第10話 『黒ぶち』
神様、どうかお願いします。
望みが一つかなうのなら――どうしても、忘れたいことがあるんです。
こんなものいりませんでした。持つべきじゃありませんでした。
もう何もいりません。これを捨てられるなら、他のすべてを失ってもいいです。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
苦節三十七年、金の亡者で何でも屋のランガ・ダンガに生涯最大の危機が訪れていた。
「――ハァッ、ハァッ、クソッ」
息を切らし、路地裏を駆け抜ける。
気配を殺しながら抜け出してきた店の裏口は、とうの昔に視界から消えていた。
この世で最も安心できる場所のはずの自分の店から、弱者を騙し強者に媚びてようやく手に入れた自分の店から、よりにもよって逃げ出してきた事実がランガのプライドをひどく傷つける。
これほど傷ついたのは、自慢の金髪が年々薄くなっていることに気が付いた時以来だ。
「――ハァッ、ハァッ、ハァッ」
息切れは収まらない。ここ数年の運動不足が祟ったらしく、最近弛んできた下腹部が痛みを主張する。
一度立ち止まると、壁に手をついてゆっくりと呼吸を整えた。
脳に酸素が回って余裕が出てくると、どうしてこんなことに、と苛立ちがふつふつと湧いてきて、ランガは小さく舌打ちをした。
思えばこの事態のきっかけは、昨日妙な男から依頼を受けたところから始まっていた。
フードを目深に被り、しゃがれた声でしゃべるあの男は、どういうわけかランガの
紹介以外で副業の依頼を受けないと決めていたランガがその男の依頼を受けたのは、男の放つ雰囲気が異質そのものだったからにほかならない。
自他ともに小物と認めるランガだが、これまでの人生、小物なりに何度も死線を潜り抜けてきた自負があった。
何でも屋を始めたばかりの頃に怪しい荷運びを安請け合いし、挙句の果てに失敗して裏社会の重鎮と面談するハメになったこともあれば、その憂さ晴らしでそこらにいた子供をいじめたら、それが都でも有数の金持ちの愛息子で危うく都中から指名手配をされかけたこともある。
社会の表裏問わず、誰に媚びを売り、誰なら見下してもよいのか、それを見極めるための目は養ってきたつもりだ。
にもかかわらず、フードの男が発する雰囲気は今までランガが出会ってきたどれとも違うものだった。
大物ではない。成功者が発する特有の下品な余裕が彼にはない。
弱者でもない。その目は、あるいは弱者が持つ余裕のなさにも似ていたが、決定的に乖離している。
弱者と強者、社会と関わる以上必ず属する分類に、あの男は属していなかった。
まるで、そのピラミッドから完全に逸脱した力を持っているような歪な余裕が、彼の振る舞いには宿っていたのだ。
この世ならざる者、という表現が最も近いだろう。
逆らってはいけない、と感じたのはつまりランガの直感だ。
関わること自体が危険だとも思ったが、断った場合に何が起こるかを想像すれば、引き受けないという選択肢はなかった。
殺気どころか生気すらない痩せぎすの男に、ランガは完全に屈したのである。
そして今日、フードが再度の訪問を終えた直後に事件は起こった。二人組の男が入ってきたのだ。
小柄で若く、何故か縄を胴体に巻き付けた間抜けな格好の少年と、背丈が高く、珍しい黒
二人のうち、営業をこなそうとしたランガの目を引いたのは黒外套だった。
少年の方はただの阿呆だが、黒外套は違う。その雰囲気はフードと同様の異質さを孕んでいた。
敵意はなかったが問題はそこではない。これまでの人生で一度も会ったことがないような、この世ならざる雰囲気を持つ男が二人、それも連日だ。
その事実だけで目が回りそうだったランガに、あろうことか黒外套はフードの依頼内容を教えろと言ってきた。
ランガの逃亡劇が始まったのは、その一言がきっかけである。
フード一人の時は無難に依頼をこなそうと思っていたが、板ばさみなら話は違う。
ほとぼりが冷めるまで両者から逃亡する。それしかないとランガの小物の嗅覚が訴えていた。
メモを取りに行くと誤魔化して裏口から出てきたが、そう長くはもたないだろう。
とはいえ、ここらの路地裏ならランガは知り尽くしている。
