第8話 尾道漢方薬局の奇跡
一
ロイは、夜勤の看護師長と事務当直へ、事件のあらましを伝えた。
VIP病棟での警察への対応を事務当直に任せ、医局へ戻ると、朝の三時を回っていた。
医局のドアを開けると、ソファに座ってウトウトしていた紫乃が、
「その怪我、大丈夫かのぅ?」
「
右目の上方視野が、狭い。
「あんまし覚えてないねん。紫乃ちゃんの当直室を開けたら、あっという間に引き
はっと息を呑み、紫乃が緑色の目を見開いた。明け方が近いのに、マスカラが一層濃く濡れ光る。
「
ロイは慌てて手を横に振った。
「当直室に入る気は
いっぱいに目を開けたまま、紫乃が頷く。
「ほんなら
ため息をついたロイに、紫乃が吹き出した。
「さっき刑事に、めっっっちゃ疑われてん! 俺は、下着を
言葉に力を込めると、思わず唾が飛んだ。院内最大派閥の
ふと気付くと、紫乃がニタリニタリと笑っている。
「お前、なんでそんなに嬉しそぅやねん」
「
よく見ると、普段はロイと同じくらい色白な紫乃の頬が、ファンデーション越しにも赤みが強い。テーブルの上には、三本の四合瓶と
「お前、
「あんたぁ、大阪育ちじゃのに、広島の酒が好きなんじゃねぇ」
「まさかと思うけど……俺の秘蔵コレクションの、全部に手を付けたんかいな」
《
「どれも両親が好きじゃったけぇ、つい」
ロイは《
「めちゃ酒豪やんけ! どんだけ飲んでるねん」
「まだまだ、これからじゃ! 醸造元が尾道から近い順に、
「せやったら、
「小さぁ酒造じゃのに、よぅ知っちょるのぅ。なんでそぎゃぁに広島の酒に詳しいんなら?」
「俺の漢方の師匠が、大の
「広島の酒には、そぎゃぁに不思議な力があるんか。あんたも飲んで、真髄とやらを教えたらどうじゃ」
紫乃がカラカラと笑い、《酔心》の残りが入った湯呑をカパッと干した。
「真実を教えなぁアカンのは、お前や」
いきなりロイはグイッと顔を寄せ、正面から紫乃を
「あいつらは、お前の何を
笑みを浮かべたまま、さらりと紫乃が顔を
――化粧どころか、
ロイは内心、舌を巻く。
紫乃が振り向いた。挑むようにぎらつく緑の目だ。
「どぎゃぁな病気でも治せる万能薬って、あると思うちょるか」
「癌でも心臓病でも、か? あり
「じゃあ、若返り薬ならあり
「また、その話かいな。昨日の朝も、全く同じ議論をしたがな」
紫乃が、スマホをロイへ突き出す。
「うちの、お母ちゃんじゃ」
画面いっぱいに、女性の顔写真が拡大されている。解像度が悪い。アルバムの写真を、また撮りしたのだろう。色白の肌に、ぱっちりした黒目がちの瞳と、豊かな黒髪が魅惑的だ。
「クソ綺麗なオカンやな」
紫乃と、
紫乃が、再度スマホを操作した。
「これも見てみんさい」
五十代半ばくらいになった、紫乃の母親だ。髪は白髪混じりでパサつき、目の下が黒ずんで
「ドアホのギャル崩れを育てるんに、相当苦労しはったんやな」
「どちらの写真も、私を産む前じゃ」
「は? よぅ、この状態で……」
自然分娩で産めたな、という言葉を呑み込んだ。五十六歳の実年齢からして当然だが、容姿から判断しても、肉体年齢が老化し過ぎている。妊娠・出産など、不可能だ。
「あんたぁ、勘違いしちょる」
マスカラで重そうな睫毛を垂らし、紫乃がとろんとした緑色の視線をロイへ向けた。
「
「おいおい……。この状態から十七年後に子を産むんは、
三十九歳にして、五十代半ばのごとき
「奇跡が起きたんよ」
こともなげに、紫乃が呟いた。
「
「……あり得へんやろ」
二つの写真を見比べる限り、十七年の歳月が流れる間に、二十年は若返っている。
「写真なんかで、俺は騙されへんで」
「お母ちゃんのカルテが、
早発閉経――四十歳未満の閉経だ。
