第9話 脈診の奥義
一
医局の壁に貼られた鏡の前で、紫乃はニンマリと笑った。
「さすがは、うちじゃ」
《酔心》と《賀茂鶴》の四合瓶を空けても、三時間しか寝なくても、目の下にクマは無く肌の
「お
ふわぁ~っと大きな
「お
深々とお
「どこぞの
「ロイ先生に、コーヒーを
紫乃は、ササッと医局の隅へ走った。小さな調理台の端に置かれたコーヒー・メーカーから、ガラス・ケトルを持ち上げる。
「食器棚にあったカップを、勝手に使わせて頂きました」
テーブルの上に用意した白いコーヒーカップ&ソーサーへ、コポコポと湯気を立てて
「昨日の救急当番、お疲れ様でございました」
紫乃がぺこりと頭を下げると、半開きだったロイの目が一・五倍へ見開かれた。
「お前、誰やねん! 中身だけ、別の
「そのお
「いくら丁寧に言うても、人を侮辱してるねん!」
「お
地の底から湧き上がるような野太い
ロイを見て、行木が眉をひそめた。
「お前、その顔は、どないしたんやぁ?」
ロイの
「昨日、福山医大病院の開院以来、最悪の災難がありましてん」
ロイが、昨夜の事件の概要を説明した。三阪家の「若返り薬」の話は省いている。
「けったいやなぁ。救急患者が三阪くんの当直室に隠れてて、鍵を確認しに来たロイを殴って逃げたんかぁ。それ、三阪くんが狙われた可能性もあるやろ? 三阪くんの周りばっかり、えらい物騒やん。VIP病棟のセキュリティまで破るなんて、タダ
「昨日の寝しなに、妙案を思い付きましてん。紫乃ちゃんは、当面、救急・集中治療科で研修したらどうか、と」
紫乃は、ばん、とテーブルを叩いた。コーヒー・カップが跳ね上がり、ガチャリと耳障りな音を立てる。
「あんたぁ、つい数時間前にほざいたセリフが、百八十度変わっちょるわ!」
「お前は、態度が百八十度変わってるねん!」
「今日からあんたに漢方の教えを乞うために、しおらしゅうしちょったのに!」
「まぁ、聞けや。研修医宿舎にもVIP病棟にも侵入されてるねん。他に、病院内で一番セキュリティが利くんは、
「
行木が深く頷いた。病院は、一日に数千人の外来患者がセキュリティ・チェック無しに自由に出入りする、超・無防備地帯だ。一般病棟への立ち入りも、さほど大きな制限は設けられていない。唯一、
「救急・集中治療科の比嘉教授は、俺の同期ですねん。席順が隣やし、学生時代からの親友ですわ」
「成績順は、離れてたやろぉ?」
「やかましいですわ」
ロイが、紫乃へ向き直る。
「比嘉は学生時代から優秀で、義に厚い奴や。沖縄の米海軍病院で初期研修をしている間に
説得調になった金髪ガイジン
「
「かぶれては、無いで。
外見がほぼ
「あんたのダジャレは小学生レベルじゃ! うちは、とにかく
「犯人の
「犯人が見付からんまま一年が過ぎたら、どうするんなら?」
紫乃は、二年間の初期研修を終えると、来年から総合内科へ所属する予定だ。内科専門医の資格を取得するためだ。内科や外科など主要領域の専門医を先に取らないと、漢方専門医を取得できない仕組みになっている。
「今回の研修が
一気に
「三阪くんの言う通りやでぇ。そこまで本気で漢方専門医を目指してくれる心意気に、なんとか応えてあげたいなぁ」
行木の濁声に押されたように、ロイが難しい顔で黙り込む。しばらく沈黙が流れた。
