稲獣の刈人

2. 毒を喰う青年の夢

「ただいま」

　穂鷹が引き戸を開けると、夕餉の支度に追われる家の中から「おかえり〜」と三つの声が重なった。

「かやちゃん、大丈夫だった？」

　灰を突き崩し、芋の火加減を確かめていた姉の鈴芽（すずめ）が、うかがうように顔を向ける。

「うん。予想通り、山に入ってたね」

　そう答えながら、穂鷹は懐から袋を取り出し、戸口に立てかけてあった箕（み）に赤米をあける。土間に響くザラザラと乾いた粒の音に、鈴芽の火箸を動かす手が一瞬止まった。

「――そう。無事で良かった」

「お兄ちゃんみてぇ〜。どんぐり、いっぱい採ったんだよ」

　末っ子の実羽（みわ）が穂鷹に向かってそっと手を開く。六つほどの艷やかな実が転がり、そのうちの一粒が逃げるように炉端へ弾んだ。

「おお、いっぱい取れたな。明日それで独楽を作ろうか」

　穂鷹は逃げた一粒を捕えて掌に戻し、実羽の頭を優しく撫でる。嬉しそうに頷く実羽の横で、弟の真鴨（まがも）が軽く口を尖らせた。

「兄ちゃん、明日は俺と魚獲りに行くって約束だよ！」

「そうだっけ？」と首を傾げる穂鷹の脇腹に、真鴨が抱きつく。

「そうだよ！」

　叩いてくる拳を掌で軽くいなしながら、「だっただった」と穂鷹は笑った。

　父を亡くし、母も三年前に痩せた体のまま冬を越せずに逝ってからは、この四人だけで支え合ってきた。

　鈴芽は、芋の湯気を指先で確かめながら、布巾の上に一つずつ並べていく。木の器に粟と稗を軽くよそい、湯と刻んだ大根葉でかさを増す。塩の汁には、山菜の茎を少し。大根の糠漬けを一切れ添えた。

「真鴨、そっち片付けて。穂鷹も、食べる？」

「俺は赤米だけでいいかな。三人で分けて」

「分かった。糠漬け、けっこう上手にできたから味見はしてよね」

　穂鷹の肩をポンと叩き、土間に降りた鈴芽は裏の戸口の方を指さした。

「浸水はさせといた。火焚きは、自分でやったほうが美味しく炊けるんでしょ？」

「だね」

　穂鷹は笑って、そのまま裏口に出た。

日はすでに山の稜線へ沈みかけ、残照が縁を橙に染めている。

　桶に入った水を捨て、赤米を古びた釜に移す。火を起こす最中、この米の苦味とえぐみをどうにかできないものかと試行錯誤した日々を思い返し、鼻で軽く笑った。人間、慣れるもので――今ではもう、普通の食事と変わらず口にできる。

　ふと人の気配を感じて振り返ると、薄闇に紛れてこそこそと歩いてくるかやの姿があった。穂鷹が立ち上がると、かやは足を止め、慌てて髪を撫でて整える。

「かや、どうした？　日暮れにこっちへ来ると、怒られるぞ」

　思い出して、穂鷹は自分の尻を軽く叩いてみせた。

「またフキさんに叩かれる」

「もう！　言わないで。母さんは子ども扱いしすぎなんだよ。私もうすぐ十四なのに」

　恥ずかしそうに頬を膨らませるかやを見て、穂鷹は拳で口を押さえながら笑い声をあげた。普段はやや吊り目がちな瞳が、笑うと猫のように細くなる。その屈託のない笑顔に、かやもつられて小さく微笑んだ。

「さっきはバタバタしててお礼が言えなかったから。これ、食べて」

　そう言って、葉に包まれた小包を差し出す。

「いいのに。そっちも食べ物少なくなってきてるだろ」

「今日たくさん収穫できたから。きび団子、穂鷹好きだったよね？　少し多めに作ったから、みんなで食べて」

　小包を見つめて、穂鷹は少しだけ寂しそうに笑った。

「ありがとう。みんなで食べるよ」

　かやは赤く染まった穂鷹の指先を見つめて、ちらりと釜へ視線を向ける。口を開きかけたが、言葉を飲み込み目を伏せた。

「じゃあ、また明日」

「あ、ちょっと待って」

　穂鷹は裏手に回り、小枝にぶら下げていた小袋を手に取ると、軽くかやの胸元へ放り投げた。

「冬苺（ふゆいちご）。山で採れたからやるよ。かや、好きだったろ」

「……うん。大好き」

「暗くなってるから気を付けて帰れよー」

　手を振ると、かやも控えめに振り返し、胸に袋を抱えて駆けていった。その後ろ姿を、穂鷹はしばらく見送っていた。

＊＊＊

　夕餉を終えると、穂鷹は下の二人を連れて居間に敷いた寝床へ移した。小さな体は布団に入るとすぐに温もりを吸い、静かに寝息を立て始める。

　囲炉裏の火を見守りながら、鈴芽が口を開いた。

「今年は、どこも不作でね。町に笠や草履を売りに行っても、なかなか買ってもらえないの」

　手元の藁を弄りながら、声が暗く沈む。

「来年の春まで、どうにか持つといいけど……」

　鈴芽は頼りなく揺れる火を一瞥し、音もなく立ち上がった。寝所に向かうその背を見送りながら、穂鷹は場に残されたわだかまりを払うように小さく息をついた。

　家の中に静寂が降りてくる。穂鷹も戸口をひと通り確かめると、簡素な寝具に身を沈めた。藁を編んだ寝床は少し軋み、身体の重みをゆるやかに受け止める。

　炭が赤く、かすかに脈打つ。

その灯りをしばし見つめ、穂鷹は、ゆっくりとまぶたを閉じた。

――夢を見た。

よく繰り返す夢。けれど、父の顔だけはいつも霞んで見えない。

『少しずつ食べなさい』

　父の声とともに、掌に乗せられた赤い粒が目の前に差し出され、幼い自分が顔をそむける。

『苦いし、美味しくなくて嫌だ……』

　それでも父の手は強引に口を押さえ、赤い粒を押し込んでくる。舌に広がるえぐみと鉄の味。薬草めいた独特の匂いにえずき、喉が拒むのに、嚥下を促すように背を叩かれる。

『食べなきゃいけない。お前は――』

「……っ」

　目を覚まし、荒く息を吐きながら額に腕を押し当てる。窓の外はすでに白み始めていた。跳ねる鼓動を鎮めようと寝返りを打った、そのとき。

――ザザッ

　無数の稲穂が擦れ合う音が耳に届いた。遅れてズゥン、と地を揺らす鈍い音が重なる。穂鷹は怪訝そうに眉をひそめ、ゆっくりと体を起こした。

　寝息だけが響く家を抜け出し、外で耳を澄ます。遠く離れた北の山の向こうから、巨大な何かがすさまじい速さで迫ってきている。

　穂鷹は裏手口から鎌と短刀を手に取り腰に巻くと、ひとり宵闇の中を駆け出した。