆっくりとしゃがみ、猫と目線を合わせて彼の頭を撫でる。
「これからは自力で降りられないところに上ったらダメだぞ」
「んにゃ」
分かっているのか分かっていないのか、猫は誇らし気に胸を張ってそう返答する。
それを聞いた彼は自然な笑みを零れさせて、再び猫を撫でた。
「いや~。君には迷惑をかけたな。すまん!」
彼は猫をひとしきり撫で終えると、ゆっくりと立ち上がり、壮馬に向けて謝罪する。
「ううん、大丈夫。気にしないで」
この短い会話の中で、青年の独特な雰囲気に苦手意識を持っていた壮馬は、それだけ言い残し、足早にこの場を去ろうとする。
「まぁ、待ってくれ」
しかし、校舎に向かおうとした壮馬の手を彼ががっしりと力を入れて握りしめた。その行動に嫌な予感を感じ取った壮馬は、軋んだ歯車のようにゆっくりと首だけ後ろを向いた。
「な、なに?」
満面の笑みで壮馬の手を離そうとしない青年に壮馬は作り笑いを浮かべる。それは誰の目から見ても明らかなほど、不器用な作り笑いだった。
「俺の名前は沢渡 啓介。君は?」
「……白鳥 壮馬」
彼の圧に負けた壮馬は自分の名前を名乗る。
「そうか。壮馬くんって言うのか! なぁ、俺と友達になってくれないか!?」
彼は目を見開き、鼻息荒く壮馬に近づく。
壮馬はそんな彼の様子を見て、周囲を見回す。
周囲の人々はひそひそと言葉を話しながら、2人に対して好奇の視線を向けてくる。
「い、いやだ!」
その目から耐えられなくなった壮馬はそう叫びながら、思いっきり啓介に掴まれている手を引き抜いた。
そして、そのまま壮馬は啓介から逃げるように校舎に向けて走り出す。
「待ってくれよ!」
しかし、啓介は満面の笑顔のまま、壮馬の背中を追いかける。
「なんで追いかけるんだよ!」
壮馬の変な奴に目を付けられたことを嘆く声が桜並木に響き渡る。
壮馬は全力で走るが、それよりも啓介の走る足はかなり速く、ぐんぐんと2人の距離は縮まっていく。
「た、助けて!」
「待ってくれって!」
壮馬は全力で叫び周りに助けを求める。しかし、周囲の人は笑顔で走っている啓介に巻き込まれたくないのか、視線を逸らして距離を取り、彼の助けを求める声に聞こえないフリをした。
啓介と壮馬の距離が縮まっていき、その手を伸ばせば壮馬を掴めそうなほど近づいたタイミングで、ようやく壮馬は蓬丘高校の校門が目に入る。
「逃げんなって!」
「逃げるに決まってんだろっ!」
啓介はじゃれているような清々しい声でそう言うが、壮馬は必死な形相で息が絶えそうになりながらそう叫んだ。
そんな風に言い争いながら、2人は校門を走り抜ける。
「おい! そこの2人、止まれ!」
その瞬間だった。
校門の横に立っていた紺色のジャージを身に纏った男性が、2人に向けて叫ぶ。
空気がひりつくほどの大きな声に、先ほどまで全力で走っていた2人はすぐに足を止めて男性の顔を見る。
男性の年齢は40~50代くらいで、雰囲気や立っている場所を見るに蓬丘高校の教師であることは一目瞭然だった。
「せっかくの入学式に鬼ごっことはいい度胸だな……?」
教師は眉間に青筋を立てて、右拳を握りしめる。
教師の体はかなり筋肉質で、握りしめた右拳はまるで山岳地帯にある岩のようだった。彼が発するオーラに圧倒された壮馬は本能的に彼を恐れ、冷や汗を流さずにはいられない。
「ち、違うんです! こいつに追いかけられて……!」
壮馬は教師の圧に負け、啓介の指をさす。
一方で啓介は男性の放っている怒りのオーラを感じ取れないのか、きょとんとした顔をして首を横に傾げた。
「なんでお前は追いかけたんだ?」
「え、えっと……」
自分が怒られていることにようやく気が付いた啓介は、おどおどしながら辺りを見回す。
