緑色の帝国
昼浦満
第1話
そこはまさに緑色の帝国だった。濃くて深い緑を纏った大木が、何本も空へ向かって伸びている。空は澄んだ水色で、それでいてどこかライムグリーンをはらんでいた。涼しげな黄緑の風が、ゆっくり降りてくる。柔らかでいてちくりとする、背をピンと伸ばした若草は、日の光を浴びて揺れていた。
モミの大木と大木の間で、せせらぎの水がチョロチョロと流れる以外は、何の音もしない。包み込むような静けさだった。草も、木々も、一言も喋らない。風が吹いているはずなのに、空気すら沈黙を貫き通している。森は確かに生きているのに、生き物の気配がしない。
緑に囲まれたその場所には、無数の本棚が並んでいる。焦げ茶色で苔むした本棚。古いもののはずなのに、まだ木の温もりが残っていた。
いくつも並んだそのそれぞれに、ぎっしりと本が詰まっている。大きさはバラバラ、表紙の色もまとまりがない。紙の端までピンとした新しい本もあれば、あちこち黄ばんでページが抜けかかっているものもあった。
ぱすっ、ぱすっと、文字通り若草色の地面をを踏み分けながら、一人の少年がやってきた。彼は本棚の前まで来ると足を止めた。ぐっとかかとを上げて、一冊、ゆっくりと引き抜く。かこんと音を立てて本が棚を離れる。少年はそろそろと本を下ろし、両手で大事に抱えた。古い本。少年はその深緑の表紙を、ぎしっという音を立てて開いた。
少年はどこまでも続く緑の帝国を歩いていた。
浅葱色の花の群生地。白い睡蓮の浮かぶエメラルドグリーンの池。すっかり苔に覆われた倒木たち。なぜかほのかに雨上がりの匂いがした。少年は足を止めず、ただ前へ足を動かす。
背の高い若竹色の草が、彼の視界を遮った。少年は白い腕を前に伸ばし、草たちをかき分けた。さらさら、がさがさと葉が音を立てる。
少年が最後の葉を横に退けた時、今までよりいく分も緑の強い黄緑色の風が吹き抜けていった。少年は思わず目を瞑る。再び目を開けると、ドドドドと大きな音を立てて、滝が流れ落ちていくのが見えた。
滝全体は白い霧でぼんやりとしており、頂には虹がかかっている。少年はしばし立ち止まってそれを見上げていた。足元の草は青みを帯びている。しばらくそうして一心に見上げていたが、やがてまた歩き出した。
滝が遠くなってくると、また辺りは静かになった。といってもこれは先ほどとは違う、「生き生きとした静けさ」である。どこかで鳥が一声鳴いた。いつの間にか取り囲む木々は白樺になっていて、甲高く響き渡る鳥の声に引っ張られ、さわさわとざわめく。ぴちょんと水が跳ねる音がしたかと思えば、蛙も小さく歌いはじめた。少年は笑顔になって鼻歌を歌いながら歩いた。
少年の足が再び止まったのは、一本のバブオブの木の前だった。曲がりくねった枝と、大きくて太い幹。後方に回るとハシゴがついていた。
ハシゴを登ると、幹をぐるっと囲むようにして、真ん中に穴の空いた板の上についた。うっそうと茂った枝葉がいい屋根となって、さながらツリーハウスのようだった。板の上に座り込んで、周りの景色を見まわした。
かすかな風が吹き抜け、頬をくすぐる。どこまでも続く木々の緑。ただ、どれも絶妙に少しずつ、濃さと鮮やかさが違う。
いつまでそうしていただろう。気づけばうっすら西日が差していた。
突然、強い風が吹いた。バブオブががさがさとけたたましく騒いだ。それと同時に、少年が空中に迷うことなく身を投げ出した。一瞬のことだった。ひゅん、と風を切る音。優しい緑の地面が迫る。
パタン。
少年は本を閉じた。ほうっと息を吐く。そしてもう一度ページをパラパラとめくった。
それぞれのページに章がふってあった。見開き2ページでひとつの場所を紹介している、ガイドブックに似ている。最初の見開き1ページは崩した文体で書かれた文章。次の見開きは繊細な水彩画だった。少年は章の名前を指でなぞりながら声に出して読んだ。
「朝空ミントの花畑」
「エメラルド池」
「不死苔の森」
「ライム霧の滝」
「若草白樺林」
「バブオブの家」
それはまさに、凛として静かな「緑色」の声だった。
「次は、バブオブの先に行こう」
少年は静かに微笑んだ。緑色の栞紐を挟む。それから今度こそ鍵をかけるように、重々しく本を閉じた。
グッとかかとを上げて、そっと本を差し込む。コトンと音を立てて本が棚に収まると、からになった手をゆっくりと下ろした。
「じゃあ、またいつか。本棚の樹海」
誰にも向けず手を振って、ぱすっ、ぱすっ、と音を立てて去って行った。
ゆっくりと日が沈み、金色の光が「本棚の樹海」全体を包んだ。やがて今度は月が出た。青白い光がぴくりともしない若草を照らした。モミの木も眠っているかのように、身じろき一つしなかった。
緑色の帝国 昼浦満 @394buki
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