第3話 蘇るジュヴナイル

 一

 ロイの背の高い白衣の後ろ姿が、遠ざかる。

 ――せっかちとヘソ曲がりとどぎつい大阪弁さえけりゃ、ええ男なんじゃがのぅ。

 紫乃は、ロイの人となりを測りかねていた。

 ――信用して、全部を打ち明けても大丈夫じゃろぅか?

 思考がくぐもって、前へ進まない。両親は、もうない。頭では理解しても、現実とは思えない。救急当番だった昨夜は、明け方に当直室で数十分の仮眠をむさぼっただけだ。

 近付いていたパトカーのサイレンが、はたと鳴りんだ。病院敷地内へ入ったのだろう。守衛の詰め所に寄ってから研修医宿舎に到着するまで、まだ数分はある。

 一刻も早く、所在を確認したい物がある。

「ドアを開けたまんま、ここへってね? うち、ちょっと入ってみるけぇ」

 老警備員へ言い捨てて靴を脱ぎ、紫乃はそうっと部屋へ入った。パトカーのサイレンが近付いても現場にとどまる間抜けな空き巣など、居ないはずだ。

 部屋は、空き巣が入ったにしては、さほど散らかっていない。クローゼットや、下着が入った衣装ケースは、手付てつかずだ。少なくとも、変態野郎の仕業しわざでは無い。

 アクセサリー・ボックスは、開けられた形跡すら無い。予想通りだ。金目かねめの物を狙うなら、プレハブ造りの研修医宿舎よりも、隣の瀟洒しょうしゃ白壁しらかべの官舎へ入るだろう。

 机の抽斗ひきだしが中途半端に開き、各科で研修中にもらったプリント類がぐしゃぐしゃに掻き回されている。本棚に並べた医学書は、配置が乱れている。狙われたのは、書類か本だ。

 机の上にあるべき物が、消えている。天板てんばんに大きなロゴが入った銀色のノートパソコンと、USBメモリだ。両親が殺された同じ夜に、電子媒体を盗まれた。

 ぼんやりしていた疑念が、確信に変わる。空き巣の目的は、一つだ。

 ――お父ちゃんの日誌じゃな。

 スクラブの腰ポケットに入れたスマホを、ぎゅっと握った。

 ――データを移しといて、良かったわい。

 三阪家は、強盗に狙われるような裕福な家庭では無い。京都大学薬学部の研究者だった父は、四十年前に郷里の尾道へ帰り、あちこちから借金をして漢方薬局を開いた。生活は、質素だった。薬局の定休日は日曜のみで、家族旅行にもほとんど出掛けた記憶が無い。

 先月、ひさりに実家へ帰ったときだ。

 四月から紫乃が漢方診療科で研修を始めると聞き、父は上機嫌で切り出した。

「ついに、お前に家宝をさずけるときが来たのぅ」

奮発ふんぱつして、天満屋てんまやでグッチでもぅてくれたんか!」

「漢方薬局の家宝と言やぁ、漢方に決まっちょる。わしの研究日誌をスキャンして、PDFファイルへ落としといたわい」

 胸をおどらせる紫乃へ父が渡したのは、小さなUSBメモリだった。

 紫乃は、口をとがらせた。

「なんね、こぎゃぁなもん」

わしの人生を懸けた、全てじゃ」

「お父ちゃんのしみったれた人生より、グッチのバッグのほうが魅力的じゃわい」

「お前、自分の親が、変じゃと思わんかったか? 五十六の母親と六十三の父親から生まれちょるんで?」

「親の年齢がバレると、そりゃぁ恥ずかしかったわい。友達は、むしろ感心してくれちょったが。『二十歳下のうちの両親よりも、わこぅ見えるわ!』っちゅうて」

 父は、喜ぶでもなく、どこか寂しげな目で遠くを見た。

としを取れば取るほど、子供がしゅうてたまらんでのぅ。世界じゅうの研究報告をそうざらえして、十年も掛けて、若返りの生薬しょうやくを発見したんじゃ。その原料植物に、わしは時戻し~トキモドシ~と名付けた」

「なんじゃて! なしてそぎゃぁに景気のええ話を、これまでしてくれんかったんなら?」

 確かに、異様なほど、両親の容貌は若い。見た目だけではない。いつも意欲的にくるくると動き回り、二人とも好奇心旺盛だ。紫乃は、食い付いた。若さは、女の最強の武器だ。永遠の若さが、手に入るのか。

わしらは子宝こだからに恵まれんかったうえ、お母ちゃんは四十手前で急に老け込んで、月経がぅなったんじゃ。『トキモドシ』を飲んだら劇的に若返って、お前をさずかった」

 初耳だ。どこからか、古いアルバムを父が持って来た。

「ほれ、一目瞭然いちもくりょうぜんじゃろぅが」

 アルバムを広げると、見覚えのある男女二人が肩を組んで笑っていた。紫乃の生まれる遙か以前の、まだ三十歳前後の両親だ。

 一九七〇年、結婚当初の母は、大きな黒い瞳が印象的な美人だ。ページをめくると、時が進む。一九八〇年、三十八歳頃から、母は別人のように老け始める。四十を過ぎると、髪は白髪だらけになり、頬が垂れ下がって法令ほうれい線が目立つ。以降、写真は激減する。