そんな啓介のおどおどした態度に、教師は苛つき、つま先を何度も地面に叩きつけていた。
それを見た壮馬はふと教師の意識が啓介にしか向いていないことに気が付く。そして、ゆっくり後退りしてその場を去ろうとする。
「あっ、壮馬くん!」
しかし、壮馬が2人の元から離れようとした瞬間、それに気が付いた啓介は彼の名前を呼んでしまう。
その声が耳に入り、教師は壮馬が逃げようとしたことに気が付いて、壮馬を睨みつける。
「う、うわぁあ!」
教師の鋭い眼光に射抜かれて、壮馬は情けない声を出しながら逃げ出した。
教師はそれを追いかけようとし手を伸ばしたが、今この場で壮馬を追いかけてしまったら啓介も逃げてしまうかもしれないと思い、壮馬を追いかけることができなかった。
「壮馬くん、また明日ね~!」
そんな状況を未だに理解できていない啓介は、壮馬の背中に暢気にそんな声を届ける。
しかし、全力で啓介と教師から逃げている壮馬に、返答する余裕も気持ちも存在しなかった。
それから1年後。
「なんで、こいつと仲良くなったんだろ」
「いきなり何言ってんだ?」
小さいテレビの前に壮馬と啓介が横並び座り、2人はゲームのコントローラーを手にしていた。
テレビの画面には壮馬が操作する仮面を被った丸っこいキャラクターが、啓介が操作する赤色の帽子をかぶったチンパンジーのキャラクターに襲い掛かっていた。
2人はゲームを操作しながらも、その操作はどこか適当で時間を潰しているだけというのが伝わってくる。
「いや、初対面の頃にいきなり追いかけられたのを思い出してさ」
「あ~、あの後学年主任に怒られたもんな」
「すごい他人事のように言うじゃん」
テレビの画面では壮馬が操るキャラクターが、啓介が操作するキャラクターを吹き飛ばし、勝敗が決したところだった。
区切りがついたころで2人は同時にコントローラーを下ろして、互いの顔を見る。
「引っ越してきたばかりで友達作らないといけないって焦ってたんだよ」
そう言われて壮馬は昔に聞いた啓介の話を思い出す。
啓介の地元はかなり辺鄙な場所にある田舎らしい。どこまで田舎かというと、地元から高校に通うことができないほどだった。
そんな場所で生まれた啓介に高校に行くという選択肢は自分の中にはなく、祖父母の畑を継ごうと考えていたらしい。
しかし、都会から嫁いできた母親は啓介に高校に進学してほしいと考えており、母親想いの啓介は母の希望通りに高校に進学して、一人暮らしを始めた。
そして、彼の地元は同年代の子供がいなかったこともあり、友達の作り方が分からなかった。だから壮馬と出会った時にあのような態度を取ってしまったらしい。
「まぁな。事情は分かっているけどさ」
だからいって初対面の人の手を握るどころか、追いかけるなんて恐怖しか感じない。
1年前、啓介と出会って感じたことを口にしようとしたが、もう出会ってから散々言っているので、流石に今回は飲み込んだ。
「でも、いいお母さんだよな。生活費だけじゃなくってゲームも買ってくれるなんて」
壮馬の視線の先には小さなテレビに接続されている最新の白いゲームがある。
このゲームはまだ発売されたばかりで、定価も3万円前後とバイトが禁止されている高校生からしたら中々手が出せない代物だった。
しかし、啓介の地元の田舎では普通に売っていたらしく、それをお母さんが一人暮らしをしている啓介が住んでいるアパートに送ってくれたという。
「なんか、俺がやりたいことを無視して高校に通わせたことにちょっと罪悪感持っているみたいでさ」
「へぇ~。本当にいいお母さんだね」
啓介は母親からの愛情と償いにむず痒いという表情を浮かべる。
確かにいくら日本人のほとんどが高校に行くといっても、啓介の境遇は特殊だった。それに彼は祖父母の畑を継ぎたいと思っており、高校に進学する理由がなかった。
