第11話  『無様なる偽物』


 神様、どうかお願いします。

 望みが一つかなうのなら――どうしても、忘れたいことがあるんです。

 こんなものいりませんでした。持つべきじゃありませんでした。

 もう何もいりません。これを捨てられるなら、他のすべてを失ってもいいです。


 

               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 なんで、という言葉が喉に詰まって出てこない。

 だが考えてみればありえない話ではなかった。夢の中に家族や友人が登場しうるのなら、自分が登場する可能性もある。

 それが仮に、歳をとった未来の姿だったとしても。


「……十七年か。それだけあれば老けるものだな」


 カケルを一瞥した後、皺の入った自らの手を見下ろして翔は呟いた。

 その姿に覇気はなく、声が低くしゃがれている。

 だがカケルを見る瞳には確かに鈍い敵意が混ざっていて。


「お前は……どういう……」


「場所を変えよう。ここは手狭だ」


 カケルが必死に絞り出した質問を遮って、翔は扉に視線を向けた。


「心配しなくても逃げはしない。お前とはここでケリをつけてやる」


「ちょ――」

「ま、待ちな!」


 扉に触れた翔をランガの声が呼び止める。怯え顔と震え声で、翔の背を睨んでいた。


「例の依頼、返事は『承諾』だそうだ。仕事はしたぞ。もう僕の店に関わらないでくれ」


「――そうか。わかった」


 振り返りもせず、翔は扉をくぐる。光に呑まれる姿を逃すまいとカケルは手を伸ばした。


「まて――あ?」


 背を追って扉を抜けたカケルを待っていたのは、都の景色ではなかった。

 一面に広がる背の低い草が、通り過ぎる風の形に揺れている。都までの道で何度か見たような草原だ。


「都は人が多い。別の場所へつなげさせてもらった」


 こちらを振り返る翔。突然のことに不意を突かれたが、翔が力を使えるのは今更驚くことでもない。

 思考を切り替えると、カケルは目の前の男を逃さぬように睨みつけた。


「答えろ。お前は何者なんだ。夢――この世界に、なんで俺がもう一人いる」


「俺だってこの前まで現実にいたんだ。気が付いたらこちらに連れてこられて驚いている。――まあ、その記憶もお前に作られた偽物なんだろうが」


 最後の呟きはゾッとするほど感情が押し殺されていた。思わずカケルの頬が強張る。

 翔の確信めいた言葉を信じるなら、翔はあくまでもカケルによって生み出された存在ということになる。

 カケルと未来の翔が何らかの奇跡的な現象で夢を共有している、というわけではないらしい。

 だがそれなら尚更、力を使えるのはいったいどういう理屈だと――


「そういうことか」


 思考に沈むカケルを引き戻したのは、腑に落ちたような発言をした男爵だった。


「この世界の側の存在がどうやれば俺達と同じく力を使えるのか疑問だった。だが、カケルが力を譲渡したというのならあり得ない話じゃない。いや、普通ならそれも出来ないはずだが、相手がもしカケルに限りなく近い存在として生み出されていたのなら……」


