第4話 心身を見通す脈診
一
尾道市唯一の総合病院、通称・
外来診察室でロイは目を閉じ、最後の患者の脈を診る。
「調子がええって言うてた割に、めちゃめちゃダルそぅやんか!」
カッと目を開いて喝破すると、五十代の男性患者が恥ずかしそうに薄い頭頂部を掻いた。
「バレたか。先生の脈診は、相変わらず天才的じゃのぅ」
半年前から漢方治療を続け、当初訴えていた足の痺れと夜間頻尿はほぼ消失している。
「なんぞ疲れる原因があったんか?」
「晩酌しながらユーチューブで昔のドラマを観だしたら、懐かしゅうて止まらんでのぅ。昨日は二時間しか寝とらんのじゃ」
「しかも下痢してるやろ?」
「なんで脈で、そこまで分かるんかのぉ!」
患者がのけぞった拍子に、丸椅子の前脚が浮いた。
「年度替わりで、歓送迎会続きなんじゃ。腹も肝臓も、休む暇が無ぁよ」
「漢方的には、酒は老化を早めるからな。気ぃ付けや」
「酒は、百薬の長じゃろぅが?」
「ちゃうがな。
患者がうなだれ、目を潤ませた。
「先生の脈診は、何でもお見通しじゃ。酒のせいで儂の人生はズダボロじゃけん」
「いや待て。脈診で、さすがに人生までは読めへん。俺が言うたんは、『腎臓の腎』に、『精力の精』と書く『
「ほぅね。どのみち、酒を飲んじゃいけんっちゅう話じゃのぅ……」
寂しそうに背を丸めて診察室から出てゆく患者を見送り、ロイはひと息ついた。
時計の針は十三時を回っている。診察室の南側のブラインドを上げると、家電ショップに陳列された液晶大型TVのごとく、色鮮やかな景色が広がる。新緑の
診察机の電話機で、福山医大病院の交換台へ架け、行木のPHSへ繋いでもらう。
「病棟の患者さんたちは、どないでっか?」
「みんな落ち着いとるでぇ。二人ほど、生薬の量を調整しといたったわぁ」
「助かります。お蔭さんで、今日は半年ぶりに職員食堂でメシが食えますわ」
尾共は、福山医大病院よりもメシが旨い。特にカツ・カレーは、ボリューム満点かつスパイスが効き、絶品だ。ツンと刺激的なクミンの香りとチリペッパーの辛味を思い浮かべると、両頬の唾液腺がキュッと引き締まる。
行木が倒れて以降、昼食抜きと深夜残業が当たり前だった。漢方診療科の診療・教育業務を、ここ半年はロイ一人で引き受けてきた。
「紫乃ちゃんはどないなったか、ご存じですか?」
少しの沈黙の後、行木が重い濁声を発した
「ニュース、見たかぁ? 三阪くんは、尾道漢方薬局の娘さんやったんやなぁ」
初耳だ。道理で、漢方診療科での研修を選んだわけだ。
「教授は、その薬局とお知り合いでっか?」
「いやぁ、
「紫乃ちゃんは、今どこに居るんですか?」
「まさか、殺されるとはなぁ」
行木は回想に
――こらぁアカン。脳出血の後遺症は、まだ重いで。
「取り敢えず、メシを食ぅて帰りますわ」
電話を切る寸前に、低い濁声が答えた。
「三阪くんは、ご遺体の確認に行っとるぅ。警察の車で送り迎えをしてもらうっちゅうて連絡があったぁ」
――尾道署やな。
尾共へ来る途中の国道二号線沿いに佇む、殺風景な庁舎だ。古いコンクリートの外壁が、あちこち剥がれている。建物の内側も同様だろう。剥がれたコンクリートの一室で、紫乃が両親の遺体と対面しているのか。
左頬のケロイドが、針で刺すようにチクチクと痛む。また紫乃が倒れてはいないだろうか。研修医にしては腹が据わっているものの、まだ二十五歳の女の子だ。
ロイは、病院の売店でおにぎり四つとペットボトルのお茶を二本買い、スクラブに白衣を羽織ったまま、車に乗り込んだ。食堂の絶品カツ・カレーを食べるより、尾道漢方薬局を自分の目で見たくなった。
カーナビの指示に従い、海岸線から栗原川沿いに国道を遡る。
国道が交差して栗原川を越える辺りで、右手に《尾道漢方薬局》の看板が見えて来た。赤茶色の屋根が印象的な、スレート
「おっと。アカンがな」
道路脇にパトカーが
「一発、やったろか」
ロイはニタリと笑った。だらしなくはだけていた白衣のボタンを、素早く左手で留める。
車をゆっくり規制線まで進めると、すぐに制服警官が近付いてきた。ウィンドウを開けて何食わぬ顔で「ご苦労さんです」と挨拶し、白衣の胸の写真入り