しかし、啓介自身は高校に通ってこの1年で母親の言う通り高校に通ってよかったと思っているため、母の償いにどういった反応をすればよいのかが分からなかった。
壮馬はそんな複雑な啓介のことは露知らず、再びコントローラーを握りなおし、新しいゲームを始めようとしていた。
「んにゃ~」
しかし、壮馬の手は突如として現れた来訪者の鳴き声によって止まることになる。
「クロ! 元気にしてたか~!」
「にゃっ」
壮馬はコントローラーを丁寧に地面に置き立ち上がると、部屋の沓摺に跨って部屋の様子を見ている黒猫にゆっくり近づいていく。
黒猫も壮馬に近づいていき、壮馬は黒猫の頭を丁寧に撫でる。
「クロも大きくなったな~」
そう言って壮馬は嬉しそうにクロを撫で続ける。
クロとは去年、壮馬と啓介の2人が出会うきっかけになった黒い猫だった。去年までは壮馬の両腕でも簡単に受け入れることができたが、今の体はかなり大きくなっており、両腕で持ち上げるのにはかなりの力が必要だ。
「いや~。あの時は驚いたよな」
「あれな。クロが学校の前待ってたやつ」
2人の頭の中に半年前の記憶が思い出させられる。
壮馬と啓介が出会ってから3か月後、主に啓介のせいで最悪の出会い方をした2人は不思議と仲良くなっていた。そして、その日もいつものように帰ろうとした時、校門の前に見知った猫がいたのだ。
それは2人が出会うきっかけになった黒い猫だった。しかし、3か月前よりもやせ細っていて今にも死んでしまいそうなほど、彼の体は衰弱しきっていた。
それを見た2人は黒猫を動物病院に連れて行くことにする。
黒猫は捨て猫で、子猫だった。医者が言うには生きていること自体が奇跡という状況で、彼は小さな命を紡ぎ続けていたらしい。
それを聞いた啓介は、黒猫を自分の家で飼うことを決意する。
そして、啓介に飼われることになった黒猫はその見た目のままクロという名前がつけられて、彼は今では飼い主である啓介と啓介の家によく遊びにくる壮馬に懐いていたのだった。
「いや~。俺も猫飼いたいな~」
「飼わないの?」
「いや、俺の家が飼えるわけがないじゃん」
壮馬は幸せそうな顔をしながら、クロを撫で続ける。クロは完全に堕落しきったような表情をして、壮馬の膝に頭をのせていた。
そんな和やかな1人と1匹を啓介は憐みの目で見ていた。
「そういえばさ。明日ってテストだったけ?」
壮馬は首を真後ろに向けて啓介の目を見つめる。壮馬の目に見られた啓介は、顔をみるみる内に真っ青にしていく。
「……あったけ……?」
「え、前の授業で先生が言ってなかった?」
壮馬の言葉を聞いて自分の中の記憶が明瞭になっていった啓介は、その顔をだんだんと歪ませていく。
そんな彼の表情の変化を見ていた壮馬は嗜虐心が煽られる。そして、その口角を嫌らしく上げて、首を傾げる。
「あぁ、もしかしたら違ったかも~」
上機嫌にそういう壮馬を見て、啓介は冷静になって冷ややかな視線を向ける。
「……おい、嘘吐くなよ」
「え~、嘘吐いてないって」
そう言いながらクロを撫でる壮馬の表情は、まるで悪戯を隠している子供のようで、啓介は呆れたようにため息を吐いた。
「お前の嘘のせいで何回苦労したと思ってんだ。そのおかげでお前の嘘なんてすぐに分かるわ」
「……チッ! つまんないな」
嘘を見抜かれた壮馬は、わざとらしく舌打ちをし、悪態を突く。
それを見た啓介は満足そうに大きく頷いた。
「まぁ、嘘を見抜いて上機嫌なところ悪いけど、テストがあるのは事実だからな?」
「うぐっ!」
事実を突きつけられた啓介はうめき声をあげる。そして、目を潤わせて、壮馬を見つめる。
壮馬はその瞳に見つめられて、啓介に聞こえるようにわざとらしく大きく息を吐いた。そして、おもむろに立ち上がると、部屋の隅に投げ捨てられている自分の学生鞄から数学の教科書を取り出す。
