稲獣の刈人

住吉スミヨシ

第一部:赤喰い編

プロローグ. 赫災

 谷は焼け崩れ、斜面には刈人かりうどたちの亡骸が累々と転がっていた。川面には息絶えた者たちの影が無数に漂い、枝にかかった死体が吊るされるように揺れている。


 土雉ときじは瀕死の忍びを背負い、崩れかけた山道を必死に駆け上がっていた。


「すまない狗葦いぬい! 俺を庇ったせいで」


 息を吸うたび、血の匂いが鼻を突き、喉を焼く熱気が肺にまで迫ってくる。谷底から這い上がってくるおぞましき咆哮が、山肌を伝いながら全身にのしかかってきた。


 かつて感じたことのない絶望が、早く逃げろと土雉の背を押した。これまで一度も、敵に背を向けたことはなかった。死ぬよりも、退くことが屈辱だったのに。


 赤黒い瘴気をまとった巨大な稲獣――【赫穂成かくほなり】が、眼下の渓流を毒で赤く濁らせていく。


 刈人隊最高戦力を有した土雉隊は、二人を残して一瞬で谷底に沈んでしまった。


「……土雉、もういい。俺のことは捨てていけ」


肩で受ける狗葦の呼吸が、ぜろぜろと湿った濁音に変わる。


「あの伝承は、本当だった……土雉、俺だけが奴の瘴気に耐えられたのは……ぐっ」

「狗葦! もう喋るな」


 土雉が焦りを滲ませ、声を荒げたその瞬間。ゴボッと狗葦が喉を鳴らし、堰を切ったように鮮血を吐き出した。慌てて背から下ろした、そのとき――。


 山頂の空が渦を巻きながら歪み、そこから龍神のごとき金色の巨影が現れた。輝く稲穂を揺らし谷の上空を一巡すると、いななきとともに無数の光の粒をその身から放つ。山は白昼のような眩しさに覆われ、土雉は思わず顔をそむけた。


(――あれは。金穂成きんほなりか……!)


 光の粒は谷底へ螺旋を描きながら、赫穂成めがけて鋭く降り注ぐ。光は巨体に触れた瞬間に鎖と変じ、その肢体を容赦なく縫いとめていった。


 絶叫が轟き、赫穂成は瘴気に燃える稲穂を逆立てながら激しくもがく。鎖の中で巨体が軋むたび無数の籾が擦れ合い、ざりざりと耳障りな音を撒き散らした。しかし抵抗は長くは続かず、赫穂成は次第にその動きを鈍らせ、光に呑まれるように谷の裂け目へと沈んでいった。


 山に静寂が戻る。

その余韻に、金穂成が思念を重ねた。


――我が力には限りがある。努々忘れるな、人の子よ――


 光芒はしばし谷を照らし続けたが、やがて薄靄のごとく淡くほどけ、夜明けの残光だけを残して消えていった。


 腕の中で、狗葦の目から光が抜けていく。

「……土雉、恐らく次はない……」


 そのまま狗葦は息絶え、身体の重みだけが残った。


 土雉は嗚咽を飲み込みながら、ひとり静寂の中に残された惨劇を見下ろしていた。

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