1. 飢える村と赤稲の獣
「やっぱり、ここもだめだ……」
畑の土を掘り返すたび、かやの心は重く沈んだ。今年は長雨が続き、村じゅうの畑で作物がろくに育っていない。望みをかけていたこの芋畑も、
(このままじゃ冬が越せない。もっと食べ物を探さなきゃ)
かやは空の籠を背負うと、ひとり山道を駆け上がった。
***
秋の山は、数日の晴れ間でわずかな実りを増やしていた。山菜にきのこ、栗やあけび。兄と一緒に仕掛けておいた罠の一つにウサギが一羽かかっていた。もがいた足跡のそばで山芋の蔓を見つけ、かやは思わず手を合わせる。
「良かった、これで少しは足しになる」
思った以上の収穫に、小さく胸を撫で下ろす。
けれど、その安堵が欲に繋がった。
(村のみんなの分も、あと少しだけ)
散策に夢中になるうち、かやは山の深部へと踏み込んでいた。
ふと視界の端に、赤い光が揺れる。
次の瞬間、異形の獣が木立の向こうに立ち現れ、その巨体をざわめかせた。息が詰まり、背の籠がずしりと重くのしかかる。そこでようやく気づく――自分が禁の杭を越えてしまっていたことに。
「……っ」
咄嗟に体を低くし、木立の影へ身を滑り込ませた。幹に背を押しつけ、肩に食い込む籠の紐を押さえながら、かやは息を潜めて獣の姿を垣間見る。
獣は、赤黒い稲穂を全身にまとっていた。
地を這う胴から蜘蛛めいた八本の脚が伸び、歩むたび籾がこぼれて血の雫のような光を散らした。「ガチ、ガチ」と石を噛む音が辺りに響く。トカゲを思わせる赤く裂けた口からは酸を含んだ息が漏れ出し、周囲の大気を白く濁らせている。
――
かやは口を押さえ、必死に気配を押し殺す。震えを止めようと奥歯を噛み締めたが、怯えた吐息が鼻腔を鳴らし、かえって呼気を響かせた。赤穂成は向きを変え、ザザザッと稲穂を激しく振り鳴らし始めた。
(どうしよう、気づかれてる)
かやは震える手で腰の小鎌を握った。覚悟を決め、ぎゅっと目を閉じたその時。トン、と肩を叩かれ驚いて顔を上げると、すぐそばに一人の青年がしゃがんでいた。
「
穂鷹はそっと唇に指を当て、かやの声を制する。そのまま音もなく立ち上がり、腰の鎌を抜いた。
次の瞬間、彼の姿がかき消えた。
――ザグッ!
乾いた藁を断つ音とともに、宙を舞った穂鷹が赤穂成の背後へと着地する。その横で巨大な後脚が一本、鮮血のような稲粒を撒き散らしながら転がった。
絶叫の圧が空気を震わす。
赤穂成は額の単眼を赤く染め、鞭のように藁尾を振り払った。尾に薙がれた木々がバキバキとへし折れ、葉擦れの音を立てながら斜面に転がり落ちていく。鳥たちが激しい羽音を撒き散らし、叫声をあげて一斉に空へ逃げ惑った。
あんなものが当たったら、穂鷹が死んでしまう――かやは、喉の奥で声にならない悲鳴をあげた。
穂鷹は尾の戻りを一足で避け、幹を蹴って赤穂成の背に跳躍した。稲の
揺れる背に張り付き、腰から抜いた短刀を右首の付け根へ一気に突き立てる。ガキッと石が砕ける音がして、赤穂成の動きが止まった。穂鷹が背を蹴って飛び退くと同時に巨体は激しく痙攣し、糸が切れたように崩れ落ちた。
(すごい……)
かやは早鐘を打つ胸を押さえ、息を呑んでその光景を見つめた。
穂鷹は赤穂成の絶命を確認すると、そこから鎌を引き抜き、慣れた手つきで柄を捻る。カチリと音が鳴り、刃の背から鉄の櫛歯が滑り出した。
——ざり、ざり。
静寂を取り戻した森に、硬質な収穫音が響く。彼は無言のまま、赤い籾を削ぎ落とし、袋へと集め始めた。
(また、それを食べるんだ)
夕焼けの光が木々の間から差し込み、山の影を濃くしていく。かやは胸に滲む切なさのまま、穂鷹を背を見守った。首筋に流れる黒髪が逆光に溶け、輪郭だけが金色に縁取られる。だが、その毛先と籾を削ぐ指先は、赤穂成と同じ禍々しい「赤」に染まっていた。
その姿は異質で――痛ましいほどに胸を締め付ける。
誰も口にできない毒の米を、穂鷹だけが食べ続けている。村にもっと食べものさえあれば、彼はあんなものを口にせずに済むのに。
「かや、もう出てきていい。日が沈む前に村へ戻ろう」
声をかけられ、おずおずと姿を現す。気が緩んだのか、泣くつもりはなかったのに涙が溢れ、慌てて手の甲で拭った。
「ご、ごめん」
謝るかやに、穂鷹はそっと寄り添い優しく肩を叩く。
「よしよし、怖かったな。でも泣くならフキさんに怒られる時にしな。めちゃくちゃ怒ってたから」
「えっ」
激怒する母が脳裏に浮かび、かやの涙と血の気が一気に引く。穂鷹は呆れ顔で首をすくめた。
「一人で山に入るなって言われてるだろ。今回は結構きつく叱られると思うぞ」
「うぅ〜」
安堵の涙は、そのまま恐怖の涙に変わっていく。
「籠は俺が持つ。山に行くときは、ちゃんと言えよ。付いていくから」
そう言って、穂鷹はかやの背の籠を引き取り、踵を返した。
「……まあ、俺とはあまり関わらせたくないだろうけどな」
その呟きは、かやの耳には届かなかった。
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