「よし、それじゃあ勉強を始めるぞ~」
「……は~い」
やる気こそないが、啓介は重たい体を動かして、勉強机に着く。そして、壮馬はその隣に立って数学の教科書を勉強机の上に置いた。
勉強が苦手な啓介に対して、壮馬は勉強が得意な方だった。実際に蓬丘高校は2人が住む県の中で上の方に部類される高校だが、壮馬の学年順位は基本的に1桁だった。
そのため、勉強が苦手な啓介は、中間・学年末テストや小テスト前に壮馬に勉強を教えてもらっている。その勉強のおかげで入学当初は赤点ばかりだった啓介の成績も、高校2年生の現在では平均点に届くか届かないかの点数を取れるようになった。
「んで、ここがこうなるから……」
「? 悪い、もう一回教えてくれ」
「あ~、じゃあこう説明した方が分かりやすいか?」
2人は勉強机に向かいながら、数学の問題を一つ一つ解いていく。
それは決して順調とは言えなかったが、啓介の歩幅に合わせて壮馬は教えている。
そして、時間はだんだんと過ぎていき、気が付いたら太陽は沈み、月が昇っていた。
「ふぅ~。これだけ覚えていたら平均点は取れるだろ」
壮馬は体を伸ばしながら、机の上に突っ伏している啓介に声をかける。
啓介の頭からは煙が出ていて、数式を脳に積み込まれたせいで、パンクしているようだった。
「ありがとうな、壮馬」
「気にすんな。お前が留年したらつまらないしな」
真正面から誉め言葉を言われた壮馬は、少し照れ恥ずかしそうに誤魔化す。
「壮馬、学校の先生になったらいいのに」
その言葉に他意はなかった。
だけど、壮馬は一瞬何かを言いかけて、それを飲み込んだ。そして、涙を流しそうな笑みを浮かべる。
「……なれるか!」
彼は今まで今日の中で一番、声を張り上げて返事する。
「じゃあ、俺は帰るよ」
壮馬は机の上に置いてある数学の教科書を手に取り、自分の学生鞄に入れる。学生鞄を肩に掛けて振り返ると、啓介は椅子に座ったまま首だけ動かして壮馬の顔を見る。
「せっかくなら泊まっていけばいいのに」
その言葉に壮馬は小さく首を横に振った。
「そんなことあの母親が許すわけないだろ?」
「……確かにな」
壮馬の言葉を聞いて啓介は感傷的に笑った。
「じゃあ、また明日な」
「おう、また明日」
そこからさらに5年後、壮馬は大学4年生になっていた。
高校を卒業後、壮馬は県内有数の名門大学に特待生で進学し、その成績を維持し続け、気が付けば卒業間近になっていた。
就職先も走り出したトロッコのように自然と決まり、壮馬は人生の夏休みと呼ばれる大学生活の余生を謳歌していた。
そんな壮馬はラフな服装をして、喫茶店でコーヒーを飲んでいた。その手にはスマホが握られており、画面にはトーク画面が写されていた。
そのトーク画面の相手は高校の時からの友人である啓介だった。
「……啓介……」
一見、優雅にコーヒーを飲んでいる壮馬だったが、その表情をよく見れば苛立ちによって表情が歪んでいた。
今日は啓介と遊びに行く約束だった。
啓介は壮馬とは違い、高校卒業後は中小企業に就職することになった。元々は祖父母の畑を継ぐつもりだったが、高校での経験を経て、社会経験を通じてからでも遅くないと自分で考えてからのことだった。
しかし、その仕事はかなり忙しい……、いやありのまま言うとブラックと呼ばれるものだった。啓介は忙しい労働環境に置かれることになり、休みも中々取れない上にたまにある休みは体力回復のために惰眠を貪っていた。
それに加えて難関大学に特待生として入学した壮馬も勉強で忙しい毎日を送っていた。そのため、壮馬と啓介はメッセージでのやり取りこそあったものの、直接会うのは高校を卒業ぶりだった。
(寝てんのか……?)
