“October 28th 2025 when my brother was born, I died”

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Bye-bye, My Dears.

 甲高い叫び声が辺りをつんざいた。


 事件性のある悲鳴っていうのはこういう声を指すのだろう。私は場違いにもそう思った。


 朦朧とした意識の中、なんとか体を転がし上を向く。


 先の声を皮切りに野次馬でも集まってきたのか、周りは段々と騒がしくなってきていた。しかし、今の私にはそれを確認する術も気力もない。


 たらり。視界の一部が赤く染まる。どうやら血が出ているようだ。


「(ああ、これは死んだかもな)」


 死に際の感想にしては薄っぺらい。人生の最後に思い浮かぶことなんて、案外こんなものなのかもしれない。


 僅かにサイレンの音が聞こえる。誰かが救急車を呼んでくれたのだろうか。


 でも、少し遅かった。私は今まさに意識を失っていくのを克明に感じていた。


「(よりによって、なんでこの日に)」


 すぐ脇のトラックは申し訳なさそうな顔で、慌てた運転手を乗せたままそこにいる。


 ああ、恨み節の一つでも言っておくべきだったか。


 ◇◇◇


 唐突に、強烈な既視感が私を襲った。私は英文を書く手を止め、顔を上げる。


 昼下がりの英語の授業、秋真っ只中の陽気に眠気の募る時間帯のことだった。


 急激に霧がかった思考が晴れていく。いつの間にか私は寝入ってしまっていたらしい。


 この頃、疲れでも溜まっているのか、眠気が酷い。今まで居眠りを一度もしなかったことは、私の小さな誇りでもあったのだが、どうやらその称号も返上しなければならないようだ。


 頭を振って黒板に向き直る。


「……えー、関係代名詞の二つの用法は……」


 どうやら授業はもう十分もないらしい。先生の高い声を聞きながら時計を覗く。


「(ああ、当てられなくてよかった……)」


 この先生はあまり生徒を当てる方ではない。それを思い出した。


 授業ももう終わりかけで、私は筆箱へシャーペンを投げ出す。そういえば、あの既視感は何だったんだろうか。



 バイブレーション。私はポケットのスマホに手を伸ばす。


 校門を出てすぐのことだった。英語さっきの授業が最後で本当に良かった。


 アレがもう一時間続いて、起きていられる自信は私にはない。


 自慢じゃないが最近の平均睡眠時間は五時間半を切っている。いくらお見舞いの為とはいえ、もう少し寝る時間を取ったほうが良いだろうか。


 近々、というか今日――私に弟ができる。こんな年になってまさか家族が増えることになるなんて、全く思わなかった。


 お母さんはもう大分前から入院していて、最近は家族全員が慌ただしい毎日を送っている。


 おかげで夜遅くまで課題に追われてしまっているが、むしろそれが楽しいというか、なんとなく新たな家族を迎えるための試練みたいに感じながら取り組んでいる。だから授業中に眠くなるのは、……まあ仕方ないことなのだ。


「(あれ写真も?)」


 気を取り直してスマホを覗き込む。どうやら家族から送られてきているみたいだ。


「(…………って、まさか!)」


 私は素早くメッセージを開く。


『無事産まれました!!』


 その文言と共に、赤ん坊を抱きかかえたお母さんの写真。


「〜〜〜〜!!」


 感極まって、叫び出したいのを我慢するのでいっぱいだった。自分でわかるぐらい顔がほころぶのを抑えることができなかった。


『すぐに行く』


 私は端的にそれだけ送り返した。ようやく、ようやく今日、家族が増えたのだ。


 走り出しそうな足を押さえつつ、私は校門前の横断歩道で立ち止まった。


 赤信号を待つ時間すら焦れったい。


 もう一度スマホに目を落とす。…………やっぱり、表情が緩んで仕方がない。


 信号の色が変わったことにも気づかないまま、私は画面を眺めていた。周りの人たちの足元が目に入って、慌てて私も歩き出す。


「(あちゃあ、やっちゃった)」


 謎の恥ずかしさが込み上げてくるのを無視して、私はすっかり距離が開いてしまった集団を追いかける。スマホは既にポケットの中にしまっていた。――そんなときだ。


 ――横から全身を殴られたような衝撃。私はすぐにそれがトラックだと理解した。そしてそれが居眠り運転のせいであることも。


「(……なんで?)」


 私は運転手が誰かすらわかっていないのに? 


