第16話 自然妊娠・自然分娩した五十六歳
一
官舎へ戻ってシャワーを浴びると、ロイは強烈な睡魔に襲われた。時計は、まだ二十二時過ぎだ。昨日、徹夜で日誌を読み込んだツケが、今になって回っている。
――俺も、
三十五歳。徹夜が、体に
――睡眠不足による疲れにも、若返り薬は効くんやろか? 一回飲んだら疲れが取れて、飲み続けたら若返って行くなら、どえらい薬やで。そらぁ世界じゅうで争奪戦が起こるわ。
とめどなく広がる想像を振り払い、ロイはノートパソコンへ向かう。デスクトップに置いた日誌のファイルを開いた。
一九九〇年四月一日。二年ぶりの日誌再開後から、日本語が混ざり始める。脈診の所見が、記載されているからだ。空白の二年間で脈診を学んだのは、まず間違い無いだろう。
同年の七月には、
「
と記載されている。脈滑とは、滑らかな玉が血管内をスルリと転がるような脈を指す。脈滑の患者は
紫乃の父は、自分の脈を「滑」と診断し、熱を冷ますべく石膏を増量したのだろう。
翌八月には、
「脈腎虚、口渇多飲不変、夜間尿出現にて石膏十gへ減量、
とある。
――右往左往しとるがな。石膏で冷やし過ぎて夜間尿が出現したから、路線を変更したんやな。
九月には、
「
とある。
その後も、「トキモドシ」がずっと二g使われている以外は、その時々の症状に応じた処方変更が続く。
――結局は若返り薬って、どれやねん?
ロイは、日誌を猛烈に読み飛ばし始めた。紫乃が生まれるのは、まだまだ先の一九九九年だ。
ふと手を止めた。一九九二年四月の日誌だ。
「
――以前は「トキモドシ」を四gも飲んだら、便秘に苦しんでたはずや。しかも、「開始」やて? これまでも服用を続けて来たのに?
便秘を含め、副作用らしい記載は出て来ない。
一九九三年四月、
「十二年ぶりに、五十歳で月経再開」
と英語で記載されている。驚嘆と同時に、ロイは合点した。
――二人分の分量を書いてたんや!
「トキモドシ」が四gへ増えたのは、紫乃の父と母の二人分の分量だったからだ。つまり、この一年前から、紫乃の母も「トキモドシ」の服用を開始している。紫乃の父は、「トキモドシ」の有害事象をコントロールする自信が付いたのだろう。
――十二年も
紫乃の母は四十手前で閉経し、
月経が再開した前後から、日誌には紫乃の母の写真が多く貼られだす。
「妻の髪や肌は、二十代のような
「今日は二人で福山へ出掛け、服を買った。若々しい
「倉敷へ小旅行。車を
読んでいて赤面するほど、妻への愛が英語で
若返った妻を眺める夫の感性も、
「
「白髪は一本も無くなり、十代と
「いつも疲れて
一九九三年十月、
「月経が、毎月来ている。
脾虚――胃腸機能の低下――のため、
――オカンは、若返りが完成してるやん。有害事象を抑える要点が、よぅ分からんわ。
単に、紫乃の母親の体調に合わせて、漢方を変えているだけに見える。父親は、母親と同じ処方を服用しているようだ。既に、「トキモドシ」の扱いに自信を持っているのだろう。
日誌は、その後、もはや研究日誌では無くなる。
妊娠・出産に、強く
日誌が研究的な側面を失うにつれ、英語での記載は激減する。「トキモドシ」の存在を世界へ発表する意志を、完全に捨て去ったのかも知れない。
一九九八年七月。月経再開後、五年を経て、ごく自然に夫婦の念願が叶う。
「妊娠検査陽性。
八月、
「
十二月、
「どうやら女の子らしい。経過は順調」
一九九九年二月、
「主治医から再度、予定帝王切開を勧められた。胎児に危険が無い限り、自然分娩を希望」
一九九九年四月二十七日、
「
――五十六歳と七か月で、自然分娩しよった! 妊娠から出産まで、ずっと『トキモドシ』を飲んでたんやろな。ま、
服薬による
一九九九年七月、
「産後、臥床がちな状態が続く。
久々に、処方が変わった。
――
妙だ。どこか漢方のセオリーを外れているが、違和感を具体的に表現できない。「トキモドシ」の服用を中止しないのは、有害事象では無いと判断したためだろう。
日誌の文面から推察する限り、日本の「トキモドシ」は、中国の「時騙し」よりも
伊豫へは、居酒屋で置き去りにした翌日、
今日、伊豫から返事が届いていた。
「ニュース見たよ。大変だったな。刺された研修医を、お前は知っているのか? 命は助かりそうなのか? 色々と忙しいだろうが、帰国前にもう一度、会って話がしたい。漢方生薬の専門家など、
ウェブ・ニュースには、紫乃のフルネームと年齢が掲載されていた。伊豫に紫乃の現況を喋るわけにはいかないが、ロイとしては、アスタリスク製薬と新薬の
「例の事件で、大学病院全体がばたばたしてる。いつになるか分からんが、二週間以内には必ず時間を作る。また連絡する」
簡単な返信に
ふと、アスタリスク製薬のウェブサイトを覗いてみた。意外と、歴史が浅い会社だ。
「二〇〇四年創業。イェール大学で遺伝子組換えウイルスの研究をしていたマシュー・ランガーが、研究者仲間のアクセル・トルシュと共同で設立した。現在、マシューは
ロイは、慌てて研究開発部門のURLをクリックした。ホームページに、アクセルの写真が載っている。
――親父やんけ!
――夢を叶えたんやな。随分とスカした顔をしよって。
自分でも不思議なほど、大きな感慨は湧かなかった。
「研究で、
父の口癖だった。日本と違い、
当時の父の所業は、
現在の父は、企業勤めの経営者兼研究者として、超高額の報酬を得ているだろう。父の笑顔の下には、誇らしげな字が
「二〇一四年、世界最初の組換えタンパクによるHPV《ヒト・パピローマ・ウイルス》ワクチンの開発に成功し、バイオ創薬ブームの先駆け的存在となった。二〇二〇年から世界的に流行した新型コロナウイルスのワクチンの開発競争では、
――なんで今更、自然生薬に興味を持つねん。親父らしく
研究の仕事もアメフトの戦術も、確率論と合理性に基づき、綿密なプランを立てる人だ。科学的根拠に乏しい事象など、ましてや民間の伝統医学など、大嫌いだったはずだ。
父の笑顔を、
――あんたが、
新薬の
時計が、二十四時を回る。
いつの間にか、眠気は吹き飛んでいた。
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