「ほう」と感心した声を出す翔。しかしその顔は相変わらず感情が抜け落ちたままだ。


「概ね正解だ。ただし力に関しては譲渡、ではなく共有だ。俺が使えるからといってこいつが使えなくなるわけじゃない。そうだっただろう」


「……納得がいったよ。こんな強引な横紙破り、普通は通らない。カケルが力を使うのに妙に時間がかかったのは、お前が力を使えるようにしたことの副作用だったわけだ」


「その通りだ。俺はこんな力、頼んでもないんだがな」


 言って、翔はカケルを見下ろした。微かに、だが確かに侮蔑の色を宿した目で。


「お父さん、と呼んだな。お前はあの喧嘩が原因だと思ったか。……あれはきっかけだ。お前の悩みの本質はそこじゃない。自分の事のくせにそんなこともわからなかったのか」


 滲む嫌悪に頬を硬くするカケル。その様子に鼻を鳴らすと、翔は真横に手をかざした。


「そろそろ頃合いだ」


 瞬間、手の先の空間に一文字の切れ目が走り、それが目のように上下に開かれた。

 開かれた『目』の表面に、液晶のように一軒の家が映る。

 その景色は空間が繋がっていると錯覚するほどに鮮明だが、あくまで遠くの光景を映し出すモニターのようだ。

 だが問題はそこではない。肝心なのは映っている家の方だ。あれは――


「私の、家……?」


 映る景色を見ていたメメが呆気にとられたように呟いた。その言葉には疑問が色濃く滲んでいる。

 当然だ。話を遮って突然メメの家を映す行動は不可解極まりない。


「――お前、何しようとしてんだっ!」


 嫌な予感に声を荒げるが、翔は一瞥だけでそれを受け流し、映像へ視線を戻した。


「視点を変えよう、何が起きているかはそれでわかる」


 言葉と共に家の中へ映像が切り替わる。メメの悲鳴が響いたのは、その一瞬後だった。

 そこに映っていたのは屈強な体つきをした三人の男の姿だ。

 傷跡の残る顔や所々に破れとほつれが見える薄汚い衣服は、陽の下で歩けないような身分であることをわかりやすく示している。――そして彼らの足元には見覚えのある人物が二人、床に倒れていた。


「トモリっ! ミグローさんっ!」


 思わず叫ぶカケルだが、当然その声は届かない。

 二人とも後ろ手に縛られたうえで両脚も拘束され、口には猿ぐつわを噛まされていた。

 激しく抵抗したのかミグローの顔面には大きな裂傷がいくつもあり、頬は青く腫れ上がって意識を失っている。

 トモリに怪我は見当たらないが、薬物でも盛られたのか意識を失って動かない。

 そのままトモリだけが、男たちの持つ巨大な袋へと乱雑に投げ込まれた。


「――おい待てっ!」


 叫び、思わず駆け寄るが、映像である『目』には触れられない。

 カケルの手が空を切る間に男達は袋を担いで出ていき、映像内には意識のないミグローのみが残った。

 役目を終えた『目』は残像と共に閉じ、空気に戻る。

 後には、絶望だけが残った。


「なんで――っ」


「才能攫いだ。俺が仕向けた」


 目に涙を浮かべて絶叫するメメに対して、翔がはばかることなく自白する。


「――っ! 依頼ってそういうことかっ!」


 脳内で点と点が繋がり怒声をあげるカケル。だが翔はその剣幕に取り合う様子もない。


「ランガ・ダンガは仲介人だ。俺は奴を利用し、黄金牛を捕まえる方法を確立した奴がいると才能攫いに伝えた。ただし、双子の弟の方だと事実を捻じ曲げてな。捕獲した黄金牛の現物がある以上、奴らは容易に信じる。あの子供には悪いが犠牲になってもらった」


