チャットラブ・シンドローム

トムさんとナナ

チャットラブ・シンドローム

## 第一章 画面の向こうの王子様


小雨が窓を叩く音を聞きながら、椎名美香子は自宅のリビングに設置したデスクでノートパソコンを開いていた。


入社三年目にしてリモートワーク中心の働き方になってから、もう半年が経つ。


最初こそ戸惑ったものの、今では通勤電車の満員地獄から解放された快適さに、すっかり慣れていた。


「おはようございます!今日もよろしくお願いします」


チームのSlackチャンネルに定型文を投稿する。


すぐに「おはようございます」「今日も頑張りましょう!」といった返事が並ぶ。


この何気ないやり取りが、美香子の一日の始まりだった。


美香子は広告代理店のWebデザイナーとして働いている。


同じプロジェクトチームには、営業の田中さん、ディレクターの佐藤さん、そして──


「おはようございます。昨日の件、修正版アップしました。確認お願いします。」


画面に現れたメッセージを見て、美香子の心臓がドキリと跳ねた。


送り主は「北川優斗」。


入社一年目の新人プログラマーだった。


美香子は彼と直接会ったことがない。


リモートワーク導入後に入社した彼とは、すべてのやり取りがチャット越し。


プロフィール写真は後ろ姿の影絵のような画像で、顔はまったく分からない。


声も聞いたことがない。


ビデオ会議では常にカメラオフ、マイクミュートで参加している。


それなのに──いや、それだからこそ、美香子は彼に興味を抱いていた。


「ありがとうございます。すぐに確認します!」


返事を送りながら、美香子は勝手に想像を膨らませていた。


きっと優しい笑顔の人に違いない。


文章の節々から感じられる丁寧さと、時折見せるユーモア。


そして何より、仕事への真摯な姿勢。


(新人なのに、こんなに頼りになるなんて...きっとイケメンよね)


美香子の妄想は止まらない。


きっと爽やかな好青年で、休日はカフェで読書なんかしているタイプだろう。


いや、もしかしたらスポーツマン系かも。


プログラミングができるということは、理系の知的な感じかもしれない。


「美香子さん、デザイン確認しました。今回もセンス抜群ですね。色使いが特に素晴らしいです。」


北川からのメッセージに、美香子の頬がほころんだ。


「ありがとうございます!そう言ってもらえると嬉しいです」


「いつか美香子さんのデザインについて、もっと詳しく聞かせてもらいたいです。どういうところからインスピレーションを得ているんですか?」


美香子の指が止まった。


これは...もしかして、プライベートな話をしたがっている?


「えーっと、色々なところから...映画とか、街を歩いていて見つけた風景とか」


「映画!僕も好きです。最近何か面白いの見ました?」


(きた!プライベートトーク!)


美香子は内心で小躍りした。


対面だったら緊張でまともに話せないだろうけど、チャットなら大丈夫。


むしろ、彼女の本領発揮だった。


「先週、『君の名前で僕を呼んで』を見直しました。何度見ても美しくて...北川さんはどんなジャンルが好きですか?」


「僕も同じの好きです!イタリアの風景が本当に綺麗でしたよね。あと、SF映画もよく見ます。『インターステラー』とか『ブレードランナー2049』とか」


(わあ、趣味が合う!しかもちゃんと内容について話せる人だ)


美香子の妄想は加速していく。


映画の話ができる知的な男性。


きっと文学も読むし、芸術にも造詣が深いに違いない。


そして何より、彼女の作品を理解してくれる。


「『インターステラー』、大好きです!あの時間の概念の描写が圧巻でしたよね」


「分かります!クリストファー・ノーランの世界観、本当に素晴らしいですよね。美香子さんとはきっと映画の話で一晩中語り合えそうです」


美香子の心臓が激しく鼓動した。


これはもう、明らかに好意を持ってくれている。


そして自分も、確実に彼に惹かれている。


「それ、とても素敵ですね」


「今度、お時間があるときに、もしよろしければ...」


メッセージが途中で止まった。


美香子は画面を食い入るように見つめた。


続きは?続きは?