彼の境遇を知っているからこそ、強く責めることはできないが、約束を反故にされたのはむかついた。
壮馬はコーヒーカップに口を付ける。そのコーヒーはかなり冷えていて、中身もほとんどなくなっていた。
コーヒーカップの底を見ながら、壮馬はスマホの時間を確認する。集合時間は13時だというのに現在の時刻は14時過ぎ。約束の時間から1時間以上も経過していた。
「すみません、本日のコーヒーを1つお願いします」
「かしこまりました」
緑色のエプロンを着た店員が、壮馬の注文を受けるとカウンターに向かっていく。
店員の背中を目で追いながら壮馬はため息を吐いた。
今日という日を楽しみにしていた壮馬は、期待が裏切られたという失望感に苛まれながら、今日何度目かも分からないメッセージを啓介に送る。
その時だった。壮馬のスマホに電話がかかって、唐突に小さく揺れ始めた。
怪訝な顔でスマホを見ると、そこには啓介の名前が表示されている。
壮馬はスマホを持ち、近くにいた店員に店外を指さすと店員はこくりと小さく頷き、それを確認した壮馬は店外に出てから電話に出る。
「もしもし、啓介。やっと起きたか~?」
怒りと呆れを冗談でコーティングして、壮馬がそう聞く。しかし、電話口からは言葉が返ってこず、不思議に思った壮馬は音量を上げた。
「もしもし、啓介? 声聞こえないんだけど……」
「……そ、うまか……? わ、悪いな」
電話口で聞こえてきたその声は泣いていた。
それを聞いた瞬間、壮馬は表情を引き締めて目を見開いた。
「……何があった?」
あの啓介が泣くとは想像することができなかった壮馬は、声を低くして啓介に問いかける。
電話越しに啓介は声を震わせて、言葉を綴ろうとする。
「……クロが……! クロが!」
「クロ? もしかして……!」
「クロが死んで……!」
それを聞いた瞬間、心臓が縮まったのを自覚できるほど壮馬の体は強張った。
「……すぐ行く。今家か?」
「あ、あぁ」
「分かった。ちょっと待ってろ」
壮馬は電話を切って、スマホをポケットにしまう。そして店内に戻ると、自分の席に白い湯気を上げるコーヒーカップが置かれていた。
壮馬はそのコーヒーカップを持ち上げ、それを一気に口に含む。
口の中に高熱のコーヒーで満たされ、その熱が痛みになって伝わってくる。しかし、今の壮馬にとってそんなことは些細なことだった。
「すみません、会計をお願いします」
「は、はい!」
逼迫した壮馬の様子が伝わったのか、店員の女性が慌ててレジに入る。
そして、壮馬は財布から五千円札を取り出して、トレーの上に先んじておいた。
「お会計が2280円になって……、お釣りが2720円になります……」
「ありがとうございます……!」
壮馬は女性店員からお釣りを受け取り、そのまま店外へ飛び出した。
そして、近くにある駅に向かって走り出した。
啓介の家は高校の時とは違い、会社に比較的近いマンションの一室を借りている。一回も行ったことはないが、いつでも来ていいとメッセージで住所だけは送られていたので、壮馬はスマホを操作してその住所を確認する。
そして、壮馬が駅に着いたのと同時に、駅に電車が到着する。
「ドアが閉まります。ご注意ください」
壮馬がホームに辿り着いたのと同時に、駅員がそうアナウンスする。そのアナウンスが聞えた際、壮馬は全量以上の力を振り絞り、閉まりかかる電車の扉に乗り込んだ。
「……はぁ……はぁ」
壮馬の口から息が溢れ出す。
周囲の視線が駆け込み乗車をした壮馬に集まり、壮馬は居心地の悪さを感じながらもうるさい心臓を抑えつけようと、息を整えていた。
電車はすぐに動き、5分も乗っていれば目的の駅に着くことができた。
壮馬は電車から降りて、早歩きをしながら啓介が住むマンションに向かっていく。
啓介のマンションは駅からかなり近く、3分も歩けばマンションに着くことができた。
壮馬はスマホを取り出して、啓介に「着いた」とメッセージを送る。
間髪入れずに既読がつき、少し待てばマンションの扉が開いた。
「久しぶりだな……壮馬」
「啓介……!」
久しぶりに会う啓介はやつれていた。
高校生の時は筋肉質だった体は不健康に細くなっており、その瞳には生気が宿っていない。
「クロは……!」
「……入ってくれ」
ぶっきらぼうな啓介の後を追いながら2人は階段を上がっていく。
