路地裏のSNOW GLOBE《スノーグローブ》

@usagiusagiusagi1

第1話  路地裏のSNOW GLOBE《スノーグローブ》と私だけの花火

「もう無理……」

 パソコンのモニターに映る無機質な文字列を前に、私は小さく呻いてキーボードに突っ伏した。

時刻は午後八時半。

蛍光灯だけが煌々と光るオフィスで、私、橘美緒(たちばな みお)は、今日も今日とて終わらない残業と格闘していた。

広告代理店に入社して、3年半。

キラキラした世界を夢見ていた学生時代の私を、誰か叱ってくれないだろうか。

現実は、地味で、理不尽で、ただただ時間だけが過ぎていく泥臭い毎日だ。

「橘さん、まだいたの? もう帰りなよ」

声をかけてくれたのは、先輩の由香さん。

彼女も目の下にうっすらと隈を作っている。

「この企画書、明日までなんです……」

「あー、例の無茶振り案件ね。……まあ、頑張って。でも、無理はしないようにね」

 そう言って先に帰っていく由香さんの背中を見送りながら、私は深いため息をついた。

「私、何のためにこんなに頑張ってるんだっけ……」

最近、この言葉ばかりが頭の中をぐるぐると回っている。

遠くの空からドン、ドンという低い音が聞こえた。

雷だろうか。

今日は傘を持ってきていなかった。

この上、雨に濡れるなんてのは勘弁願いたい。



なんとか仕事を切り上げ、会社を出たのは日付が変わる少し前。

空は綺麗に晴れていた。

さっきの音は何だったんだろう・・・。

夏の終わりの生ぬるい夜風が、そんな思考すらも奪っていく。

私は疲れ切った足取りで駅へ向かう。

いつもならネオンが眩しい大通りを歩くのだけど、その日はなぜか、一本裏の薄暗い路地裏に吸い寄せられるように足を踏み入れていた。

飲食店の換気扇から漏れる油の匂いと、カラスが漁ったゴミ袋の生臭い匂い。

そんな、都会の裏側の顔。

現実逃避でもしたかったのかもしれない。

 どこをどう歩いたのか。気づけば、私は今まで見たこともない、袋小路のような場所に迷い込んでいた。

古びたビルに挟まれた、月明かりさえ届かない暗がり。

引き返そう。

そう思った、その時だった。

「……え?」

ひらり、と白いものが目の前を舞った。

それはゆっくりと、音もなく私の手の甲に落ちて、すぐに透明な雫に変わった。

「雪……? 嘘でしょ。今、夏なのに…!」

見上げると、狭い空から、はらはらと粉雪が舞い降りてきていた。

それはあまりに幻想的で、疲れ切った心がふわりと軽くなるような、不思議な光景だった。

 季節外れの雪は、まるで道しるべのように、私を路地のさらに奥へと誘っている。光に吸い寄せられる蛾のように、私はふらふらと、その先へと歩いていった。

突き当たりに、そのお店はぽつんとあった。

蔦の絡まるレンガ造りの壁に、温かいオレンジ色の光が漏れる格子窓。

ドアの上には、真鍮でできた『SNOW GLOBE』という、洒落た看板が掲げられていた。

こんなところに、こんな素敵なお店があったなんて。

好奇心が、疲れ切った心に小さな火を灯す。

私はまるで魔法にかけられたみたいに、そっとその木のドアを押していた。


 カラン、と澄んだドアベルの音と、ひんやりとした心地よい空気が私を迎えてくれる。

一歩足を踏み入れた瞬間、私は思わず息を呑んだ。

そこは、子供の頃に夢見た、秘密の屋根裏部屋のような空間だった。

木の床は磨きこまれていて、壁一面には古くて面白そうな本がぎっしりと詰まった本棚。

部屋の真ん中には、ふかふかの絨毯と、座り心地のよさそうな一人掛けのソファが置かれている。

そして、天井は一面ガラス張りになっていて、そこには満点の星空が広がっていた。街の明かりなんて届かない、本物の、星の海。

「いらっしゃいませ。お探しの物はなんですか? ここはスノードームの専門店です」

 凛として、それでいて耳に心地よい声がして、私ははっと顔を上げた。

そこに立っていたのは、この世のものとは思えないほど、美しい人だった。

雪のように白い髪は、腰まで届きそうな一本の長い三つ編みに結われ、縁の細い眼鏡の奥の瞳は、夜空の色を溶かしたような深い碧。

体にぴったり合った青いスーツを、寸分の隙もなく着こなしている。

そして、何より目を引いたのは、その銀髪の間からぴょこんと伸びた、ふわふわの白い長いうさぎのお耳と、彼の肩の上で小さく丸まっている、真っ白なうさぎだった。

「あの……」

あまりの非現実的な光景に、私は言葉を失う。

ここは一体どこなんだろう。

疲れすぎて、路地裏で寝てしまったのだろうか。

「お探し物は、と伺いましたが…?」

彼は穏やかに微笑む。

その柔和な表情の奥に、何か底知れないものが隠されているような気がした。


「探しているもの、なんて……別に、ありません。ただ……最近、すごく疲れてて。自分が何をしたかったのか、何になりたかったのか、時々、分からなくなるんです」


自分でも驚くほど、素直に弱音がこぼれた。

この不思議な人の前では、見栄を張ったり、強がったりすることが、なんだか無意味に思えたのだ。

私の告白を聞いても、彼の表情は変わらなかった。


「なるほど。時の流れの中で、大事なものをどこかに落としてきてしまったのかもしれませんね。……よろしければ、ご覧になっていってください。お客様が失くした『ひとかけら』が、どこかにあるかもしれません」