「すみません、会議の時間でした。また後で」


(ああああ、なんて言おうとしていたの?!)


美香子は椅子の上でもがいた。


これは告白の流れだったのでは?


それとも単純に映画の話がしたかっただけ?



## 第二章 妄想は膨らむばかり


その日の午後、美香子は仕事に集中できずにいた。


北川の「今度、お時間があるときに」の続きが気になって仕方がない。


「集中、集中」


自分に言い聞かせながらPhotoshopを開くが、頭の中は北川のことでいっぱいだった。


(きっと映画を一緒に見ませんかって誘おうとしてくれたのよね。でも、リモートワークで顔も知らない相手と映画鑑賞?オンラインで同時視聴とかかしら?それとも...まさか、実際に会って?)


想像は際限なく広がった。


映画館のカップルシート。


暗闇の中で隣り合って座る二人。


感動的なシーンで、そっと手を重ねて...


「美香子さん、先ほどの件の続きですが」


突然のメッセージに、美香子は慌てて妄想を中断した。


「はい!何でしょう?」


「映画の話、とても楽しかったです。今度、もしよろしければ、オンラインで一緒に映画鑑賞しませんか?最近、同期視聴サービスとかあるじゃないですか」


(やっぱり!やっぱりそうだった!)


美香子は椅子の上でくるくる回った。


これは間違いなくデートのお誘いだ。


オンラインとはいえ、二人きりで映画を見るなんて、ロマンチックすぎる。


「それ、とても素敵なアイデアですね。ぜひお願いします!」


「本当ですか?ありがとうございます。週末はいかがですか?」


「週末、空いています!」


即答してしまってから、美香子は少し恥ずかしくなった。


あまりにガツガツしてしまったかも。


でも、もう遅い。


「では、土曜日の夜はいかがでしょう?何を見るか、一緒に選びませんか?」


「はい、楽しみです!」


メッセージを送信した後、美香子は現実に戻った。


オンライン映画鑑賞とはいえ、これは事実上のデート。


何を着よう?


いや、画面に映るのは上半身だけだから、上だけきちんとすればいい?


でも、気分の問題もある。


(そもそも、私、彼のことを何も知らない。本当に素敵な人なのかしら?)


ふと不安が過った。


でも、これまでのやり取りを思い返すと、北川は本当に紳士的で知的で、ユーモアもある。


きっと素晴らしい人に違いない。


「美香子さん、突然ですが、プロフィール写真、なぜ後ろ姿なんですか?ミステリアスで素敵ですが、ちょっと気になってました」


思い切って聞いてみた。


「あ、これですか?実は写真を撮られるのが苦手で...それに、顔よりも仕事で評価されたいと思って」


(謙虚!なんて謙虚なの!)


美香子の好感度はさらに急上昇した。


外見よりも中身で勝負する男性。


きっとイケメンなのに、それをひけらかさない奥ゆかしさ。


「素晴らしい考えですね。私も、デザイナーとして作品で評価されたいです」


「美香子さんの作品、いつも本当に素敵です。色彩のセンスが抜群で、見ていて心が明るくなります」


(もう、どうしよう。完璧すぎる...)