 血と同時に意識も流れ出ていく最中、奇妙な既視感が染み出してくる。


 視界の半分は血で覆われ、トラックは動かぬままそこにいて、野次馬たちは近寄らない。加えて、こんな状況でも私は嫌に冷静だった。既視感が全てを覆っていく。私にはその見慣れた世界が酷く不気味に見えた。


 そして、死ぬ間際に理解した。


「(ああ、そうか)」


血で溺れそうな喉を、それでも震わせた。


「――これで、二回目」


 ◇◇◇


 唐突に強烈な違和感が私を襲い、思わず英文を書く手を止めた。


 昼下がりの英語の授業、秋真っ只中の陽気に眠気の募る時間帯のことだった。


「……関係詞の直前のカンマには……」


 先生の声は変わらず教室全体に響いている。いつも通り、穏やかな日常のはずだった。


 しかし、私の手はまだ震えていた。まだ、あの段々冷たく、そして遠くなっていくような感覚が残っていたからだ。


 私はどうやら、この一時間に満たない短い間を繰り返しているらしい。


 今回は三回目。


 私は授業の終わりかけで目覚めて、ホームルームを終えて、校門前の横断歩道でトラックに轢かれて――死ぬ。


 ……ループものの主人公は化け物だ。ふと、そんなことを考えた。きっとそれは現実逃避のようなものだったと思う。それでも、あんな感覚を何度も体験することになるなんて、


「(――信じられない)」


自分がそうなることからは、目を逸らして。



 やけに遠く聞こえるチャイムを皮切りに、教室の中は混沌とした様相を呈し始める。


 私は、しかしそれに馴染めない心地で、そそくさと半ページの埋まったノートをしまう。


 今の私に必要なのは検証だ。多分、私はループしている。それなら何か法則があるはずだ。


 窓の外を眺めながら、ホームルームを聞き流す。内容は知っている。再来週の模試の話と、そして自転車の交通マナーの話。


「(ほら、あってた)」


 強烈な既視感を覚えることは最早なかった。


 代わりに私の中にあったのは気味が悪いくらい青ざめた表情と、僅かばかりの使命感だった。


 教室を出て今は、左へ足を向ける。前回と違う行動をしたらどうなるのだろうか。その検証が目的だ。


 それにしても三階の渡り廊下は久しぶりに通る。いつもだったら教室脇の階段ですぐに下りてしまうし、特別教室棟に行くときだって二階の渡り廊下を使った方が断然早い。


 それこそ最後にここを使ったのは二ヶ月前ぐらいだろう。図書室に本を返しにいったときだ。夏休みの課題で借りたものの、結構面白かった覚えがある。


 「……!」


 バイブレーション。私はすぐさまスマホを取り出した。渡り廊下の真ん中だけれども、誰も通らないだろうと勝手に結論付ける。


『無事産まれました!!』


 一言一句、変わらない。写真も変わっていない。でも、思ったより安心している自分がいることに気が付いた。


 なんでだろうか。……ただ、この子のためにも私は死ぬ訳にはいかない。轟音と共に飛び去っていく飛行機の下、私は漠然とそう決意した。


 じっと送られてきたメッセージを見つめていて、自分が返信していないことに気付いたときだった。