「……ずっとロイにくっ付いてたら、病院内では大丈夫やろぉ?」
行木が、おもむろに口を開いた。
「めっちゃ目立ちますやん!」
金髪で大男のロイは、病院内外の有名人だ。
「逆にそれで、ええやろがぁ?」
ロイが一瞬、考え込んでから、ほぅ、と紫乃へ納得顔を向けた。
「常に衆人環視に
既に、考えてあった。
「研修医フロアの当直室を、ランダムに使おぅかと思ぅちょります」
「そらぁ名案や。夜でも、意外と
ロイも行木も、満足そうに頷いている。
地下一階は研修医専用フロアで、若く熱心な研修医たちが入れ代わり立ち代わりたむろする、不夜城だ。研修医が自由に使える、五つの当直室も用意されている。
「うち、このまま漢方診療科で研修させて
「ロイに付いて、一年間、思いっ切り漢方を学んだらええでぇ」
行木の
「ホンマ、何から何まで、申し
「うちの科で研修中に事件に遭うのも、何かの縁やでぇ。困ったことがあったら、相談しぃやぁ」
「ありがとうございます!」
勢い良く頭を下げたら、額をテーブルにぶつけそうになった。
「ほな、今日も一日、頑張ろなぁ」
行木が
――
行木はプライベートについて一切喋らないが、福山に〝プライベート〟は無い。広島県で二番目に大きな都市とは言え、人が集まる所には必ず誰か病院関係者の目があり、すぐに院内で噂が広まる。
行木の場合は、二十歳ほど
ロイが、椅子を蹴り飛ばすように席を立った。
「朝回診へ行こか。その後は俺の外来に付いて、漢方診療を見とけや」
「あんたぁ、外来見学の覚悟はできちょるんか」
「俺のセリフや。お前、体調は大丈夫か?
「うちは
ロイが、口に含んだコーヒーを吹き出しそうになり、慌てて飲み込んでいる。
「お前、
人口の一%未満に存在するとされる、特異体質だ。毎日、短時間の睡眠しか取らなくても、しっかりと疲労が回復する。
あっかんべ、と舌を出してやった。
「あんたぁ、もう
「すっかり『あんた』呼ばわりに戻っとるがな。あーぁ、態度だけでええから、時間を三十分前に戻して欲しいわ」
首を振りつつ歩き出したロイの背がズンと大きく、紫乃はしばらく圧倒されていた。
二
一人目の外来患者が、診察室を出て行った。直後に、紫乃はブチ切れた。
「あんたぁ、背中がデカ過ぎるけぇ、よぅ見えんかったわい!」
紫乃は、ロイの背後で丸椅子に座らされている。大きな背中が邪魔で、診察の仕方が見えない。ロイと患者の間へ廻り込むには、診察室が
「見えんなら、立てばええやろが」
ロイの声は静かだが、ドスが
――
プルルッと、紫乃は身震いした。
脈診をしている間、ロイは無言で目を閉じつつ、周囲へバチバチと
と言わんばかりだ。
澄ました顔で、ロイが次の患者を呼んだ。背後で、すっくと紫乃は立ち上がる。
――見ちょれ、この
患者が、診察室へ入って来た。二言三言、問診をした後、ロイが患者の手を取って脈診を始める。
「まだまだ胃腸の力が弱いやん。胃もたれするやろ?」
ロイが脈診を終え、電子カルテのキーボードを打ち始めた隙に、
「私も脈を拝見しますね~」
と、ロイの背後から手を伸ばした。患者も、反射的に紫乃へ両手を差し出す。なんとか、患者の両手首を
ギロリと横目で
「なんの真似やねん? ……お前、まさか」
――脈診中に、うるさぁわ!