美香子は頬を赤らめながら、土曜日が待ち遠しくて仕方なかった。



## 第三章 運命の土曜日


土曜日の朝、美香子は普段の三倍の時間をかけてメイクをした。


画面越しでも美しく映るように、念入りに仕上げる。


服装も、上半身だけとはいえ手を抜けない。


お気に入りの淡いピンクのブラウスを選んだ。


「今日はよろしくお願いします。楽しみにしていました」


約束の時間より少し早めに送ったメッセージに、すぐに返事が来た。


「こちらこそ、楽しみにしていました。何を見るか、もう決まりましたか?」


二人で相談した結果、『Your Name』(君の名は)の英語吹替版を見ることになった。


お互いが好きな作品で、英語の勉強にもなるという理由だった。


「準備できました!」


「僕も準備OKです。それでは、3、2、1でスタートしましょう」


画面に映画が始まる。


美香子は興奮していた。


離れた場所にいるのに、同じ映画を同じタイミングで見ている。


まるで隣にいるような不思議な親近感。


『Your Name』の美しいアニメーションが始まると、二人はチャットで感想を交換し始めた。


「この作品、何度見ても美しいですね」


「新海誠監督の色彩感覚、本当に素晴らしいです。美香子さんのデザインにも通じるものを感じます」


(また褒めてくれた...)


美香子の心はふわふわと浮いていた。


映画の中で主人公たちが出会うシーンでは、なんだか自分たちの状況と重なって見えた。


「この二人、お互いの顔を知らないのに惹かれ合うところ、なんだか...」


「僕たちみたいですね」


北川からのメッセージに、美香子の心臓が止まりそうになった。


やっぱり、彼も同じことを考えていた。


「そうですね...不思議な感じです」


「美香子さん」


「はい?」


「僕、正直に言うと、最初にメッセージをもらったときから、特別な感情を抱いていました」


美香子の手が震えた。


これは...告白?


「私も...です。北川さんとお話ししていると、とても楽しくて、気持ちが明るくなります」


「ありがとうございます。実は、今日勇気を出してお誘いしたのには理由があります」


「理由?」


「美香子さんにお伝えしたいことがあって」


美香子は固唾を飲んで次のメッセージを待った。


「僕、美香子さんのことが好きです」


画面の前で、美香子は小さく「やった」と声に出した。


ついに、ついにこの瞬間が来た!


「私も、北川さんのことが好きです」


「本当ですか?」


「本当です。最初は仕事仲間としてでしたが、いつの間にか、メッセージを受け取るたびに胸がドキドキするようになって」


「僕もです。美香子さんのメッセージが来ると、一日が明るくなります」


二人は映画そっちのけで、お互いの気持ちを確認し合った。


画面の向こうに好きな人がいる。


顔は知らないけれど、心は確実に通じ合っている。


「今度、実際にお会いしませんか?」


北川からの提案に、美香子は一瞬ためらった。


もし、想像と違っていたら?


でも、これまでのやり取りで感じた彼の人柄は本物のはず。


「はい。ぜひお会いしたいです」


「ありがとうございます。来週の日曜日はいかがですか?渋谷のカフェなんかで」


「素敵ですね。楽しみにしています」



## 第四章 現実との遭遇


待ち合わせの日曜日。


美香子は一時間前からカフェの近くをうろうろしていた。


約束の時間は午後二時。


場所は渋谷の大型書店に併設されたカフェ。


目印は、北川が赤いマフラーをしていること。


(どんな人だろう?きっと素敵な方よね)


美香子の脳裏には、これまで想像してきた北川の姿が浮かんだ。


爽やかな笑顔の好青年。


知的で優しくて、ユーモアもある完璧な男性。


午後二時ちょうど。


美香子はカフェの入り口で深呼吸した。


「きっと大丈夫。これまでのやり取りで、彼の人柄は十分分かってる」


カフェに入ると、赤いマフラーをした男性を探した。


いた。


窓際の席に、確かに赤いマフラーの男性が座っている。


美香子は彼の方へ歩いていった。


近づくにつれて、その男性の姿がはっきりしてきた。


想像していた爽やかなイケメンとは、正直言って違った。


少しぽっちゃりしていて、髪の毛は薄め。


メガネをかけた、どこにでもいそうな普通の男性だった。


(あれ...でも、北川さんよね?)