相手は余所者。慌ててかき集めた金品と、用意した奥の手さえあれば逃げ切れる算段だ。
その、はずだったのだが。
「ひっどいなぁ。そんなに逃げなくてもいいじゃないですか」
「――ヒィッ!?」
店で聞いた声に後ろから追いつかれ、ランガは思わず悲鳴を上げる。
振り返ると案の定、そこにいたのは先程の少年。
いくら運動不足とはいえ、入り組んだ路地を逃げるランガにどう追いついたのか、疑問は残る。
だが黒外套でないのは僥倖だ。
「よかった、ガキ――お客さんか、いやいや、すいませんね。ちょっと急用で」
「色々舐めすぎでしょう、俺のこと。おじさん、依頼内容を聞かれただけで血相変えて逃げるなんて、カタギじゃないでしょ。つまり何してもいい相手ってことだよね、男爵」
「その通りだ」
「――ヒィィッ!?」
背後からの声に、ランガは再度の悲鳴を上げる。
いつのまにか、石塀の上に黒外套が座っていた。
黒外套は軽快な動作で地面に着地し、ゆっくりと距離を詰める。「さて」
「話を聞かせてもらおうか」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「話を聞かせてもらおうか」
言って、男爵が一歩近づく。
逃走を図った何でも屋――ランガ・ダンガは油断なくカケル達との間合いを測っていた。
だがここまでだろう。挟み撃ちでは逃げようがない。
と、カケルが僅かに油断したその時だ。ランガは素早い動きでポケットへと手を滑りこませると――
「クソッ! これでも喰らえ!」
刹那、眼にもとまらぬ早業で、ランガは取り出したモノを地面に叩きつけた。
足元から爆発するように赤い粉が舞い上がり、一瞬で辺り一面が赤い粉塵に呑み込まれる。
「煙幕!? こんな古典的な――ぐ、げほっ!」
呼吸に粉塵が混ざり、思わずカケルは咳き込んだ。目にも染みてしまい、激しい咳と粉塵で涙目になる。
この『奥の手』は視界遮断と行動阻害の両方を兼ね備えたモノらしい。
背を丸めて咳き込むカケルの耳に、遠のく足音が届いた。音の主は考えるまでもない。
「こんの――っ」
痛む目を強引に開き、即座に上空へ向けて手をかざすカケル。
出すものは縄、長さは充分、付与する動きは『射出』と『巻き付き』だ。
ぶっつけ本番だが、やるしかない。
視界で霞む柱へ向けて、カケルは迷いなく黒渦から縄を射出した。
伸びる縄は付与されたイメージ通りに空を進み、到達した柱に巻き付く。
軽く引っ張り手応えを確認すると、今度は身体にイメージを付与し、縄を想像しうる限り最大の力で引っ張った。
通常、それはただ無意味な行いだ。
『縄で引く』とは対象を手元へ寄せるための行為であり、不動の建築物を相手にしたところで結果はせいぜい込めた力の分の虚無感だけ。
――しかしそれは、常人の力なら、の話である。
イメージを付与したカケルの力は常人の比ではなく、生物種を
それは例えば、右手に籠めた力だけで人一人を移動させることも容易なほどで。
「――よしっ!」
カケルが縄を引くと、動かぬ柱の反作用で体が引っ張られ、空へと弾き出された。朱色の煙幕を突き破り上空に飛び出ると、自分の想像通りに事が運んだことに拳を握る。
思った通りだ。この方法ならカケルは飛べる。あるいは跳べる。
上昇が終わり、一瞬の停滞と共に浮遊感が訪れた。
素早く視線を左右させるカケルの黒瞳が、煙幕から走って飛び出した男の背中を捉える。
「逃がさないよ」
即座に視線を滑らせ手頃な柱を
直後、それらへ順に縄を巻き付け、カケルの身体が加速を得た。空から空へ弧を描き、重力と遠心力による加速が全身に吹き付ける。
怯えながら振り返ったランガの、瞳の中のカケルの像が一瞬で拡大していき――
「や、やめ――がッ!?」
最後に縄を直接巻き付け、呻き声を脇に身体を捻ると、カケルは軽やかに着地した。
「いやー、ぶっつけだけどうまくいくもんだね。いい機会をくれてどーも、迷惑者さん」
手の埃をはたきながら、もがくランガへ鋭い視線を向けるカケル。
見ると、その口元には一丁前に粉塵対策の布が巻かれていた。それが腹立たしく、乱暴に布を奪い取る。
「ムガッ! クソッ、君もそちら側だと!? バカそうなのは演技じゃなかったはずだ!」