「当時、西洋医学的な治療法は無かったはずやろ?」
近年は、女性ホルモン補充療法が一般的だ。当時の唯一の治療手段は漢方だが、妊娠・出産可能にまで回復させるのはまず無理だ。
「お父ちゃんが、発明したんよ」
「タイムマシンでも発明したんかいな」
紫乃が、カラカラと乾いた笑い声を上げた。
「そりゃ最高じゃ。タイムマシンで二日前へ戻って、両親を助け出しちゃるわ」
胸を
「お母ちゃんは、なかなか子供ができんで不妊治療を受けたけんど、しんどいばっかりでそのうち月経が
「無理無理無理無理!」
ロイはブンブンと両手を振った。
「どんだけ漢方を知っていようが、若返り薬なんて創れるわけが無いねん」
「お父ちゃんには、当てがあったんじゃと思う。
「お前、『時騙し』の学名を知ってたんか!」
「『時騙し』は中国に自生しちょるけぇ、学名の末尾はsinensisじゃろ?」
sinensisは、Chinaと同義だ。
「その通りや。お前、学名の付け方まで把握してるんか」
行木教授ですら知るはずがない
「お父ちゃんの日誌に出てくる生薬は、『時騙し』と学名は似ちょるが、末尾はjaponicaじゃった。お父ちゃんが近縁植物を発見して、『トキモドシ』という和名を付けたんよ」
japonicaはJapanを意味する。
「まさか……『時騙し』と同種同属の植物が日本にも自生してて、それを
紫乃が、微妙に首を
「若返りだけが、薬の効能じゃぁ
「現実に起こった変化は、お前のオトンとオカンが若返って、子宝に恵まれただけやろが?」
「うちも、その薬を飲んじょったんじゃ」
「はァ?」
ロイは、紫乃の頭から足まで、
「まさか、お前……とんでもないババァの癖に、薬で化けて出て
「ぶちまわしちゃろぅか! か
紫乃が、
「落ち着け!
厚生労働省のデータベースに登録され、医師免許を取得する際には、住民票か戸籍謄本の写しが必要だ。
「うちは、生まれつき
五十六歳の母から自然分娩で無事に生まれたのなら、
「小児の
「欠損孔は、自然閉鎖が全く期待できんほど大きかったらしいわい。それが、薬を飲んで半年後には完全に塞がっちょった。経過は全部、
「お前、『若返り薬』を今も飲んでるんか?」
「三歳のときの半年間だけじゃ。その後は病気一つ、しちょらんし」
「せやろな。薬をずっと飲んでたら、化粧のセンスと性格も直ってたはずや」
再び紫乃が振り上げた《酔心》を押さえつつ、うーん、とロイは思考に沈む。
考え込むときの癖で、手が左頬のケロイドへ伸びる。ケロイドは、季節を問わず乾燥しており、ザラザラと硬く指先に触れる。
「細胞の機能や器官の欠損を正常に戻す薬、かいな」
ケロイドの原因となる
「まさに『万能薬』や。
紫乃が、わざとらしく手の甲を口に当て、ホホホホと勝ち誇った顔で
「売っちゃぁ、いけんわ! そこいらで採った植物を!」
「せやった! クソッ、俺としたことが」
日本薬局方で認められた種類・品質でなければ、薬として売るのを禁じられている。
「
「その日誌が、狙われとるっちゅうんか」
曖昧に紫乃が頷く。
「他に目ぼしい
「売ったことも喋ったことも無い秘密の薬が、なんで狙われるねん」
「うちにも分からんのじゃ」
犯人の狙いが若返り薬なら、
「警察には伝えたんかいな?」
「昨日、県警の刑事には話したけんど、頭っから信じちょらんかった。さっきの刑事は、報告を上げてくれるっちゅう話じゃったが」
「せやろな。フツーに考えたら、若返りの秘薬なんて、あるわけが無いねん」
漢方の専門家のロイですら、まだ半信半疑だ。
「お前が生まれた後も、オトンとオカンは薬を飲み続けてたんか?」
「何がしかの