 一九九三年、五十一歳頃から、再び写真の数が増える。

 紫乃は、目をみはった。

「お母ちゃんは、どこのエステにかよったんなら? うちにも教えてくれぃ!」

 結婚当初のごとく、母が若い。髪は黒く、肌はつややかで、顔の輪郭がシャープに引き締まっている。感情までも瑞々みずみずしさを取り戻したのか、明るい笑顔がはじけ飛ぶ。

 若返った母を、父はそこかしこでカメラに収めている。海辺で、千光寺せんこうじで、倉敷くらしきで。母の体は、ポーズを変えるたびに、女らしい張りと曲線を描く。はしゃぎ回る若い恋人同士のように、二人で何度も何度も、同じ場所で撮影している。

「エステに掛ける金など、三阪家にはぁわい。『トキモドシ』のおかげじゃ。ちなみに、お前も小さい頃、『トキモドシ』を飲んじょったんで?」

「ほぅね! じゃけぇ、うちは絶世の美女になったんか!」

「アホゥ。顔がお母ちゃんに似ただけじゃわ。性格はわしに似て、おっちょこちょいじゃがのぅ。お前には、生まれつきの心房中隔しんぼうちゅうかく欠損症けっそんしょうがあったんじゃ。欠損孔けっそんこうおおきゅうて、自然にふさがる可能性はぁけぇ、小学校に上がったら手術が必要と宣告されちょった」

「そんな話もあったのぅ。今は周りからウザがられるほど元気じゃけぇ、忘れちょったわい」

 幼少時の一時期のみ虚弱だったと、聞かされてはいた。物心ものごころ付いてからは、風邪すら引いた記憶が無い。

「お前が三歳のときから、『トキモドシ』を毎日少量ずつ飲ませたら、心臓に空いた穴が半年後には完全に塞がっちょった。心房中隔欠損症の経過は、尾共おのきょうの小児科のカルテに残っちょるじゃろ」

「どう理解すりゃぁ、ええんじゃ? 子供の心臓が、更に若返るわけがかろぅ?」

わしにも、よぅ分からん。『トキモドシ』には、『時間を戻す』だけじゃぅて、細胞の機能や器官の欠損を『正常に戻す』働きがあると推察しちょる」

「若返り薬っちゅうより、万能薬じゃのぅ!」

上手うも使つかやぁ億万長者になれるかも知らんし、わしみたぁに臆病なら、秘密にして自分や家族のためだけに使うのもええ。ただし、のぅ」

 突然父がまなじりを吊り上げ、ぐっと顔を紫乃へ近付けた。

「お前は、よぅよぅ漢方を勉強せにゃぁいけんで! 脇目も振らず最低十年は、のぅ。そんで、『トキモドシ』を使うなら最低量にとどめて、必ず漢方を併用するんじゃ。各個人の体調を診ながら漢方を調整せんと、恐ろしい副作用を起こすけぇ」

「ど、どぎゃぁな副作用なんね?」

 何だか、急に恐ろしくなってきた。

「一気に、老化する」

「一旦若返ってから老化するんなら、プラマイ・ゼロじゃろ?」

「見た目も体力も心も、数か月で二十歳ほどわこぅなるが、その後また数か月で、四十歳ほどとしを取るんじゃ。考えてみぃ。たった数か月で、四十年も時間が進むんで? 見た目がどんっどんけるだけじゃぁ。身も心も、どんだけ大儀たいぎぃか。人にっちゃぁ、命までられるじゃろぅ」

「乙女の美を賭けた、イチかバチかの劇薬っちゅうわけじゃ! その若返り薬を上手うもぅ使うにゃぁ、どぅしたらええんじゃ?」

わしの研究日誌を理解できるほど漢方に熟練すりゃぁ、急激な老化を起こさず若いまんまの状態を保てる。とにかく、急がんことよ。ようやく理解できたんがわしを取ってからでも、おそぅはぁ。『トキモドシ』を飲みゃぁ若返って、人生をもう一度やり直せるけぇのぅ。男も女も、じゃ」

 父が大口を開け、ガハハと笑った。

「お父ちゃんとお母ちゃんは、今も『トキモドシ』を飲んじょるんか?」

「もちろんじゃ。見た目で分かるじゃろぅが?」

 得意げに、父がっぺたを指でツンとはじいた。九十近いのにしわ肝斑しみも無い、パツンと張った頬だ。早朝のランニングを欠かさず、日焼けして精悍せいかんに引き締まった顔付きからして、まだ四十代で通るだろう。

「『トキモドシ』を飲みゃぁ、身も心もわきゃぁままじゃ。毎日、色んな出来事でドキドキ・ワクワクして、希望とエネルギーに満ちあふれちょる。未来永劫に続くジュヴナイルが手に入るんよ」