そう言って、彼は静かに壁際の本棚を指し示した。

見れば、古書や不思議なオブジェに交じって、大小様々なスノードームが、まるで星々のように淡い光を放ちながら、あちこちに飾られていた。


私は言われるがまま、棚に並んだスノードームを見て回った。

きらびやかなお城、可愛らしい動物、有名な観光地。ど

れもこれも美しく、見ているだけで心が和んだ。

でも、どれも「私のもの」という感じはしなかった。

諦めて帰ろうかと思った、その時。

大きな窓辺に、一つだけぽつんと置かれたスノードームが、ふと私の目に留まった。

天井の星の光を受けて、ガラスの中がキラキラと繊細に輝いている。

私はまるで磁石に引かれるように、そのスノードームをそっと手に取った。

手のひらにすっぽりと収まる、心地よい丸み。

まるで最初からそこにあったかのように、しっくりと私の手の中に馴染んだ。

ガラスの中に閉じ込められていたのは、夏祭りの夜の風景だった。

浴衣を着た小さな女の子が、お父さんの大きな手をぎゅっと握って、夜空に咲く大輪の花火を、目を輝かせながら見上げている。

どうしてだろう。

その光景を見た瞬間、胸の奥がきゅうっと締め付けられるような、懐かしくて、切ない気持ちが込み上げてきた。

「それが、お客様のもののようですね」

いつの間にか、うさ耳の店主がすぐ隣に立っていた。

「これが……私の?」

「ええ。時の狭間に落ちていた、貴方の欠片です。さあ、思い出してください。それが、今の貴方を作った、始まりの風景のはずですから」

促されるまま、私はごくりと唾を飲み込み、ガラスの球体をそっと揺らした。

色とりどりの細かなラメが、まるで花火の粉のように、ふわりと舞い上がる。

夏祭りの風景が、きらきらと輝きに包まれていく。

 その瞬間、私の頭の中に、ずっと忘れていたはずの光景が、まるで昨日のことのように鮮やかに蘇ってきた。


 ―――そうだ。これは、七歳の頃の私だ。

あの頃の私は、夏祭りが大好きだった。

お父さんに買ってもらった、金魚柄の真っ赤な浴衣。

りんご飴の甘い匂い。

人々の楽しそうなざわめき。

 そして、一番好きだったのは、お父さんの肩車から見る、夜空いっぱいに広がる花火だった。

 ドーン、という大きな音がお腹に響いて、夜空に光の花が咲くたびに、私は歓声を上げた。

『お父さん、すごい! きれい!』

『そうだなあ、美緒』

 その時、私はきらきら光る夜空を見上げながら、お父さんに言ったんだ。

『私ね、大きくなったら、花火みたいなお仕事がしたい! 見た人を、びっくりさせて、わーって笑顔にするような、そういうお仕事!』

 幼い私の、精一杯の夢。

それを聞いて、お父さんは笑って、私の頭を優しく撫でながら、こう言ってくれた。

『そうか。いい夢だなあ。美緒なら、きっとできるよ。お父さんが、世界で一番のファンだからな』

 そうだ。これが、私の原点だったんだ。

誰かをびっくりさせて、笑顔にしたい。

その気持ちがあったから、私は広告代理店を目指したんだ。

 なのに、いつからだろう。

日々の忙しさに追われ、クライアントの無理難題、無限とも思える修正依頼に追われ「誰かを笑顔にしたい」なんていう最初のきらきらした気持ちを、すっかり忘れてしまっていた。

ただ、目の前の仕事をこなすことだけで、精一杯になっていた。



「思い、出した……」

 頬に、温かいものが伝うのを感じて、自分が泣いていることに気づいた。

忘れていたのは、子供の頃の夢だけじゃない。

私を信じて、応援してくれたお父さんの、温かい言葉もだった。

仕事にかこつけて、もうずっと連絡すらとっていない。

「お代は結構ですよ。それは、もともと貴方のものですから」

店主は、感情の読めない碧い瞳で私を見つめ、静かにそう言った。


 どうやって店を出たのか、覚えていない。

気づけば私は、元の薄汚い路地裏に一人で立ち尽くしていた。

季節外れの雪は跡形もなく消え、あの不思議な店も、まるで幻だったかのように影も形もなかった。

でも、私の手の中には、あの夏祭りのスノードームが、確かな温もりを持って握られていた。

そうだ、お祭り、今日だったっけ。

さっき遠くで聞いたあの音はきっと花火のそれだったのだ。

私はポケットからスマホを取り出すと迷わずアドレス帳から実家を選んだ。

数回のコールの後、懐かしい声が聞こえてくる。

「お父さん、元気?…ううん。なんでもないの。ちょっと声が聞きたかっただけ。」


 次の日。

会社に着いた私は、自分のデスクの隅に、あの日持ち帰ったスノードームをそっと置いた。

ガラスの中では、小さな女の子とお父さんが、いつまでも幸せそうに花火を見上げている。

「橘さん、おはよ。……あれ? なんか今日、顔色いいね」

 隣の席の由香さんが、不思議そうに私の顔を覗き込む。

「そうですか? よく眠れたからですかね」

 私は笑って答えると、パソコンの電源を入れた。

目の前には、昨日あれだけ頭を悩ませた、山積みの企画書。

 でも、今の私には、それはもう、ただの苦痛な仕事の山には見えなかった。

(どうすれば、これを見た人が、びっくりして、笑顔になってくれるかな?)

心の中で、七歳の私が問いかける。

ワクワクして仕方がないという顔で。

そうだ、これが私の選んだ仕事だ。

ぐっと背筋を伸ばして、キーボードに指を置いた。

夜空に輝くあの大輪の花を、今度は私が打ち上げよう。



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