「八十、九十で、お前よりも元気やったんか? もはや妖怪レベルやな」
ロイは、ピカピカに磨かれて
「百味箪笥の生薬がごっそり盗られたんも、若返り薬の中身を知るためじゃろぅのぅ」
「オトンから日誌を
「日誌には、『時騙し』のjaponica版どころか、他の生薬まで全っっ部が英語の学名で書かれちょった。その他の部分も、英語の研究用語や、中国語の文献の切り抜きだらけじゃ」
紫乃がうなだれ、悔しそうに肩を震わせた。
「お父ちゃんから
「お前・・・ほんの一瞬で諦めたやろ!」
紫乃が顔を上げ、ぽかんと口を開けた。黒いマスカラがべったりと付いた目元には、涙の
「なしてバレたんじゃ? あんたぁ、うちの背中に
「お前の場合、マスカラの濃さと
「あぎゃぁに膨大な異国の専門用語を目にしたら、誰だってすぐに挫折するわい」
「ロイ先生は、漢方の専門家じゃねぇ? 難しい遺伝子の研究をして、博士号も取っておいでじゃねぇ? 日誌を解読して、うちにもよ~く分かるように説明してくれんかのぅ」
「お前、ノートパソコンと一緒に、日誌を
「アホか。うちのほうが、犯人より何枚も
ニタァッと紫乃が笑った。
「ロイ先生は面倒見がええっちゅう評判じゃけぇ、解読してくれるに違い
得意げに鼻をそびやかし、紫乃が高々とスマホを
「いつでもあんたに見せられるように、スマホに転送しといたんよ。うちの勝ちじゃ」
――他力本願の
不幸中の幸いではあるが、手放しで喜べる結果でも無い。
「お父ちゃんが、言うちょった。臆病なら、この薬を自分や家族のためだけに
「犯人は既に日誌を手に入れて、若返り薬のアイデアを盗んだんやろ? 犯人がどこぞの企業に売り込めば、すぐに商品化されてしまうやん。お前の負けや」
「お父ちゃん
「何か重篤な副作用があるっちゅうわけか?」
「数か月で二十歳ほど若返った後、数か月で一気に四十歳ほど
「飲んだらアカン、危ない薬の
「よぅよぅ勉強して経験を積んで、漢方薬を併用すれば、若いまんまの状態を保てるとお父ちゃんは言うちょった」
「抽象的で、よぅ分からん話やな。漢方を使いこなせるようになるまで、何十年も掛かるで? 西洋医学的な研究の素養も必要なら、更にプラス五年や」
紫乃が、いきなり真剣な表情になった。
「じゃけぇ、こぎゃぁに頭を下げて、お願いしちょる。世界じゅうのどこを探しても、お父ちゃんの日誌を理解できるんは、ロイ先生しか
立ち上がり、珍しく、紫乃が深々と頭を下げた。
ロイは、即答した。
「断る。誰にも理解できへん日誌なら、かえって安心や。これからお前が
全身のあらゆる汗腺から血が噴き出すほどの挫折と努力を、自分自身で繰り返さねば、抜きん出た技能は身に着かない。ロイの信条だ。
「タダで、とは言わんけぇ。利益は、山分けするわい。一緒に会社でも
「ホンマもんのアホがほざくセリフやな。若返り薬を使いこなすキモを、なんでオトンがお前に教えんかったと思うねん。お前みたいなアホ
「お父ちゃんは、うちが
「お前は、可愛い。でも、アホや」
「今、愛の告白と誹謗中傷を同時に受けたんじゃが、気のせいじゃろぅか?」
「どっちも気のせいや。オトンは、アホなお前が可愛いからこそ、成長させるように仕組んだんや。アホさ加減がマシになって、
「あんたぁ、傷心の乙女に向かって、アホアホ言い過ぎじゃ!」
「俺の日本語が通じてて、良かったわ。とにかく、お前の指導医は、俺や。当面のお前の最大の任務は、漢方の習得や。オトンの日誌を理解したいんやったら、がっついて来い。降り掛かる
ロイは、空いた湯呑へ《賀茂鶴》を注ぎ、ゴクリと
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