そして、5階に辿り着くと啓介は自分の部屋の扉を開いた。
「入るよ」
「あぁ」
壮馬はスニーカーを脱いで電気が点いていない薄暗い部屋に足を踏み入れる。
部屋は男1人暮らしとは思えないほど清潔だった。いや、より正確に言うなら汚れるほどのものは置いてなく、生活臭が全くと言っていいほどしなかった。
あるのは猫のための道具であり、啓介が暮らすための家具などは質素なものか、そもそも存在しなかった。
「こっちだ」
抑揚のない喋り方で、啓介は寝室に案内する。
壮馬は跳ねる心臓を抑えつけながら、寝室を覗き込む。
「……ッ!」
そこには安らかな顔をして眠るクロがいた。
クロは真新しいタオルに包まれて、穏やかな表情であちらの世界へと旅立っていた。
「ク……ロ」
彼の名前を呼んでも、あの時のように彼は近づいてこなかった。
彼の頭を撫でても、あの時のように彼は笑いかけてくれなかった。
ただ、冷たくなった体が、これは現実だと告げていた。
「……クロ」
もう一度、彼の名前を呼ぶ。
自然と壮馬の瞳からは涙が零れ落ちる。
「……俺さ。ここ最近、家に帰れてなかったんだ」
ポツリと、啓介が言葉を漏らす。その姿はまるで懺悔する罪人のようで、壮馬は彼から目が離せなくなった。
「仕事が忙しくって……上司が怖くって……いつもクロは俺を支えてくれたのに、クロを蔑ろにしていたんだ……!」
啓介は膝から崩れ落ちて、クロの体を抱きしめる。
「ごめん……ごめんよ、クロ」
彼は顔をクロに近づけ、謝罪の言葉を口にする。
しかし、傷つく彼に返ってくる言葉はなく、小さな寝室で、2人の我慢するような泣き声が響くだけだった。
泣き続けて、泣き続けて、泣き疲れ。涙も枯れた頃、壮馬は啓介にペット火葬を行うことを提案した。
クロを失ったことで動揺していた啓介も、クロのことを考えてペット葬儀に電話をかけた。
その後、電話口でプランナーと何かを話し込んだ後、クロは合同火葬の後、散骨されることになった。
埋葬するという手もあったが、自然に還して供養したいという啓介の考え方から、散骨という形でクロを供養することになったのだった。
電話が終わった後、再び壮馬と啓介は少しだけ泣いた。
その日、2人は一緒にいた。しかし、2人は1つたりとも言葉を交わすことはなかった。
そしてクロが亡くなってから1か月後、壮馬は再び啓介の家にいた。
「……大丈夫か?」
「……ぁ」
しかし、その部屋の主人の様子は1か月前とは全く違っていた。
何もなかったはずの部屋は足の踏み場もないほどゴミで埋め尽くされており、腐敗臭が部屋に充満している。
啓介は1か月前よりもかなり弱っていた。
ご飯は食べているようだったが、影響が偏っているコンビニ弁当で済ませているせいで、彼の腕はガイコツのように細くなっていた。
「……部屋、片づけるよ」
「……ぁ」
壮馬はそんな啓介に断りを入れてから部屋の掃除を始める。
持ってきたゴミ袋の中に床に放置されているプラスチックの容器を次々と投げ入れていく。
元々、何もなかった部屋ということもあり、部屋の掃除自体は30分ほどで終わることができた。
「……悪い」
小さく、啓介は壮馬にそう呟いた。
「いや、気にしなくっていいよ。別に掃除は苦手じゃないし」
「そうじゃなくって……お前も大変な時期なのに……」
啓介は頑なに壮馬と視線を合わせようとはしなかった。
壮馬は変わってしまった啓介にショックを受けつつも、彼との会話に華を咲かせようとする。
「困った時はお互い様だろ? それに、俺の母さんのことは気にしなくてもいい」
非常に明るく振る舞う壮馬だったが、啓介はそれ以降何も言わなかった。
「……お茶、俺が飲みたいから入れるよ」
壮馬は小さいキッチンに向かっていき、自分で持ってきた茶葉をやかんに入れてお茶を作り始める。
「……仕事はいけそう?」
「……無理……かも」
「そっか」
クロが亡くなってから1か月、啓介は会社に行くことができていなかった。
そもそも、常人ですら耐えられない職場に世間知らずの啓介が入社したのだ。そこにかかるストレスは想像できるものではないだろう。
そして、そのストレスを助けてくれていたのがクロだった。しかし、彼がいなくなってしまった今の啓介に、頑張る理由も気力も残されていなかった。
プルルルル!
