第12話 『地獄への道は善意で舗装されている』
神様、どうかお願いします。
望みが一つかなうのなら――どうしても、忘れたいことがあるんです。
こんなものいりませんでした。持つべきじゃありませんでした。
もう何もいりません。これを捨てられるなら、他のすべてを失ってもいいです。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
数十分もせずに都まで戻ることができたのは運が良かったと言えるだろう。だが、路地裏を歩く三人の間に、そんな不幸中の幸いを喜ぶ声はなかった。
「――――」
俯くカケルは何も喋らない。
否、カケルだけではない。三人は翔が去ってから二三、言葉を交わしただけだ。言葉を忘れてしまったように、三人の間を静寂が支配していた。
それが今はありがたかった。男爵ともメメとも、喋るどころか目を合わせることすら無理だ。
もしその態度に軽蔑が込められていたら、きっともう立ち上がれなくなる。
「――あの」
静寂を破ったのはメメだ。弟のことがありながら、彼女は落ち着きを取り戻していた。
強い少女だ、とカケルは目を伏せる。
メメは弟が誘拐されているという一番の当事者でありながら、最も事態を把握できていない人物だ。
にもかかわらず、動揺を抑え込んでいる。彼女にとってカケル達の会話は、殆ど意味の分からないものだったはずなのに。
「……お話、したいことがあります」
会話への拒否感を抑え込み、カケルはその言葉に静かに頷く。
話したいことというのは、先程の会話とこの世界が夢であることについてだろう。本来は翔と別れた後、一番に説明しなければならない相手だ。
それをここまで先延ばしにできたのは、メメがカケルの心中に配慮してくれたからに他ならない。
聞かれれば答えないわけにはいかなかった。
どうして今まで黙っていたのかとなじられ、トモリが誘拐されたのはお前のせいだと責められるだろう。
自分たちがカケルの夢の中の存在でしかないなどと、信じてもらえるかもわからない。
それでも、カケルには説明する義務があった。
「メメ、黙ってて悪かった。実は俺と男爵は――」
「私、一人で助けに行ってきます」
カケルの言葉を遮るように、メメは静かに言い切った。
「――え?」
その言葉が理解できず、カケルは耳を疑う。
その発言の内容は、説明の要求でも非難でもなく、カケル達にトモリ奪還の協力を求めるものですらなかった。
「メメ、何言って……」
「色々考えたんです。でも、これしか思いつかなかったし、これが最善だと思いました」
「待ってくれ。俺に言いたいことはもっと他にあるだろ。一人って、なんで……」
「……カケルさん達は、他にやらなきゃいけないことがあるんですよね」
「それはっ、そうだけどそうじゃないだろ!? 弟が誘拐されたんだぞ、それもメメからしたら訳わからない理由で! だからメメが俺に怒ったり、説明求めるのも当然で……」
落ち着いたメメに対し、カケルは困惑で語気を荒げる。
おかしい。理にかなっていない。メメの言い出したことは、カケルにとってあまりに都合がよすぎる。
メメはゆっくりと首を振った。
「説明されても、私にできることは多分変わりません。だから大丈夫ですよ。これ以上、カケルさん達に迷惑をかけるわけにもいきませんから」
「なんでそんなに物分かりがいいんだ、迷惑をかけたのは俺の方だろ!?