「――ッ! 男爵、ワープは!?」


「悪い、今の俺じゃ無理だ」


 珍しく焦りを滲ませた返事を受けて、カケルは即座に思考を回す。


 正攻法では間に合わない。

 今、男爵とカケルの使える力を応用して、何か、何か、何か――


「無理だ。そのために男爵の力を封じた。この鎖でな」


 じゃらり、と翔の掌から響く金属音。

 黒渦から出たそれを見て、カケルは歯噛みする。


「やっぱりあれもお前がっ!」


「そうだ。助けさせはしない。仮に何か方法を見つけても、俺が潰す」


「お前、ふざけ――っ!!」

「動くな」


 カケルが衝動のままに飛び掛かろうとした刹那、鋭く盛り上がった地面がアイスピックのように喉元に突き付けられた。その切っ先が肌の表面を破り、僅かに血が垂れる。

 動くことは出来ない。一瞬で力の差を見せつけられた。

 だが、憤りは増すばかりで。


「お前、用があるのは俺じゃないのかよ!? それを無関係なトモリ達まで巻き込みやがって! ……結局全然見えてこない! お前の目的は何なんだッ!!」


 この世界に来て一番の怒号をぶつけるカケル。その一言に、翔の瞳が淀むのが見えた。

 仄暗く、ドロついた感情の渦が、メガネの向こうの黒瞳を染めていく。

 そして――


「俺はお前を、現実へ返してやろうとしているだけだ」


「――は?」


 思わず声が漏れた。それは、怒りも忘れて固まるカケルの口から出たもので。


「俺が今から、この世界から出るゲートを作ってやる。お前はそれを使って帰ればいい。俺が望むのはそれだけだ」


 カケルは不可解に言葉を失った。

 翔が現れてから十数分、全てが唐突の連続だったが、輪をかけて理解不能な唐突に襲われ、情報量に頭を横殴りにされる。

 悩みの象徴を倒せ、と男爵は言っていた。

 故にカケルは、悩みの象徴とは夢からの脱出を阻む敵だとばかり思っていた。

 否、翔は今も確かに憎しみにも近い悪意を向けてきている。

 にもかかわらず、脱出の提案をされた。

 脱出をさせたいのなら、トモリの誘拐に一体何の意味がある。憎しみを持っているのに、どうしてカケルを脱出させる。


 矛盾と不可解が脳を灼く。

 いや、ちがう。大前提からおかしいのだ。そもそも――


「そもそも、その条件は達成不可能だろう」


 瞬間、思考と指摘が同期した。

 男爵が指摘したそれは、この世界の大前提についてだ。


「この世界からは夢の主であるカケルの悩みが解決するまで出られないようになってる。お前がいくら力を使えても、それはあくまでカケル由来のもの。なら夢から出るゲートなど作れないはずだ。少なくとも、今までそんなことが出来た夢の主はいなかった」


「それは力を使ったのがお前らだからだ」


 指摘に対し、翔は一切揺るがない。男爵に視線を送りながら、青白い顔で告げる。


「男爵、お前は所詮触媒でしかない。夢の主なしでは世界も保てず、十全に使いこなした夢の主と比べればその『力』も数段劣る。俺に封印されたままなのがいい証拠だろう」


 男爵の表情に僅かな陰りが見えた。その反応は、暗に翔の指摘を肯定していて。


「そして、夢の主の根底には悩みを解決したいという願望がある。触媒の存在ありきとはいえ無意識のうちに夢の中に引きこもるような連中だぞ。力の足りない触媒と、本心では脱出する気のない愚か者では、いくら力を使ったとしても抜け出せないのは道理だ」


 冷酷に言い切ると、翔は自分の胸に手を置いた。


「だが俺に悩みはない。心に蓋さえなければこんな世界、簡単に鍵を開けられる」


 力を誇示しているようにすら思える言葉でありながら、その話し口はどこまでも虚ろだ。

 カケルへ敵意があるように、全く感情を示さないわけではない。ないが、嫌悪も苛立ちも、全て諦観と絶望の上に成り立っているような、そんな空虚さが拭えないのだ。


「お前……お前は何をしたいんだ」


 カケルは絞り出すように、何度目かも分からない問いを投げつける。

 これだけ会話をしているのに、不可解な点は増えるばかりで翔の目的は一切わからなかった。


「俺が何をしたい、か。――笑わせるな」


 ――想定外だったのは、その言葉を聞いた翔が感情を大きく発露したことだ。


「――――ッ!」


 総毛立つ感覚に、気が付くとカケルは飛び退いていた。

 目が合うだけで呑み込まれると錯覚してしまうほど、その瞳には陰鬱な感情がひしめいている。

 視線を通じて伝わってくる粘ついた負の感情に当てられ、心臓が嫌な音を立てた。


「……小説家を目指せば、お前の人生はろくなことにならない」


 低い声で、翔は呟く。

 それは会話より寧ろ独り言に近い。だが込められた鬼気はそれまでと比にならず、全身に刃を突きつけられたような緊張に、指先一本動かすことが出来なかった。

 どっと吹き出す汗を拭いもせず、浅い呼吸を繰り返し、どうにかして意識を繋ぐ。


「だからここで心を折る。あの子供と、小説家の夢を諦めれば、お前をこの世界から出してやろう。だがそれ以外を選択すればお前はもう二度と現実へは帰れない。ここで助けに行く判断をするようなお前の人生に先はない。今度こそ俺がお前の息の根を止めてやる」


 向けられる殺気は、白獅子ぶりに肌で感じる本物だ。

 寝室での一幕を思い出す。

 あの時カケルの首に手を伸ばしてきたのは、やはり見間違いではなかったらしい。


「ト、トモリを助けに行ってお前を敵に回すか、全部諦めて夢から出るか選べってことか。いっちょ前に二択用意しやがって、アメとムチのつもりかよ……」


 引きつった喉で弱々しく悪態をつくカケル。それは小さなプライド故の行動で、虚勢以外のなにものでもない。

 だがその言葉を聞いて、翔が煩わし気に眉をひそめた。


「二択? まだ状況が呑み込めていないようだな。お前があの子供を助けに行くなんて選択肢はないんだよ。仮に俺を何とかできる算段があったとしても、だ」


 翔は一つ一つ、まるで物覚えの悪い子供に教え込むように話を続ける。


「助けた後どうなるか本当に考えたか? この世界の全てはお前が目覚めた瞬間に消えてなくなる。仮に助けられたとして、無事を喜びあって、それでどうする。結局最後には全て無くなって終わりだろう。助けなければ、お前は俺に妨害されずにこの夢から脱出し、そしてやはりこの世界は消える。結果は同じだ。違いは命のリスクだけ。初めから二択になどなっていない。所詮消えてなくなるだけの偽物に、命を懸ける価値がどこにある」