心でロイを一喝し、紫乃は左右の指先に全神経を集中した。それぞれの指先に、トクン、トクン、と触れる脈動は、紫乃の脳裏で、暗闇に浮かぶ小さな炎へ変わる。脈動が来るたび、ポッ、ポッ、と炎が浮かんでは消える。
紫乃の左中指の先から伝わる炎は、指に少し力を入れただけで、弱々しく消えた。
「あんたの見立て通りじゃ。
目を開けると、すぐ
左中指に触れる脈は、「脾」の状態を表す。「脾」は、漢方の概念上、胃腸機能を司る架空の臓器だ。「虚」は、エネルギー不足を指す。つまり、「脾虚」とは、胃腸を働かせるエネルギーの不足を意味する。
処方を終えて患者を送り出し、おもむろにロイが口を開いた。
「たまげたわ。脈診ができるっちゅうわけか」
「あんただけの専売特許じゃ
行木教授を始め、ほとんどの漢方医は、
「どこで
「決まっちょろぅが。
紫乃は、パパっ子だ。朝から晩まで父の
「オトンは脈診をしよったんか」
「法的にはギリギリのラインじゃが、のぅ。薬局を開業してから、独学と経験で脈診を会得したようじゃ」
薬剤師の資格では、診察行為を許可されていない。薬剤師が客の体に触れるのは違法であり、衣服を
ロイが、紫乃の
「俺の脈を診て、体調を当ててみぃ」
紫乃は、余裕たっぷりにロイを
「ひどい腎虚じゃ!」
「デカい声で叫ぶな! 待合室まで聞こえてまうやろ!
右薬指に触れる脈は、「腎」の状態を表す。「腎」は老化現象を司る臓器であり、「腎虚」とは過労による老化現象の一時的な進行や、精力の減退を意味する。
「あんたぁ、随分とお疲れじゃのぅ。
わざとらしく手で口を押さえ、プププと笑ってやった。
「昨日はトラブル続きの上に殴られて、警察の相手もして、二時間しか寝てないねん。お前と違って、俺は七時間以上の睡眠を取りたい
「ガタイは、
「お前、シバくぞ!」
動揺するロイを見ると、尾道水道のエメラルド・ブルーを
ロイが、次の外来患者を呼んだ。神経質そうな中年の女性患者が、せかせかと診察室へ入って来る。
「羽立先生、この薬を見て
女性がバッグから取り出したのは、ビニールの小袋に入った茶褐色や黄土色の生薬の混合物――
「健康にええっちゅうて、親戚が送って来たんじゃ。飲んで大丈夫か、不安でのぅ」
ビニール袋を受け取って開封し、ロイが中身を少量だけペーパー・タオルへ
まるで
――そぎゃぁな
漢方生薬特有の香りが、ふんわりと診察室に広がる。紫乃にとっては、懐かしい実家の匂いだ。
ロイが、スンスンと鼻を鳴らし始めた。紫乃も、負けじと鼻をあちこちへ向け、スンスン、スンスン、匂いを嗅ぎ回る。
「匂いからして、
「うちも、そぅ思うちょったとこじゃ!」
ギロリ、とロイが紫乃を
「シナモンの
高らかに宣言した。
「ええ加減なことを、抜かすな!」
患者の手前、抑えた
白く巨大なロイの手が、ペーパー・タオルの上の茶色や緑色の混ざり物を、細かく選り分け始める。
「これ、
ひときわ薄い茶色の、アーモンドを砕いたような
「
「
文字通り、牡丹の
「もうええわ! 処方は、桂枝茯苓丸料で正解やんけ!」
真っ赤になった左頬のケロイドを、ロイがカリカリと引っ掻いた。
「ノリツッコミじゃのぅ」
「ノッてもツッコんでも
大多数の漢方医には、生薬を直接見たり嗅いだりする機会が無い。昨今の主流は、「エキス剤」と呼ばれる既製の粉末漢方薬であり、生薬を扱うのは製薬会社だ。漢方医が「エキス剤」ではなく「
紫乃は紫乃で、ロイの
「あんたぁ、噂に
幼少から生薬と遊び、生薬に
「なんで急にしおらしゅうなってるねん。匂いだけで処方を当てた、お前の勝ちやろが?」
ロイが軽く笑い、中年女性患者へ向き直った。
「この
「お手間を取らせて、
安心したようにお
ロイの背後で、紫乃は震えが止まらなくなり、両手で膝を押さえた。心で、絶叫した。
――コイツ、スゲェわい! 宇宙から飛んで来たんか?
ロイには、間違いなく、
「決めたわい。うち、あんたを師匠にしちゃる」
「なんで上から目線やねん。言われんでも、お前の指導医は俺や」
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