「非難して、ほしいんですか?」
「――っ」
穏やかな指摘に、カケルは言葉を詰まらせた。その姿を見て、メメは薄く微笑む。
「カケルさんの言う通り、皆さんの言ってることは殆どわかりませんでした。でもなんとなく、カケルさんたちが思っていたよりももっともっとすごい人達だったってことはわかりました。今、すごい困ってるってことも。……トモリどころじゃ、ないんですよね」
「そんなこと――ッ!」
誘拐された弟を軽んじるような発言に、反射的に反論しようとする。
だが、メメの顔を見て、なおも先を言うことはできなかった。
微笑みを消したメメは唇を噛み、眉間に皺を寄せ、それでも目に迷いはなく。
わかりきっていた話だ。メメが家族を軽んじるはずがない。
つまりこの聡明な少女はあの会話から現状を理解し、自分にできる最適を選択したのだ。
その選択で生じるリスク――トモリの命と、助けに行くメメ自身の命の危険を、覚悟したうえで。
メメの覚悟は合理的で、カケルへの思いやりにあふれていて、そして怖かった。
その覚悟を前に、カケルは出かけた言葉を奥歯で噛み殺す。
翔は恐らく今もどこかで監視している。たとえメメに協力を求められたとすれば、翔に見つかることは避けられないだろう。
だからこそ、自分のやるべきことをやれ、というメメの言葉はカケルにはとても都合がいい。
だが、それでもカケルは――
「さっきの今なら逃亡範囲は限られます。鼻が利く獣さんと追いかければまだ間に合う」
何も言えないカケルをよそに、メメは話を続ける。「それに」と手を打った。
「あっちのカケルさん、私は眼中にないみたいでした。ひょっとしたら、私だけなら邪魔されずにトモリを助けられるかもしれません。そしたら万事解決じゃないですか!」
薄い勝算を強がったような笑顔で話す。その手は微かに震えているが、瞳には迷いがない。
メメも恐怖は感じているのだ。それなのに、覚悟が揺らぐことはなかった。
メメは不意に空元気の表情をやめると、寂し気にカケル達を見た。
「ですから、ここでお別れです」
「……すぐに出発するのか」
それまで無言を貫いていた男爵が口を開いた。その言葉にメメは頷く。
「匂いが薄くなるほど、追うのは難しくなりますから。……最後に、いいですか」
一瞬、訪れる沈黙。少しだけ言葉を探すと、メメはぽつぽつと話し始める。
「私思ってたんです。ひょっとしたらお二人は、神様なんじゃないかって。不思議な力を使えて、お父さんの説得を手伝ってくれて……私の夢を応援してくれて。こんなことをしてくれる人達、神様以外ありえないんじゃないかって。――本当にそうだったんですね」
「――っ」
核心を突く発言にカケルは思わず息を呑んだ。メメはその反応を見て柔らかく微笑む。
「どうしてそんなに物分かりがいいんだ、って言いましたよね。確かに、私はトモリを助けたいです。大切な家族を放っておくことはできない。――でも、そんな辛そうな顔のカケルさんを、巻き込むことも出来ませんよ」
カケルは半ば反射的に、自分の顔に手をやった。
いつの間にか歯を食いしばっていたらしく、張っていた頬に指先が触れる。
これが、メメの決断の理由だというのか。
カケルの強張る頬も、絶望に溺れる瞳も、メメにはずっと痛々しく見えていたというのか。
メメは小さな子供を慈しむような目でカケルを見ると、さようなら、と口にした。
「もう会えないかもしれませんが、それでも私は、お二人を友達だと思っています」
「……俺もだ。元気でな、メメ」
男爵の言葉に頷き、カケルに微笑みかけると、メメは「さようなら」と背を向けた。
「――あ」
カケルはその背に向けて、手を伸ばすことすらできない。
これからこの世界を見捨てようとしているカケルには、何をする資格もなかった。
『非難して、欲しいんですか?』
その言葉にカケルは何も言い返せなかった。それは、図星だったからに他ならない。
カケルがこれほど動揺した原因に、メメの物分かりが良すぎることへの困惑は間違いなくあった。だが非難されたい、という気持ちもあったのだ。
メメに非難されて、泣かれて、世界を見捨てようとするこの罪悪感に罰を受けたかった。そして。
自分のやるべきことをやれ、というメメの言葉はカケルにはとても都合がいい。だが、それでもカケルはメメに――理由になってほしかった。