「それは――」


 並びたてられる事実に、カケルは返す言葉を失った。

 この世界が消える。それは、メメとミグローの問題の時にも男爵に指摘されたことだ。

 カケルはそこに、偽物とは思えないと結論を出した。それは今でも変わらない。

 しかし現実問題この世界が消えてしまうこともまた事実。

 トモリを助けに行こうにも、男爵すら封印している翔に、カケルは恐らく勝てない。

 だとすれば助けに行く選択で得られるのは、翔の言う通り命のリスクのみ。

 寧ろ、この世界に長居する分トモリの苦しむ時間が増えるとすら考えられる。だが、だからと言って見捨てていく選択をするのはあまりに――


「後味が悪い、なんて言うなよ。それは感情の問題だ。命を懸けるには到底足りない」


 カケルの思考を読んだように、翔は一つ一つ入念に反論の道を潰していく。


「消えて……無くなる……?」


 それまで黙り込んでいたメメが、信じられないことを聞いたように目を見開いた。

 聞かれてしまった、と頭の隅でよぎるが、そこに思考を割く余裕も、目線を向ける余裕すら今のカケルにはない。

 仮に、聡い彼女が今の会話から、答えに肉薄していたとしても。


「――――」


 カケルは言葉を探すが、何もつかめない。

 どれだけ思考を積み重ねようと、よりにもよって誘拐を企てた翔の言葉に、感情以外の論理的な反論をすることが出来なかった。


「……どうせ結果が同じなら、尚更誘拐なんてしなくてよかっただろうが」


「お前に理解させるためだ」


 何を、とは言わずに翔は溜息をついた。悪感情で空気が濁るほどに重々しい溜息だ。


「小説家を諦めるなど口約束で構わない。あの子供を諦めてこの夢を出れば、お前は理解する。理解して、小説家を目指すことなどできなくなる。それは確定事項だ」


「なにを――」

「あの子供を諦めて、夢も諦める。それがお前の選べる唯一の選択肢だ。そしてその選択をした時が、お前の人生の転換点になる」


「――だから、何言ってるか全然わかんねえよ……」


 その言葉は尻すぼみだ。

 全てを自分勝手に押し付ける翔を、カケルは何一つ理解できない。

 だが、翔はカケルよりもカケルを理解しているかのように、確実に退路を潰す。

 痩せこけた身体も、覇気のない表情も、しゃがれた声も、虚ろな瞳も、伸びた髪も、何もかもが今のカケルとは似ても似つかないというのに。


 翔に対して抱いていたはずの怒りは、いつの間にか困惑と恐れにすり替わっていた。


「――どうしてここまでして、カケルに小説家を諦めさせたいんだ」


 何も言うことが出来ずにいるカケルに代わり、沈黙を破ったのは男爵だった。翔からの視線をその身に受けるように、向き合っていたカケル達の間に立ち入る。

 カケル以外が気付けない程さりげなく、庇うように腕を広げながら。


「今のカケルは小説家になるために努力してるだろ。小さい頃からの夢で、それに向き合ってる。お前もかつてはそうだったはずだ。それを、どうしてここまで」


 男爵の疑問は、翔の動機だ。それは男爵の立場からすれば訊いて当然の疑問である。

 だが、それを聞かれた翔は――


「――は?」


 呆気にとられたような声が聞こえた。

 声の主は翔。揺るがなかった表情を崩し、呆然と目を開く翔だ。

 しかし珍しい表情も長くは続かず、一度の瞬きでその感情は色を変える。

 怒り、困惑、嫌悪、侮蔑。入り混じった感情を視線に乗せ、翔はカケルを見下ろした。


「言ってないのか、お前」


 責める言葉に、カケルの脳内で全てが一つに繋がっていく。

 翔の目的、カケルの悩み、父との喧嘩、きっかけ。

 急速にそれらの筋が通っていき、全身が冷える感覚があった。


 ようやく気付いた。

 初めから気付いていたはずだった。

 つまり、カケルの悩みは――


 弱い奴め、と不愉快そうな声が聞こえた。


「教えておくぞ男爵。そもそもこいつは、諦めろなんてわざわざ言われるのがおかしいくらいの人間だ。そうだろう。何故ならこいつは」


「やめ――」

「小学生のころから小説家になりたいと思っているくせに、今まで殆ど作品なんて書いたことがないんだ」


「――あ」


 吐き捨てられた言葉に、カケルの喉が凍った。

 