「この……っ! アンタはまず皆さんに謝罪だろ! 汚れた俺のメガネにも謝れ! ってか変な抵抗すんな! 縄のアクション、いざって時のかっこつけ用にとっといたのに!」
怒りのまま、カケルの胴に巻き付いていた二本の縄も巻き付ける。
結局ランガが抵抗を辞めたのは、肌が見えなくなるほど縄を巻かれ、男爵とメメが合流した後のことだった。
「カケル、怪我は無いか?」
男爵の確認に、カケルは手をひょいと挙げて応ずる。
「うん大丈夫。この通り無事――つっ!?」
無事、ではなかった。突然脳に走った鋭い痛みに、カケルは思わずしゃがみこむ。
「カケルさん!?」
「どうしたカケル。――無茶な力の使い方をしたな。想像の副作用が出てる」
「ふく、さよう?」
震える言葉に頷くと、男爵は隣にしゃがみ「ごめんな」とカケルの背中に手を置いた。
「最近見ないから忘れていた。力を使いこなせてないうちは脳に負荷がかかるんだ」
背中に手の感触を感じながら、カケルは疼く脳の痛みに耐える。
だが苦しみも長くは続かず、浅い呼吸を繰り返すうちに、次第に痛みは引いていった。
男爵とメメの手を借りながら、どうにかふらりと立ち上がる。
「ごめん、もう大丈夫」
「――さ、三時間後だ」
重なる場違いな言葉。それは、こちらの事情など構いなく口を開いたランガのものだ。
「い、依頼内容は言えない。僕も命が惜しいからな。だが、あの男は三時間後にまた来ると言っていた。それは教える。だ、だから見逃してくれ」
怯えた顔で語る内容は詳細さに欠いているが、確かにカケル達の目的を十分に達成できるものだった。この怯えようを見るに、恐れているのは依頼主だけではなさそうだ。
大方、裏社会の勢力も依頼に関わっていて、そちらを恐れて全てを話せないといったところか。
だがそこまで分かれば十分。直接話せるなら詳細など本人に聞けばいい。
男爵が「決まりだな」と手を打った。
「『追う側』の次は、待ち伏せするぞ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
人の往来が止まない都で、フードの男が人混みを避けて歩いていた。
男は店の前にたどり着くと看板を一瞥し、扉に手をかける。
「いらっしゃい」
店主の挨拶と共に、店に踏み入った。
男が手を放すと、扉はゆっくりと閉じていき――
「これが、袋のネズミってやつ?」
店の近くで待ち伏せていたカケルが、扉に手をかけ挑発的に笑った。
「――――」
不意を突かれたように、男が振り向く。が、店へ侵入するカケルは構わない。
「逃がさないだけの仕掛けはしてある。抵抗しないでくれ」
言いながら男爵も店に入ってくる。次いでメメが入り、そこでようやく扉が閉じた。
男はそれを身動き一つせずにじっと眺めている。抵抗の意志は見て取れなかった。
じわり、とカケルの手に汗が滲む。
怖気づく、というほどではないが緊張しているらしい。
規則的な呼吸で落ち着きを得ながら、男を正面から見据えた。
「散々逃げられてかき回されて、ようやくここまで来られたんだ。なあ――」
カケルは向き合う。この世界が出来上がるに至った、カケルの悩みの本質に。
「アンタの目的は一体何なんだ――お父さん」
核心に迫る言葉。それはこの夢での相手の役割を問うもので、この世界からの脱出の皮切りだ。
ここでカケルが決着をつける
「『お父さん』だと? ――そうか、俺は似てるのか」
「――え」
カケルは思わず声を漏らした。しかしそれは、しゃがれ声の男の返答が想定と違っていたからでも、男が言葉と共に突然フードを下ろしたからでもない。
フードの中身に、誰かが息を呑む音が聞こえた。
そこにあったのは、痩せこけ、無精ひげが生え、伸びっぱなしの髪に覆われた目の下に、深い隈が刻まれた顔だ。
その顔は変わり果てていようともカケルの父親の面影を確かに感じさせる。
だが、違う。
父ではない。よく見れば父以上に、面影を感じる人間に心当たりがあった。
それは――
「俺――」
「よお、オカダ・カケル」
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