助けに行こうとすれば翔に命を狙われる。カケル達は非力で勝ち目はなく、夢から出ればこの世界が消えてしまうこともまた事実。
カケルはこの状況に論理的な反論が見いだせない。だからこの状況を感情で、理屈ではない何かで覆してほしかった。
トモリを助けに行くための理由になってほしかった。
メメが泣いて、責めて、縋ってくれれば、カケルは動き出せる気がしたのだ。
「――くそ」
していた、のだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
宿の一室に足を踏み入れる。メメと別れた後、カケル達がとったのは、寝具と机だけの味気ない部屋だった。差し込む夕焼けが、白いシーツを血のような朱に染め上げている。
「……日の入りか」
ベッドに身を投げ出したカケルが天井を眺めながら呟く。
差し込む夕焼けは、瞬きをするごとに光を失っていた。部屋の隅からひっそりと夜が忍び寄ってくる。
「期限まであと二十四時間だな」
机に肘をつく男爵が、椅子をずらしてカケルに向き合う。
部屋に入ってから、これが初めての会話だった。期限とは当然、翔の課したタイムリミットだ。
再度、沈黙が訪れる。それに堪えられず、カケルは口を開いた。
「……俺の悩みさ、黙ってたつもりはなかった、って言ったら嘘になるけど、それでも騙してたつもりは本当に無かったんだ」
腕を天井にかざし、朱から黒へと色を変えていく様子を眺めるカケル。
口にしたのは、言い訳じみた弁明だ。
男爵の返事が怖く、口を挟む隙もないように急いで言葉を紡ぐ。
「書いてないことを隠してたのは事実だけど、俺は本当に、俺の悩みはそれじゃないって思ってたんだ。お父さんと喧嘩したのは事実だったし、それに、あの悩みはずっと――」
挙げていた腕を、目に被せる。
「――ずっと、目をそらしてきたことだったから、今更、どうしてって」
カケルは頬を歪め、力なく呟く。
しかし、それを聞く男爵に責める気配はなかった。
「夢に閉じ込められるほどの悩みだ。自覚できないほど大きいのも珍しくない。今までもそういう奴は何人かいた。だからあまり自分を責めるな、カケル。本当に悩んでるとき、人は自分が何に悩んでるかすら分からなくなるものだ」
その言葉を受けて、責められず安堵している自分が、カケルにはひどく矮小に見えた。
「……俺、どうすればいい」
弱々しく、カケルは呟く。そこにあった感情は縋りだ。
男爵なら、なんとかしてくれるのではないか。
本当は奥の手があって、今はそれを出し渋っているだけなのではないか。
そして、白獅子を圧倒した時のように全てを覆してくれるのではないか。
そんな浅はかな希望交じりで縋るカケルの手は――
「カケル、あの塔に向かうべきだ」
その言葉に、振り払われた。
気が付くと部屋には、僅かに夕日の名残があるばかりだった。
「俺を含めて、夢の側の存在は偽物みたいなものって前に言ったよな。俺の意見は変わってない。この世界で最も優先されるべきが何かと言われれば、それはカケル、お前だ」
男爵は、シルクハットを深く被り直しながら続ける。「何より」
「今回は異例すぎる。夢の中の人間が夢の主の『力』を封印するなんて普通はありえない。この状況で抗うのは危険だ。力が戻らない限り、このまま静観するしかないだろう」
言葉の終わりと同時に、部屋が夜に沈んだ。
「……そっか」
光の無くなった部屋で、男爵を見失いながらカケルは呟く。
理屈がなかった。理不尽を覆せるだけの理屈が。
利益がなかった。理不尽を覆したいだけの利益が。
不可能と不利益。どちらかさえなければ、カケルはトモリを助けに行けた。メメを一人で危険な目に合わせずに済んだ。
だが、現実は違う。助けることは不可能で、助けたとして何も変わらない。
一人が助かるか、誰も助からないかなど、二択にもなっていないのだ。
「わかった」
自分の腕も見えない暗闇の中、カケルの言葉が部屋に響く。
男爵の返事はない。これではまるで自分に言い聞かせる独り言のようだった。
「――俺はこのまま、この夢から出る」
そのまま、二人が言葉を交わすことはなかった。
音も光も絞られた世界で、メガネも外さずベッドに横たわるうちに、カケルの意識は次第に闇に溶けていった。
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