 それは、正体。

 夢の世界に来てから今まで――否、何年も前から、カケルが見て見ぬふりをしてきた事実。

 どれだけ年月を重ねても変わることのなかった、腐りきった性根だ。


「パソコンにファイルがあるだろう。昔、初めて長編を書こうとした時に作ったやつだ」


 翔は暴く。暴き続ける。必死に見て見ぬふりで塞いだ、苦悩のかさぶたに爪を立てる。

 その指摘には当然覚えがある。冷凍庫に落ちる前、この世界に来る前にも目にした、デスクトップの左下に鎮座するあの文書ファイルのことだ。

 だが、カケルはあれを――


「あれ、最後に開いたのいつだ」


 その問いに容赦はない。

 翔自身、答えを知っているにもかかわらず問いただす。

 カケルを断罪するために、糾弾するために、罪を自覚させるために。


「自分が書いていないこと、毎日気にしてたよな。何年も何年も、書かなきゃいけないと言い聞かせて、それでもお前は書かなかった」


『やらなきゃ、やらなきゃ』


 不意に、脳裏に記憶が蘇った。

 それはこの世界に来る直前、自室でファイルと向き合い、クリックも出来ずに逃げた記憶だ。そんなことをもう何度繰り返してきたかわからない。

 パソコンは毎日開いていた。デスクトップにあるのだ、当然ファイルも目に入る。それなのにカケルは書かなかった。

 見る度に動悸が収まらなくなる程、意識していたのに。


「もうわかるだろう。お前の悩みの本質は父親との喧嘩じゃない。父親との喧嘩で、お前は小説家を目指しているという欺瞞から逃れられなくなった。若さに胡坐をかき、怠惰にまみれた毎日を振り返って、このまま小説家の夢など持ち続けられるわけがないと気が付いた。――俺は、お前の将来への不安が生み出した未来の姿だ」


「――――」


 何も言い返すことができない。翔の言うことが正しいと、本能が告げている。


 剥がれていく。虚勢が、虚構が、『好き』で上塗りしただけの塗装が。

 その下から見えてくるのは、醜い醜い、オカダ・カケルの正体だ。


「父親に反対されたとき、お前は何も言い返せなかった。自分が本気じゃないことを、他の誰より知っていたからだ」


「お、俺は――」



 そうだ。



「『小説家になりたい』と誰かに打ち明ける時、後ろめたくて仕方なかったろ? 。分析だなんだと言い訳して、他人の作品をただ見ているだけ。いつまでも書き始めやしない。そんな体たらくで『目指してる』なんてどうして言える」


「そんな――」



 その通りだ。



「ネットで小説家の出した動画を見るだけ見たりもしていたな。そういう些末な寄り道でどれだけ時間を浪費した。――お前、本当は小説家なんてどうでもいいんだろう。読むのが好きと書くのが好きを混同しただけなんだろう。最初から、憧れなんかないんだろう」


「――違うッ!!」



 嘘だ。



「嘘だ」


 冷や水のような声が浴びせられた。

 最後の一線だけは守ろうとしたカケルの叫びが、ただの呟きに掻き消される。


「お前は俺だ。自分相手に、嘘が通じると思うなよ」


「――――っ」


 向けられる軽蔑しきった目線。言葉が喉の奥に張り付いて、カケルは言葉を奪われた。


 違うのだ。違う。仕方がなかった。悪くない。理由がある。理由なんてない。事情を聴いてくれ。これでも頑張ったのだ。どこがだ。頑張ったから仕方ない。仕方ないから悪くない。悪くないから、だから、だから、だから――