「福山医大の医師、羽立です。法医学の岡崎教授から、解剖前に、二、三、現場で確認して来いと言付かりましてん」
この地域の司法解剖の九十九%は、福山医大の法医学教室で引き受けるはずだ。教授の名前が岡崎だか岡本だか、記憶が定かでは無い。確か法医学教室も、漢方診療科と同様に教授一人・講師一人の小所帯だ。
「現場への立ち入りを、ご希望ですか?」
「どんな薬が置いてあるかだけを、確認できればええんです。解剖に当たっては、大事な情報らしいんですわ」
咄嗟のでまかせにしては、上出来だった。
「本人確認ができるものを、何かお持ちですか?」
ロイは尻のポケットを探り、財布から運転免許証を出した。
「免許も髪も、品行方正さが
警官は、少しの間、運転免許と職員証を不思議そうに見比べる。背を向け、無線で会話し始めた。
しばらくすると、ブルーシートで覆われた《尾道漢方薬局》からスーツ姿の刑事が出てきてロイへ警察手帳を見せた。
「福山医大から来たっちゅうんは、あんたね? 薬の確認なら、一階の店舗部分だけの立ち入りでええじゃろ。何もいらわんのが条件じゃが」
「もちろんですがな。解剖に必要な情報だけ貰たら、とっとと帰りますんで」
どうやら、信用されている。法医学の教授の名前は、岡崎で当たっていたらしい。
刑事の指示通りにロイは車を
「法医学者って人気が
今日は、絶好調だ。
「ほぅね。お医者さんも大変じゃねぇ」
刑事は三十過ぎくらいだろうか。屈託なく、人が
《尾道漢方薬局》に張り巡らされたブルーシートの裏へ入ると、作業服姿の鑑識員にビニール・カバーを手渡された。
ふんわりと生薬の匂いが漂う。揮発性のある
「たまたま今月、私が指導している研修医が、この薬局の娘さんですねん」
「そりゃぁ気の毒じゃったねぇ! ご両親がむごたらしい殺され方をして」
「むごたらしいって……どんな殺され方ですねん?」
「いやいや、解剖したら、先生がたのほうが詳しゅう分かるでしょう」
軽そうに見えた刑事の口が、途端に重くなった。
薬局内を見回す。レジカウンターの左手奥に、ガラス張りの狭い部屋が見える。調剤室だろう。
「調剤室で、生薬の確認をさせて貰えるやろか?」
「どうぞ。随分と荒れちょりますが」
そうっと一歩、調剤室へ足を踏み入れた。生薬の匂いが、更に強く鼻を衝く。床には、茶葉や細かい木片のような、様々な生薬が散らばっている。
奥の壁に、大人の背丈ほどの木造りの
「全部、カラにされちょるけん」
刑事の言う通り、抽斗はあちこち開きっ放しだ。中身の生薬は、ゴミ程度しか残っていない。それでも老舗の漢方薬局がどんな生薬を扱っているのか、知りたくなるのが漢方医の
「生薬の種類をありったけメモって来いって、どやし付けられましてん。せやけど、こんなに
困ったように、首を捻って見せる。
「ホンマに申し訳無いんやけど、一発、写真を撮ってもええですか?」
ざっと見る限りは、ありふれた生薬がほとんどだが、ロイが知らない生薬名も二、三、ある。
意外に軽く、刑事が頷いた。
「解剖のお役に立つなら、どうぞ」
遠慮無く、次々とスマホのカメラに収める。
「恩に着ますわ」
百味箪笥を撮り終わると、調剤室を出た。
レジカウンター下のガラスケースに陳列してある、既製品の漢方を覗き見る。
「ウソやろ!」
思わず、呻いた。
現存する
――なんで、こっちに手を付けへんねん! シャレにもならへん!
怒り狂いたいほど、強烈な違和感を覚えた。ありふれた生薬を
「どぎゃぁしたんね?」
刑事が、人懐こい目をロイへ向ける。
一瞬、刑事を
――アカン! アカンで!
ここは紫乃の実家だ。荒れた現場を見て、紫乃はどんなに胸を痛めるだろう。
ロイは、スマホをポケットに収めた。長居はできない。昼食の時間を充
てた、寄り道だ。
「もう十分ですわ。お
「お役に立てたんなら、何よりじゃね」
薬局を出る前に、深呼吸した。生薬の芳香が、鼻から胸いっぱいに沁み渡る。店主の、漢方への尽きない情熱を偲ばせる、清潔さと品揃えだった。
薄暗い薬局へくるりと向き直り、頭を下げて合掌した。見ると、刑事も同じように手を合わせていた。
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