エピローグ 反転の彼方
ロンドンの夜は、いつも通りに冷えていた。
だが、今夜の霧は、どこかやわらかかった。
ベイカー街の部屋に戻ると、ワトソンが椅子に座っていた。
新聞を読んでいたらしいが、俺の姿を見てすぐに顔を上げた。
「やっと帰ったか。鏡の中で迷子にでもなってたんじゃないのか?」
「……可能性はあったな。だが、戻ってきたよ」
「ふん、さすが名探偵ってとこか」
俺は火の消えた暖炉の前に腰を下ろし、濡れたコートを脱いだ。
ポケットには、砕けた鏡の欠片がひとつ。
「あっちの“私”は、どうだった?」
「鏡の中の世界には、秩序と混沌が逆さに存在していた。
人が人を信じず、正義が暴力に置き換わっていた」
「つまり、こっちの方がまだマシってわけか」
私は笑った。
「そう言えるかもしれん」
ワトソンは新聞を畳んで、私の隣に腰を下ろす。
長い付き合いだ。言葉は少なくても通じることがある。
「で、君はまた、あっちに行くのか?」
「いいや。もう必要はない。
私が“私である”限り、あの世界に囚われることはないだろう」
「そっか。……まあ、戻ってきてくれてよかったよ」
それは彼にしては珍しく、率直な言葉だった。
俺は頷き、暖炉に新しい薪をくべた。
炎が静かに灯る。
世界が、ひとつの輪郭を取り戻していく。
「ワトソン」
「ん?」
「もし、また何かが“逆さま”になったら――その時は」
「ああ、わかってる。
その時は、一緒に鏡の中を叩き割ってやるよ」
そうして、夜は深まっていった。
反転の世界は、まだどこかで息を潜めている。
だが今は、ただ静かに、この世界を照らす火のぬくもりに身を委ねよう。
シャーロック・ホームズの異界録 V:反転探偵の肖像 S.HAYA @spawnhaya
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