美香子は一瞬戸惑ったが、約束は約束。


彼の前まで歩いていって声をかけた。


「あの、北川さんでしょうか?」


男性は顔を上げた。


少し驚いたような表情をした後、にっこりと笑った。


その笑顔は、確かにチャットで感じていた優しさそのものだった。


「美香子さんですね。初めまして、北川です」


彼は立ち上がって丁寧にお辞儀をした。


その仕草は、メッセージで感じていた紳士的な人柄そのままだった。


「初めまして。椎名です」


二人は向かい合って座った。


最初は少し気まずい沈黙が流れた。


(想像と違う...でも、この人が確かに北川さんなのね)


美香子は内心で動揺していた。


外見への期待が大きすぎたのかもしれない。


「あの...僕、期待していたのと違いましたか?」


北川が遠慮がちに尋ねた。


その表情には、少しの不安と申し訳なさが混じっていた。


「え?そんなことは...」


美香子は慌てて否定しようとしたが、言葉が出てこなかった。


正直に言えば、想像とは違った。


でも、それが悪いことなのだろうか?


「実は僕も、美香子さんに会えるのを楽しみにしていた反面、がっかりされるかもしれないって心配していました」


北川の正直な言葉に、美香子の心が少し軽くなった。


「私も、実は緊張していました。チャットと実際にお会いするのって、全然違いますね」


「そうですね。でも、美香子さんは想像していた通り、とても素敵な方です」


彼の言葉に、美香子は少し照れた。


「ありがとうございます。北川さんも、とても優しそうな方ですね」


会話が続くうちに、美香子は気づいた。


確かに外見は想像と違ったけれど、話している内容や仕草、笑い方は、チャットで感じていた北川そのものだった。


「あ、そうそう。僕、先日美香子さんが教えてくれたカフェ、行ってみたんです」


「本当ですか?どうでした?」


「最高でした。特にチーズケーキが絶品で。美香子さんのセンス、本当に素晴らしいです」


北川の笑顔は、メッセージで感じていた温かさそのものだった。


美香子は、だんだんリラックスしてきた。



## 第五章 揺れる心


カフェを出た後、美香子は一人で公園のベンチに座っていた。


約束では「また連絡します」と言って別れたものの、正直な気持ちは複雑だった。


(どうしよう...)


北川との二時間は確かに楽しかった。


話も弾んだし、彼の人柄もチャットで感じていた通りだった。


でも、心のどこかにある違和感を無視することができなかった。


携帯電話を取り出し、親友の麻衣にメッセージを送った。


「今日、例の人と会ってきた」


すぐに返事が来た。


「どうだった?!詳細求む!」


「...うーん、複雑」


電話がかかってきた。麻衣だった。


「どういうこと?最悪だったの?」


「最悪じゃない。むしろ、とても良い人だった」


「じゃあ何が問題なの?」


美香子は少し迷ってから正直に答えた。


「想像してた見た目と全然違ったの」


「あー...」麻衣の声に理解が混じった。


「でも、美香子、あなたいつも言ってるじゃない。外見じゃなくて中身が大事だって」


「そうなんだけど...実際に体験すると、こんなに戸惑うなんて思わなかった」


「その人、性格はどうだったの?」


「完璧だった。優しくて、面白くて、知的で。チャットで感じていた通りの人だった」


「なら、答えは出てるんじゃない?」


「でも...」


「美香子、あなたがその人を好きになったのは、チャットでのやり取りでしょ?顔を知らない状態で、その人の言葉や人柄に惹かれたんでしょ?」


美香子は黙った。麻衣の言葉は正しかった。


「今日会って、その魅力が偽物だったの?」


「...違う。本物だった」


「なら、外見なんて関係ないじゃない。美香子、あなた自身が一番よく分かってるはずよ」


電話を切った後、美香子は北川からのメッセージに気づいた。


「今日はありがとうございました。とても楽しかったです。美香子さんはいかがでしたか?」


美香子は返事に困った。


正直に戸惑いを伝えるべきか、それとも取り繕うべきか。


しばらく考えた後、素直な気持ちを書いた。


「私も楽しかったです。でも、正直に言うと、少し戸惑っています」


「戸惑い、ですか?」


「チャットでお話ししていた北川さんと、今日お会いした北川さん。同じ人なのに、私の中で整理がついていないんです」


「そうですね。僕も同じような気持ちです。でも、それは悪いことでしょうか?」


「悪いこと?」


「僕たちは、最初から特別な出会い方をしました。普通なら最初に外見を見て、その後で内面を知る。でも僕たちは逆でした。まず内面を知って、お互いを好きになって、その後で外見を知った」