突如として、啓介のスマホから電話がかかってくる。
「ッ!?」
啓介は電話の呼び出し音を聞いて体を震えさせる。
そして、壮馬はすぐさまスマホの元へ駆けつけると、その画面を確認する。
画面には『上司』と表示されており、壮馬は画面越しにいる相手に殺意を込めながら、電話には出ずそれを切った。
「大丈夫か? 啓介」
「……はぁッ! ……はぁッ!」
啓介は額から汗をにじませ、肩で呼吸をする。
そんな彼を見た壮馬は彼の背中を撫で始める。
「大丈夫だ。俺がいる。な?」
「……ぁ……。あぁ」
次第に啓介の呼吸は落ち着いていき、体の震えも収まっていった。
「お茶もそろそろ出来上がったし、一緒に飲もうぜ」
そういうと、啓介は何も言わずに椅子に座る。
その姿に安堵しながら、壮馬はキッチンに戻っていく。そして、使われてすらいないであろう湯呑を2つ取り出し、それらにお茶を入れていく。
「お待たせ、冷えるまで待っててね」
壮馬は啓介の正面の席に座りながら、机に2つの湯飲みを置く。
目の前に座る茫然とした啓介の様子に、壮馬は胸が針に刺されたように痛くなり、2週間前の啓介の姿を思い出す。
クロが亡くなってから2週間、啓介との連絡が取れなくなった。
それを心配した壮馬は、啓介の家に向かうとそこには首を吊ろうとしている啓介の姿があった。
慌てて啓介を助け、病院に連れて行くと、すぐに啓介はうつ病だと診断された。
啓介は一応落ち着いている。あれから死のうとすることはなくなった。しかし、昔のようにおしゃべりではなくなり、より一層やつれてしまった。
(俺がもっと啓介のことを気にかけてやれれば……)
壮馬は自責の念に駆られる。
自分は啓介がブラック企業に入社してしまったことを知っていた。そして、元々は野良猫であるクロの寿命も残りわずかの可能性があることも気が付いていた。
それでも、啓介なら乗り越えられる。そう信頼ではなく、妄信してしまった結果、壮馬は啓介の支えになることができなかった。
「壮馬?」
「ん、あぁ、どうかしたか?」
「いや、たぶんもう飲めるって思って」
啓介のことを考えていたら、だいぶ時間が経っていたようで、湯呑の温度は下がっていた。
「そうだな。飲むか」
「うん」
2人はゆっくりとお茶を口にする。
暖かく、落ち着いた熱が体中に染み渡り、体の震えや悩みを殺していく。
それから2人は一言も言葉を交わさなかった。
ただただ静寂な時間が過ぎていき、やがて夜がやってきた。
「……そろそろ帰るよ」
「そうか……。ありがとう」
「気にしないで。それじゃあ、また明日」
壮馬の言葉に啓介は言葉を返さなかった。そのことに漠然とした不安に駆り絶たれるも、強く言うことのできない壮馬は、そのことを追求することはできなかった。
現在、あれから啓介はまだ立ち直ることができず、日雇いの仕事をしてなんとかその命を繋いでいる状況だった。
彼にとってクロはそれほどまでに大切な存在であり、彼が生きる理由になっていた。
そして、そんな啓介がクロを失っても生き続けている理由、それは壮馬がいるからだった。
壮馬は就職後も啓介と毎日会うようにしていた。しかし、昼間は壮馬が仕事で忙しいため、会えるのは深夜や明朝しかなく、その短い時間を啓介のために費やしていた。
そして、そんな壮馬の献身があり、最近では啓介の調子はかなりよくなっていた。この前は就職活動について精神科医に相談したと、嬉しそうに話していた。
だからこそ、そんな彼を残して自分も消えてしまうことに、罪悪感が止まらなくてしょうがなかった。
家に帰った壮馬はおもむろにキッチンに向かうと、鈍い銀色を放つ包丁を首筋に当てる。
「……はぁ……はぁ」
自分で死ぬことを選んだというのに、ここまで怖くなるものなのかと、壮馬は息を切らしながら自虐的に笑った。
人々が寝静まった夜。