 ふと手元に影ができて、私は顔を上げた。スマホから顔を上げても、慣れたものでフリック入力は止まらなかった。


『絶対に行くから』


 もし画面を見ることができたなら、そう打ち込んであるはずだろう。


 そうさせなかったのは、目の前の一羽の黒い鳥だった。その鳥は渡り廊下の手すりに器用に掴まっていた。


カラス……?」


 思わず声が漏れ出る。


 この辺りは都会でも田舎でもないような所だが、それにしても烏を見るのは久しぶりだった。あるいは見ていても忘れてしまっているのかもしれない。


 でも、こんなに近くで烏を見たのは初めてだ。烏も私を見つめている。あまりにも無機質にじっと見つめるので、私はなんだか動きづらかった。ただ、なんとなく不吉に感じて、


「な、何……?」


 そう僅かに呟いてしまって、それで均衡が崩れたんだと思う。


 ――烏が黒羽を散らして飛びかかってくる。


 アドレナリンでも出ているのかスローモーションの世界で、私は烏が私の手元に、つまりスマートフォンに向かっていることがわかった。


 それを避けようとしたのか、あるいは単に怯えからか、私の足は半歩分だけ下がって、急激に世界が進み始める。


 髪の毛が爪に引っかかって、強烈な悼みが頭皮を奔った。視界の半分以上が黒で埋まり、半狂乱のまま後ろに下がる。下がる。下がって、そのまま柵を乗り越えた。


 頭から落ちる中、烏が私の髪の毛から脱出したのをぼんやり認めた。アドレナリンも働いたり休んだりで大忙しだ。


 数秒が極限まで引き伸ばされた時間を通り抜けて、私は内臓が持ち上がる感覚を始めて知る。



 意識が遠のく中、スマホの画面が目に入る。


 『絶対に行くから』


 偶然にも送信されたメッセージを最後に、心中で呟く。


「(――これで、三回目?)」


 ◇◇◇


 私を呼び起こしたのはやはり強烈な既視感で、私は思わず英文を書く手を止めた。


 昼下がりの英語の授業、先生は相変わらず甲高い声を教室中に響かせている。


 いまだ血の気がなく、震えたままの手で、しかし投げやりにシャーペンを放る。ノートに並べられた黒、赤、青の字の上をペンが進み、消しゴムに当たって止まった。


 酷く気分が悪い。アルファベットが歪んで、歪んで、最早読み方すらわからない。


 私の視界も同様だ。何もかもに既視感があって、何もかもに違和感がある。ゲシュタルト崩壊じみた世界。


 やっぱりループものはフィクションだよ。……私には到底、耐えられない。


 号令と共に、私はなんとか礼を済ませる。

ノートも筆箱も乱雑にカバンの中へ放り込み、騒がしさの増す教室で、すぐさま机に突伏した。


 今はこの雑然とした雰囲気すらありがたかった。誰も自分に興味を向けていない、ただ心を鎮めるだけの時間。


 今の私の心はまるで死体のように冷たく、しかし火傷するほどに熱いだろう。既に心は折れて死んでいる。でも、あの使命感は、あの喜びはまだ、消えて死んでいない。私はそう、強く思い込んだ。


 とはいえ、ショックから立ち直るには十五分程度じゃ短すぎるようだ。ホームルームが終わってもなお、私すぐには立ち上がれず、スマホの通知音がなった頃になってようやく精神が立ち直ってきた。