「ジュヴナイル? そりゃ、なんなら? 聞き慣れん単語じゃのぅ」

「近頃のわきゃもんは、教養がぁわい。瑞々みずみずしい少年・少女時代、ちゅう意味よ」

 八十九歳の父が、今の自身を「少年時代」と表現したことに半ばあきれつつ、紫乃はUSBを受け取った。

「にわかには信じられんが、ありがたくもろぅとくわい。お父ちゃんが自分で薬を作れんようになったら、うちが作って飲まさにゃぁいけんし、のぅ」

 実家から宿舎へ戻ったあと、紫乃はUSBからノートパソコンへデータを移した。さっそく、研究日誌のファイルを開く。

 唖然あぜん、とするしかなかった。予想よりも遙かに整然と記載され、丁寧にスキャンされている。一方で、中国語と難解な英語の研究用語で埋め尽くされ、膨大な量だ。漢方医を十年も続けたところで、とても解読できる代物しろものでは無い。

 読める部分だけをサラッと流し読み、紫乃は早々にさじを投げた。一つだけ、大発見があった。一年ほど前に世間を騒がせた、「時騙ときだまし」に似た学名の植物が研究日誌にも記載されていた。

 ――お父ちゃんの見付けた「トキモドシ」は、「時騙ときだまし」の近縁種じゃな……こりゃ本当に効きそぅじゃわい!

 自然と、頬がゆるむ。既に、宝は手に入ったも同然だ。

 ――うちは、なんてツイとるんじゃ。明日は、焼肉でも食いに行っちゃろぅか!

 自分で解読する気は、サラサラ無い。来月から、漢方診療科に配属される。指導医の羽立はだちロイ講師は、数か国語を自在に操り、遺伝子の研究で博士号を取り、教授よりも漢方の腕が立つと評判だ。研修医の間では、教育熱心な指導医としても人気が高い。

 ――三拍子も四拍子もそろぅちょる、鴨葱かもねぎじゃが!

 漢方の専門用語に加え、難解な英語の研究用語にまで詳しい人物など、世界じゅうを探しても他にない。

 研究日誌のPDFファイルは、スマホへ転送しておいた。いつでも、ロイ《カモ》に見せられるように。


  二

 タンタンタンと階段を上る、複数の靴音が聞こえて来た。玄関にたたずむ老警備員も、階段へ視線を向けている。潮時しおどきだ。

 紫乃が靴を履いていると、「機捜」という腕章を着けた男二人が現れた。意外とラフめのジャケット・スタイルだ。

「機動捜査隊です」

 二人の刑事が警察手帳を見せた。年齢は、それぞれ二十代後半と四十手前だろうか。老警備員は、お役御免とばかりにぺこぺこ頭を下げ、そそくさと去った。

「空き巣は、この部屋ですかいのぅ?」

 口調は落ち着いているが、刑事たちは油断なく視線を部屋の奥へ走らせている。

「今朝、うちが病院から戻ったら、窓がいちょって」

「玄関の鍵はいちょりましたか」

「閉まっちょった」

 ほぉ、と刑事たちは眉を少し上げた。

「わざわざ二階の窓から逃げたっちゅうわけじゃ。窓に、鍵は掛けちょりましたか」

「当たり前じゃ。うちは、真面目で几帳面なA型なんよ。ちなみに両親もA型じゃ」

 ぐいっと鼻先を上げた紫乃には取り合わず、刑事が話を進めた。

「盗られたもんは、分かりますか」

「今、見たところじゃと、机の上に置いちょったノートパソコンとUSBメモリだけじゃ」

「他に貴重品とかは」

「お金やカードは財布に入れて持ち歩いちょるし、ネックレスもピアスも無事じゃ。それよりも、今朝、両親が殺されたんと関係しちょるんじゃぁかと……うちは尾道漢方薬局の娘じゃ」

 一㎜だけ大きく目を開き、刑事たちは視線を交わした。

「これから尾道署へ行くところじゃったんよ……部屋へ入って、着替えてもええかのぅ?」

「すぐに鑑識が来るけぇ、ちぃーと待ってもらえんじゃろか」

 くまで優しい口調だ。

「寒いんじゃが、のう。下は半袖じゃ」

 白衣の胸元をちらりと開いて見せた。青いスクラブの下には、下着しか着けていない。

「申し訳無ぁが、決まりですけぇ」

 刑事は二人とも、たじろぐ気配も無い。口で言うほど、申し訳無さそうでも無い。

 もう一台、赤色灯を載せたグレーの大きなワゴン車が到着した。帽子をかぶった作業服姿の男たちが、めいめいラテックスの手袋を着けながら、階段を上って来る。

はよぅ尾道署へ行かんといけんのじゃが。うちは、車を持っちょらんし」

「人を呼んで、送らせますけぇ」

「ゆっくりとメークを直す暇もぁわ。今日は、わやじゃのぅ」

 こんな最悪の日に乗るのは、せめてロイの車にしたかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る