美香子は画面を見つめた。


「新しい恋愛の形だと思いませんか?現代だからこそできる、とても純粋な恋愛」


「純粋な...」


「美香子さんが僕を好きになってくれたのは、僕の外見じゃない。


僕の言葉や、考え方や、人柄です。


それって、すごく素敵なことじゃないでしょうか」


美香子の目に涙が滲んだ。彼の言葉は心に響いた。


「北川さん...」


「僕も、美香子さんの外見を知る前から、美香子さんに恋をしていました。美香子さんの感性、優しさ、ユーモア。それが僕を惹きつけました」


「ありがとうございます」


「お時間をください。僕は待ちます。美香子さんが整理をつけるまで、いくらでも」


その夜、美香子は一人でこれまでのやり取りを読み返した。


北川からの最初のメッセージ、映画の話、仕事への真摯な姿勢。


そのすべてが、今日会った彼と確実に一致していた。


(私、何を迷ってるんだろう)


翌朝、美香子は決心した。


「北川さん、おはようございます。昨日はごめんなさい。私、答えが出ました」


「おはようございます。どのような答えでしょうか?」


「もう一度、お会いしませんか?今度は、戸惑いなしで。北川さんは北川さんです。チャットでお話ししていた、あの素敵な北川さんです」


「本当ですか?」


「本当です。私、北川さんともっとお話ししたいです。もっと色々なことを一緒にしたいです」


「ありがとうございます。僕もです」


美香子は微笑んだ。心の中のもやもやが、すっきりと晴れていくのを感じた。



## 第六章 本当の魅力


二回目のデートは、前回とは全く違った雰囲気だった。


美香子の心に迷いはなかった。


「美香子さんって、チャットの時と同じで、本当に面白い視点をお持ちですね」


北川が笑いながら言った。


「そうですか?北川さんも、お話ししていてとても楽しいです」


美香子は本当にそう思った。


確かに外見は想像と違ったけれど、話していると彼の魅力がどんどん伝わってきた。


「実は、僕、今日までずっと不安だったんです」


「不安?」


「外見に自信がなくて。美香子さんがきっとがっかりするだろうなって」


北川の正直な告白に、美香子は胸が痛んだ。


「そんなこと...」


「でも、今日お会いして分かりました。大切なのは外見じゃないって。これまでチャットで築いてきた関係が、本当に大事なものだって」


彼の言葉に、美香子は深くうなずいた。


「私も、最初は正直戸惑いました。でも、お話ししているうちに、北川さんはチャットで感じていた通りの方だって分かりました」


「ありがとうございます」


「私も告白があります。実は、北川さんのことを勝手にイケメンだと想像していました」


美香子の正直な言葉に、北川は大笑いした。


「やっぱり!僕もそんな気がしていました。美香子さんの反応で何となく」


「ごめんなさい。でも、今は分かります。本当の魅力って、外見じゃないですね」


「美香子さん...」


「北川さんの優しさ、知性、ユーモア。それは全部本物でした。チャットで感じていたものと、まったく変わらない」


北川の目が潤んだ。


「僕も同じです。美香子さんの明るさ、センスの良さ、面白さ。全部、想像していた通りです」


二人は見つめ合った。


最初に感じた戸惑いは、もうどこにもなかった。


「あの、僕たち、これからどうなるんでしょうね?」


北川が少し恥ずかしそうに尋ねた。


「どうなるって?」


「僕たちの関係...恋人として、やっていけるでしょうか?」


美香子は少し考えた。


確かに、最初に抱いていた外見への期待は裏切られた。


でも、それ以上に大切なものを得た気がした。


「やってみませんか?お互いのことをもっと知って」


「本当ですか?」


「はい。外見で恋に落ちるのも素敵だけど、内面で恋に落ちるのも素敵だと思います」


北川の顔が輝いた。


「ありがとうございます。僕、精一杯頑張ります」


「私もです」



## 第七章 変化していく関係


付き合い始めてから一か月。


美香子と北川の関係は、少しずつ変化していった。


最初の頃は、リモートワーク中のSlackでのやり取りがぎこちなかった。


同僚としてのメッセージに、恋人としての気持ちをどこまで込めていいのか分からなかった。


「美香子さん、おはようございます」


「おはようございます」


(もっと親しみやすく話したいけど、みんなが見てるし...)


美香子は毎朝このジレンマを感じていた。


「昨日のデザイン、とても素敵でした」


「ありがとうございます」


(本当は『ありがとう、優斗』って呼びたいのに)


プライベートでは下の名前で呼び合う関係になったのに、仕事中は「さん」付け。


この切り替えが最初は難しかった。


でも、徐々に二人なりのバランスを見つけていった。


「美香子さん、例の件の進捗はいかがですか?」


「順調です。夕方までには完成予定です」


「ありがとうございます。お疲れ様です」


表面的には普通の業務連絡。


でも、美香子には分かった。


北川の「お疲れ様です」には、恋人としての労いの気持ちが込められている。


そして夜、プライベートのLINEでは...