 あのメッセージを見るたびに決意を固める。何度だって、とは今の自分を見ていたら到底言えない。


 けれど、あの笑顔が見れるなら、私は行ける限りを行くしかない。


 それに、ループの原因がわからない以上、諦めようがない。もちろん仮に諦められたとして、私は簡単に諦めない。そんな心意気で、私は教室の扉をガラリと開けた。


 教室を出て、すぐに体を右に進める。もう一度渡り廊下に行った方が良かったかもしれない。


 でも少し、というか当分は近づきたくない。渡り廊下にも、烏にも。


 アレはちょっとトラウマものだ。野生動物の恐ろしさをこんな所で味わうことになるとは思いもしなかった。


 ため息が止まらないまま、私は最初の階段に足を下ろす。


 ああ、烏に襲われて死ぬ人間は今まで何人いたんだろうか。少なくとも私だけってことはないだろう。私は心中で密かに、名も知らぬ先人たちへと手を合わせた。


「(……おっと)」


 大きめの段ボールを抱えた生徒たちを横目に私は端へ移動する。


 ちょうど踊り場に差し掛かったときだった。中間考査がこの前終わったばかりだし、新しい問題集でも運んでいるのだろうか。


「(……お疲れ様です)」


 なんとなく少し頭を下げて、横目に踊り場から下り始める。五人……程度だろうか。随分と重そうだ。


 多分、一年生のやつだろう。二年生でそういう話は聞いていないし、それに三年生の教室は一階だ。


 何にせよ、ご苦労さまです。私の視界から段ボールが消えて、私の目線は足元へ落ちていく。


 秋晴れの快晴が階段を照らしている。慎重に、慎重に、ここで滑り落ちるなんて洒落にならない。一歩ずつ、一歩ずつ――。


「――あっ」


 後ろからの声。同時に私の行く先を影が覆う。これは、前の周と同じ――。


 衝撃。私の体は勢いよく前へと突き飛ばされる。なんだ、段ボールを持っていた生徒がバランスを崩したのか。遅まきながら理解した。


「(また、落下死……)」


 ああ、もう床が目の前に――。


 「(……四回目)」


 ◇◇◇


 もう五度目にもなる強烈な既視感は、もちろん私の手を止めさせた。


 昼下がりの、普段だったら欠伸を必死に堪える授業。


「……カンマの有無に注意して……」


 視線は自然と窓の外へ追いやられる。黒板とか、同級生とか、そういうのを見ているのが辛かったからだ。


 シャーペンは握ったまま、出しすぎた芯が音を立てて折れる。一ミリメートルにも満たない芯は、多分机から飛び出していった。見ていないけど、多分そうだ。


 落ちていった芯は誰にも見つけられない。もう誰も気にしない。そのちっぽけな黒い欠片が、どう思っていようとお構い無しに。


 冷えて、冷えて、死んでいく。


「(――バイブレーション)」


 それでも、何回も熱は生まれる。絶えることはない。諦めない。諦められない。諦められない。どうしようもない。どうしようもない。私は教室の扉を開けた。


「(……開けたんだよ、私は)」


「(五回目――)」


 ――刺殺だった。


 ◇◇


 既視感。手を止めて、前を向いた。


 変わらない。変わらない。ああ、良かった。良かった……? 殺されたのに? そうか、私は、私は、殺されたのか――。


 はは……映画みたいだな。とびっきり出来の悪い。カタルシスの欠片もない、どうしようもない、どうしようもなくて、それで……。私にどうしろっていうんだ……?


『無事産まれました!!』


 画像付きのそれが遠ざかっていく――。


「(…………六回目)」


 ――溺死っていうのは思ったより苦しいらしい。


 ◇


 既視感。既視感。既視感。既視感。既視感。既視感。


 今、何回目だ? 私はいつまでここ・・にいるんだ? 私の弟には、いつ会えるんだ……? なあ――。


「――教えてくれよ……なあ……」


 変わらない。変わらない。でも諦めない。諦められない。私にはゴールがある。家族に、家族に会うんだよ。


 でも、でも、思ってしまったんだ。――行き止まりでも、良い、って、そんな風に。


「■回目」


 ――私はいつ死んで、どう死んで、なんで死んだ?


 ◇


 ◇◇


 ◇◇◇


 強烈な既視感に、私は英文を書く手を止め、て…………待て。私は今、何を止めた・・・


 既視感に埋もれていた未知が息を吹き返す。そう、私は居眠りなんかしていなかった。ずっと勘違いしていたんだ。


 衝撃のまま、私はノートに目を落とす。


 まともに文字に目を通すのは久しぶりだった。ぐにゃぐにゃのアルファベットが半ページに整然と並び、そして罫線をまるっきり無視してその英文は横たわっていた。


“October 28th 2025 when my brother was born, I died”


 なんて趣味の悪い文なんだ。率直な感想がそれだ。


『弟が産まれた二〇二五年十月二八日に私は死んだ』


 まさしく今の状況がそれに当たるのだろう。これを書いたのは多分、私だと思う。確かに私の筆跡だ。


 もちろん書いた覚えはない。書くはずがない。でも、これは何だ? これを私に書かせたのは誰だ? 疑問ばかりが増えていく。なぜ、私は何回も死ななければらなかった? 