誰もが目を瞑り、眠りに着く時間。
壮馬はそれに倣い、瞳をゆっくりと閉ざした。
そして、そこに誰の耳にも入らない言葉が零れ落ちた。
「ごめんな……啓介」
壮馬は目を瞑り、包丁も持つ手に力を入れ、刃を立てる。
「壮馬!」
しかし、その手は何者かの手によって阻まれてしまう。
聞き覚えのある声に、壮馬はゆっくりと目を開く。
「……啓……介?」
そこには啓介がいた。
啓介は目を見開いて、壮馬の手から包丁を取り上げる。そして、そのまま包丁を遠くへ投げた。
「なんで、啓介がここに?」
その質問に対し、啓介は両目に涙を溜めて無理やり作った不格好な笑みを壮馬に向ける。
「高校の時から友達なんだぞ? お前の嘘はすぐに分かる……!」
それを聞いた瞬間に、壮馬の中にいつぞやの青い春が駆け巡る。
幸せだった日々。クロがいて、啓介がいて。自分には贅沢すぎたあの日々が。
「……そうだったな……」
「なんで、死のうとしたんだよ。壮馬!」
啓介は壮馬の肩を掴み、強く体を揺らした。
その体はちゃんと飯を食べられているのかと疑ってしまうほど軽かった。
「……もう、限界なんだよ……」
壮馬は涙を流さなかった。もう、涙なんてとうの昔に枯れ果てていたから。
「それは……お母さんのことか?」
啓介の質問に壮馬はゆっくりと頷いた。
壮馬の母はとある企業の社長だ。母は自分が大学生の内に会社を興し、一人でその会社を大きくしていった。そして、いつかは壮馬にも自分の会社を引き継いで社長になってもらうべく、彼女は幼い壮馬から自由を奪い、勉学に縛り付けた。
奪われた自由は大きかった。高校も大学も、すべて母が決めた。就職先は当然母が社長を務めている会社であり、次期社長になるべく壮馬は母の駒として馬車馬のように働かせ続けていた。
啓介は壮馬の母のことを少しだけ知っていた。
高校の時から彼は母によって苦しめられ続け、品も学もない自分と壮馬が交友を持っているのを壮馬の母が快く思っていないことも知っていた。
「辛かったな……」
そんな言葉が啓介の口から出てきた。
「ありがとうな。俺のために頑張ってくれて。俺も、もう少し頑張ってみるから、ほんの少しだけお前も生きてくれないか?」
啓介は壮馬の手を握りしめる。
それは高校1年生の時、啓介と出会った時に握られた時よりもとても弱々しかったのに、あの時とは違ってそれを振り払うことができなかった。
「あぁ、そうだな。もう少しだけ生きてみるよ……」
そんな風に彼に手を握られたら、壮馬は断ることができなかった。
ふと、窓の外を見れば次第に太陽が昇り始め、新たな日の始まりを告げていた。
10年後、とある田舎の学校にて。
「せんせー! お父さんがこれやるって!」
老朽化によってボロボロになった木造の廊下を一人の少女が走る。その手には立派に育ったトウモロコシが握られており、せんせーと呼ばれた男性は立ち止まる。
「立派なトウモロコシだね~。啓す……お父さんが育てたの?」
「うん! あ、でも私もたまに水やりしたの!」
そう言いながら少女は男性にトウモロコシを差し出す。
男性は大きなトウモロコシを受け取ると、柔らかい笑みを彼女に見せた。
「未来ちゃんは、お父さんの仕事の手伝いをして偉いね~」
「偉いでしょ~! 今日も水やりの手伝いするの!」
そう言って、未来ちゃんはにぱっ太陽のような笑みを男性に向ける。
「だから、私、もう帰るね!」
子供らしく一方通行で彼女は言葉を投げかけて、彼女は元来た道を走りながら戻ろうとする。
そして、思い出したように彼女は後ろを振り返って右手を大きく振り、男性も小さく右手を振る。
「また明日! 壮馬せんせー!」
「うん。また明日」
反復トゥモロー 庵途 @FluoRite-and-
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