「今日も一日、お疲れ様でした」


「優斗もお疲れ様。今日の会議、優斗の提案すごく良かったよ」


「ありがとう、美香子。君に褒められると嬉しい」


二つのコミュニケーションツールを使い分けながら、二人は新しい関係性を築いていた。


週末のデートでも、変化があった。


「最初の頃と、今って何か違うよね」


美術館を歩きながら、美香子が言った。


「どんな風に?」


「最初は緊張してたけど、今はすごく自然な感じ」


「分かる。僕も最初は『がっかりされないかな』って心配だったけど、今はありのままの自分でいられる」


二人は手を繋いで展示を見て回った。


最初の頃は手を繋ぐことすら意識的だったのに、今では自然な動作になっていた。


「この絵、優斗が好きそう」


「当たり。なんで分かるの?」


「色使いが、優斗がいつも褒めてくれるデザインと似てるから」


お互いの好みや癖を理解し始めていた。


チャットだけでは分からなかった、細かな表情の変化や仕草も覚えた。


「美香子って、考え事してる時、眉間にシワを寄せる癖があるよね」


「え、そうなの?」


「うん。でもそれがまた可愛い」


「もう、恥ずかしい」


直接会うからこそ分かる新しい魅力も発見していった。


ある日、美香子は気づいた。


「私たち、最初の頃と全然違うコミュニケーションしてるよね」


「どういうこと?」


「チャットだけの頃は、毎回のメッセージがすごく特別だった。でも今は、たわいもない日常の話もできる」


「そうだね。でも、それって良いことじゃない?」


「うん。特別な関係から、自然な関係になったって感じ」


二人の関係は、恋愛の初期段階から、より深い段階へと移っていた。


お互いの良いところだけでなく、ちょっとした欠点も受け入れられるようになった。


「優斗って、実は結構心配性なのね」


「バレた?美香子は思ってるより頑固だよね」


「頑固って!」


「でも、そこが可愛い」


こんな風に、お互いの本当の性格を知って、それを愛おしく思えるようになっていた。


そして何より、二人は発見した。


リモートワークで出会った恋愛には、独特の魅力があることを。


「私たち、普通のカップルとはちょっと違うよね」


「どう違うの?」


「最初に内面を知って、後から外見を知った。そして今も、毎日チャットでコミュニケーションを取ってる」


「確かに。普通は会って話すのがメインで、メッセージは補助的なものだけど、僕たちは逆だね」


「でも、それが私たちらしくて好き」


美香子は本当にそう思った。


チャットから始まった恋愛だからこそ、言葉を大切にする関係を築けた。


直接会うことの特別感も、より深く感じられる。


「優斗と出会えて、本当に良かった」


「僕もだよ、美香子」


二人は確実に、新しい恋愛の形を作り上げていた。



## 第八章 新しい恋の形


交際開始から半年。


美香子と北川の関係は、安定した深いものになっていた。


週末のデートは恒例になった。


映画館、美術館、カフェ巡り。


二人の趣味が合うことが分かって、一緒にいる時間は毎回楽しかった。


「今日の展示、良かったですね」


美術館からの帰り道、北川が嬉しそうに言った。


「北川さんと一緒だと、いつもの何倍も楽しいです」


美香子も心から思っていた。


彼の解説を聞きながら絵画を見ると、新しい発見がいっぱいあった。


「美香子さんのおかげで、僕も色々なことに興味を持てるようになりました」