「……関係詞の扱いには……」


 ふと甲高いあの声が聞こえてくて、ストンと納得がいった。ああ、カンマ・・・がないんだ。


 そう、簡単な英文法の話だ。関係詞の制限用法と非制限用法。前者は絞り込み、対して後者は補足説明。


 基本的に一つしか存在しないもの先行詞に関係詞をつけるときは直前に、カンマをつける。もしもカンマをつけずに、つまり制限用法として関係詞を使ったのなら、複数のものから絞り込んだそれ先行詞を説明することになる。


 何人もいる妻、空を埋め尽くす太陽。些細な文法ミスに笑ったのは記憶に新しい。そして、それは時間にも言える。


 二〇二五年は一回しかないし、その十月二十八日はやはり一日しかない。だから、要するに言いたいことは、この文章にはカンマが足りていない。



 ホームルームが始まる。


 ――決まっていたんだ。私が死ぬことは。


 今、ようやくわかった。ただの文法ミスだったんだ。


 本当は、今日が私の命日なんだろう。


 でも私にアレを書かせた何者かは、多分神様みたいな存在は小さな点をつけ忘れたんだ。


 だから弟が産まれなかった今日が存在することになって、でも私が英文を書いたときには既に弟は産まれていた。


 だから弟が産まれなかった日が存在するまで繰り返すことになった。そんな日なんて、ないのにも関わらず。


 ……神様が英語を使うのかとか、神様が間違えるのかとか、ツッコミどころは色々ある。


 でも、私にはこれが一番納得できる、と思う。それぐらいあの英文は異質で、ただ決まったことなんだっていう無機質な感じがしていた。


 ……訂正することがあるとすれば、『できる』じゃなくて『するしかなかった』に変えるべきだったかもしれない。


 教室から皆いなくなった後も私は空を眺めていた。私がずっと教室に留まっていたら、皆おかしいぐらいにそそくさと学校を出ていった。多分、今私は学校で一人ぼっちだ。


 静かになった学校は放課後の混沌さと対照的で、でも同じように私の心を鎮めさせてくれる。


「……ああ、そこまでするんだ」


不意に聞こえた轟音に、思わず呟く。


 そういえばこの音を聞くのは何回目になるんだろうか。最初の頃は何か感慨をもって聞いていた気がする。


 ま、いい。どうせ死ぬのは私一人だ。それもすぐに戻る。


「……だから、大丈夫」


 目の前に迫る飛行機にそう語りかけた。


「――じゃあね」


 ◇◇◇


 強烈な既視感を感じ、しかし私がてを止めることはなかった。


 昼下がりの英語の授業。何も変わらないこの視界に、もう吐き気を覚えることもない。


 このループを止めるのは、単純で、簡単で、あっけなく終わる。これまで過ごしたこの一時間は、それであっという間に吹き消える。


 それでも私は躊躇わなかった。そう一瞬で終わる。ただ、点を打つだけだ。


“October 28th 2025, when my brother was born, I died”


 そうさ、これだけ、これだけでいい。でも、なんでだろう。目の前が滲んで仕方がない。ああまだ授業中だってのに。


 ……これで、こんなので終わりだ。そう、それで、良いんだよ。


 私はじっと、ノートに新しくできた染みを見つめて、そして目を瞑った。何もかもを、飲み込んだふりをして。



 バイブレーション。これも、今ので最後だ。


 赤信号のすぐ横で、私はスマートフォンを取り出した。


『無事産まれました!!』


 一言一句、何も変わらないメッセージ。これに、どれだけ心を救われただろうか。


 フリック入力、一文字、一文字、確かめながら。


『今までありがとう おめでとう』


 送信ボタンの上で少し親指を迷わせた。


 でも、ちゃんと送った。精一杯のありがとうを。


「……」


 信号が青になって、私はポケットにスマホをしまい込む。それで、周りに少し遅れてついて行く。


 いつかと同じだ。確かな既視感が私にまとわりつく。それで、それでいい。そのまま、何も変わらずに――。


 ――衝撃。全身を打つ感覚。懐かしいとも言えるような痛みだった。こうして地面に転がるのは、そういえば最初の二回だけだったかもしれない。


 これが人生の最後だ。でも思いつくことなんて、大したことじゃなかった。


 色んなことがあったはずなのに、清々しいような、悔しいような、ぐちゃぐちゃしたそれに全部塗りつぶされてしまったみたいだった。


 痛む体に鞭打って、体を転がせた。冷えたアスファルトの上で、私は天を仰ぐ。


 そして、血で溺れかけた喉を震わせた。


「これで――終わりだ」








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