「許されるなんて思うな。お前はもう、お前を許せない。――俺は、お前を許せない」


 低く響く声。そこに滲む嫌悪の正体が分かった。

 そうだ。そうだった。ずっと昔から。



 ――カケルはカケルが、嫌いだったのだ。



「話は終わりだ。あれを見ろ」


 カケルに一瞥をくれると、翔は指を遠くの森へ向けた。

 そのまま指先を天へとなぞり上げると、僅かに遅れてやってくるのは、体が浮いたかと錯覚するほどの地響きだ。


 「こ、これは」と呟くメメの言葉尻に重なりながら、指先の森に巨大な塔が姿を現した。


 その塔は、芽が大樹になるまでを早送りしたように、みるみるうちに巨大化し木々を押しのける。

 あっという間に全ての大樹を追い抜いた塔をカケルは呆然と眺めた。


 位置にしてはるか遠く。森というより山の景色の一部のようだ。

 だがそれを意識してもなお遠近感が狂い、そばにあると錯覚してしまう程、塔は巨大だった。

 壁には窓が、上部には物見台が設置されており、簡素でこそあるが現代の建築物とも遜色ない。


 あんなものを、あれだけ複雑で巨大なものを、あれだけ遠方に指先一つで作ったのか。

 夢から出るゲートが作れるという言葉を、笑い飛ばすことはもうできなかった。


「あの塔の場所にゲートを作った。ここから歩いて半日だ。タイムリミットは明日の日の入り。それまでにこの夢から出なければ、あの子供を助ける判断をしたとみなす。助けに行くような素振りを見せても同様だ。忘れるな。そうなったら俺はお前の命を奪う」


 それは命の宣告。宣告にして宣戦布告。

 カケルが判断を誤れば今見せた力の全てを向けると、そういう宣戦布告だった。


「ここまでだ」


 背を向ける翔。それを見て、カケルは思わず手を伸ばした。

 このまま逃がしては、もうチャンスは二度と訪れない。言葉でも力でも及ばなかったが、それでもどうにか意見を変えさせなければ。

 だってそうしなければ、このままではトモリは――カケルは。


「待て――」


 カケルの掌で黒い粒子が渦を巻く。

 世の理を捻じ曲げるその力をもって、半ば無意識なまま、カケルは翔を捕縛しようと――


「鬱陶しいな。それも没収だ」


 縄を射出するよりも先に、黒い鎖に身体を締め上げられていた。


「ぐ」

「カケルさんっ!」


 肺が潰され息が漏れ、何も出来ず膝をつく。しまった、とほぞを噛んでももう遅い。


「徒歩半日、その道のりをじっくりと噛みしめろ。それでお前はようやく正気に戻るだろう」


 翔の眼前の空間に切れ目が入り、扉状にゆっくりと開く。

 扉の向こうは都の路地裏だ。

 一歩、踏み入ると翔が振り返った。その瞳には微かに、安堵が宿っていて。


「ここまでだオカダ・カケル。――今度は間違えるなよ」


 呟きに重なり、派手な音で扉が閉まった。瞬きの隙間に切れ目が消えてなくなる。

 後に残ったのは男爵とメメ、そして鎖で身動き一つとれずに膝をつくカケルだけ。


「――――あ」


 敗北した。力と言葉と、何より心で。

 喉が凍って言葉が出ない。心の内を暴露され、長年覆い隠していた苦悩を乱暴に曝され、何一つ言い返せず、何一つやり返せず、押し付けられた条件に従うしかなくなった。

 トモリを諦め夢から出る以外、カケルにできることはない。そしてそれはどうやら、小説家という憧れの終わりにもなるらしかった。

 透明になっていく黒鎖とは反対に、カケルの瞳はゆっくりと絶望に淀んでいく。


「――――」


 両腕が自由に動くようになったころには、カケルは無力な少年へと逆戻りしていた。

 手をかざしても想像を重ねても、そよ風一つ生じない。

 一瞬前まで容易に超えられた想像と現実の壁が、今はどうしようもなく高かった。


 浅い呼吸を繰り返し、カケルは自分の掌を見つめる。

 歯を食いしばり、グシャリと苦悶に表情を崩した。

 拳を握り込み、半ばぶつけるように額に当てる。膝をついたまま上半身を折り、頭を地面へ投げ出した。

 鈍い音がして、拳が額と地面に潰される。

 まるで、消えた扉に祈るようにカケルは跪く。


「こんなんで……終わりかよ……」


 絞り出した掠れ声は誰に届くこともなく、地面に染みこむばかりだった。

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