「そんな、私の方こそです」


二人は手を繋いで歩いた。


最初の戸惑いがうそのように、今では自然に手を繋げる。


「そういえば、会社の人たち、僕たちのこと気づいているみたいですね」


北川がクスクス笑いながら言った。


「え、そうなんですか?」


「今日、田中さんに『北川くん、最近幸せそうだね』って言われました」


「あら。私も佐藤さんに『最近いい感じじゃない?』って聞かれました」


「バレバレですね」


「でも、隠す必要もないですよね?」


「そうですね。堂々としていましょう」


帰り道で、美香子は振り返ってみた。


最初にチャットで北川にときめいたとき、こんな展開になるなんて想像もしていなかった。


外見への期待は確かに裏切られた。


でも、それ以上に素晴らしいものを得た。


優しさ、思いやり、知性、ユーモア。


そして何より、お互いを理解し合える関係。


「北川さん」


「はい?」


「私、最初にチャットでお話しした時から運命を感じていたんです」


「僕もです。画面越しでも、美香子さんの魅力は十分伝わってきました」


「でも、実際にお会いして分かったことがあります」


「何ですか?」


「恋愛って、外見じゃないんですね。こんなに幸せな気持ちになれるなんて」


北川は立ち止まって、美香子の手を握った。


「美香子さん、僕と付き合ってくれてありがとう」


「こちらこそ。北川さんと出会えて本当に良かった」


二人は微笑み合った。


夕日に照らされた二人の姿は、どこから見ても幸せそうなカップルだった。



## エピローグ 一年後


「おはようございます!今日もよろしくお願いします」


いつものようにSlackにメッセージを投稿する美香子。


すぐに返事が来た。


「おはようございます。今日も頑張りましょう」


送り主は「北川優斗」。


今では恋人として一年が経った。


二人の関係は、同僚にも完全に知られている。


でも、仕事中はプロフェッショナルに徹している。


プライベートな話は最小限に抑えて、しっかりと仕事に集中する。


「美香子さん、昨日のデザイン、クライアントから大絶賛でした」


「本当ですか?ありがとうございます」


「今度、二人でお祝いしませんか?」


「いいですね。どこに行きましょう?」


こんな何気ないやり取りでも、美香子の心は温かくなる。


あの時、チャット越しに恋に落ちて本当に良かった。


外見ではなく、内面を知って好きになれて本当に良かった。


リモートワークが始まって、人との距離が遠くなったと感じることもある。


でも、本当に大切な人とは、どんな形でも心の距離を縮められるのだと美香子は学んだ。


画面越しの恋愛、チャットから始まった関係。


一年前なら考えられなかった恋の形。


でも今では、これが美香子にとって最高の恋愛だった。


「今夜、新しい映画見ませんか?」


北川からのメッセージに、美香子は笑顔でタイプした。


「もちろんです。楽しみにしています」


外は相変わらず小雨が降っていたが、美香子の心は晴れやかだった。


画面の向こうにいる大切な人。


距離は関係ない。心が通じ合えば、どんな恋だって素晴らしいものになる。


画面越しの恋が、現実の幸せに変わった——それが、美香子の物語だった。


【完】


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