第3話 蘇るジュヴナイル
一
ロイの背の高い白衣の後ろ姿が、遠ざかる。
――せっかちと
紫乃は、ロイの人となりを測りかねていた。
――信用して、全部を打ち明けても大丈夫じゃろぅか?
思考がくぐもって、前へ進まない。両親は、もう
近付いていたパトカーのサイレンが、はたと鳴り
一刻も早く、所在を確認したい物がある。
「ドアを開けたまんま、ここへ
老警備員へ言い捨てて靴を脱ぎ、紫乃はそうっと部屋へ入った。パトカーのサイレンが近付いても現場に
部屋は、空き巣が入ったにしては、さほど散らかっていない。クローゼットや、下着が入った衣装ケースは、
アクセサリー・ボックスは、開けられた形跡すら無い。予想通りだ。
机の
机の上にあるべき物が、消えている。
ぼんやりしていた疑念が、確信に変わる。空き巣の目的は、一つだ。
――お父ちゃんの日誌じゃな。
スクラブの腰ポケットに入れたスマホを、ぎゅっと握った。
――データを移しといて、良かったわい。
三阪家は、強盗に狙われるような裕福な家庭では無い。京都大学薬学部の研究者だった父は、四十年前に郷里の尾道へ帰り、あちこちから借金をして漢方薬局を開いた。生活は、質素だった。薬局の定休日は日曜のみで、家族旅行にもほとんど出掛けた記憶が無い。
先月、
四月から紫乃が漢方診療科で研修を始めると聞き、父は上機嫌で切り出した。
「ついに、お前に家宝を
「
「漢方薬局の家宝と言やぁ、漢方に決まっちょる。
胸を
紫乃は、口を
「なんね、こぎゃぁなもん」
「
「お父ちゃんのしみったれた人生より、グッチのバッグのほうが魅力的じゃわい」
「お前、自分の親が、変じゃと思わんかったか? 五十六の母親と六十三の父親から生まれちょるんで?」
「親の年齢がバレると、そりゃぁ恥ずかしかったわい。友達は、むしろ感心してくれちょったが。『二十歳下のうちの両親よりも、
父は、喜ぶでもなく、どこか寂しげな目で遠くを見た。
「
「なんじゃて! なしてそぎゃぁに景気のええ話を、これまでしてくれんかったんなら?」
確かに、異様なほど、両親の容貌は若い。見た目だけではない。いつも意欲的にくるくると動き回り、二人とも好奇心旺盛だ。紫乃は、食い付いた。若さは、女の最強の武器だ。永遠の若さが、手に入るのか。
「
初耳だ。どこからか、古いアルバムを父が持って来た。
「ほれ、
アルバムを広げると、見覚えのある男女二人が肩を組んで笑っていた。紫乃の生まれる遙か以前の、まだ三十歳前後の両親だ。
一九七〇年、結婚当初の母は、大きな黒い瞳が印象的な美人だ。ページを
一九九三年、五十一歳頃から、再び写真の数が増える。
紫乃は、目を
「お母ちゃんは、どこのエステに
結婚当初のごとく、母が若い。髪は黒く、肌は
若返った母を、父はそこかしこでカメラに収めている。海辺で、
「エステに掛ける金など、三阪家には
「ほぅね! じゃけぇ、うちは絶世の美女になったんか!」
「アホゥ。顔がお母ちゃんに似ただけじゃわ。性格は
「そんな話もあったのぅ。今は周りからウザがられるほど元気じゃけぇ、忘れちょったわい」
幼少時の一時期のみ虚弱だったと、聞かされてはいた。
「お前が三歳のときから、『トキモドシ』を毎日少量ずつ飲ませたら、心臓に空いた穴が半年後には完全に塞がっちょった。心房中隔欠損症の経過は、
「どう理解すりゃぁ、ええんじゃ? 子供の心臓が、更に若返るわけが
「
「若返り薬っちゅうより、万能薬じゃのぅ!」
「
突然父が
「お前は、よぅよぅ漢方を勉強せにゃぁいけんで! 脇目も振らず最低十年は、のぅ。そんで、『トキモドシ』を使うなら最低量に
「ど、どぎゃぁな副作用なんね?」
何だか、急に恐ろしくなってきた。
「一気に、老化する」
「一旦若返ってから老化するんなら、プラマイ・ゼロじゃろ?」
「見た目も体力も心も、数か月で二十歳ほど
「乙女の美を賭けた、イチかバチかの劇薬っちゅうわけじゃ! その若返り薬を
「
父が大口を開け、ガハハと笑った。
「お父ちゃんとお母ちゃんは、今も『トキモドシ』を飲んじょるんか?」
「もちろんじゃ。見た目で分かるじゃろぅが?」
得意げに、父が
「『トキモドシ』を飲みゃぁ、身も心も
「ジュヴナイル? そりゃ、なんなら? 聞き慣れん単語じゃのぅ」
「近頃の
八十九歳の父が、今の自身を「少年時代」と表現したことに半ば
「にわかには信じられんが、ありがたく
実家から宿舎へ戻ったあと、紫乃はUSBからノートパソコンへデータを移した。さっそく、研究日誌のファイルを開く。
読める部分だけをサラッと流し読み、紫乃は早々に
――お父ちゃんの見付けた「トキモドシ」は、「
自然と、頬が
――うちは、なんてツイとるんじゃ。明日は、焼肉でも食いに行っちゃろぅか!
自分で解読する気は、サラサラ無い。来月から、漢方診療科に配属される。指導医の
――三拍子も四拍子も
漢方の専門用語に加え、難解な英語の研究用語にまで詳しい人物など、世界じゅうを探しても他に
研究日誌のPDFファイルは、スマホへ転送しておいた。いつでも、ロイ《カモ》に見せられるように。
二
タンタンタンと階段を上る、複数の靴音が聞こえて来た。玄関に
紫乃が靴を履いていると、「機捜」という腕章を着けた男二人が現れた。意外とラフめのジャケット・スタイルだ。
「機動捜査隊です」
二人の刑事が警察手帳を見せた。年齢は、それぞれ二十代後半と四十手前だろうか。老警備員は、お役御免とばかりにぺこぺこ頭を下げ、そそくさと去った。
「空き巣は、この部屋ですかいのぅ?」
口調は落ち着いているが、刑事たちは油断なく視線を部屋の奥へ走らせている。
「今朝、うちが病院から戻ったら、窓が
「玄関の鍵は
「閉まっちょった」
ほぉ、と刑事たちは眉を少し上げた。
「わざわざ二階の窓から逃げたっちゅうわけじゃ。窓に、鍵は掛けちょりましたか」
「当たり前じゃ。うちは、真面目で几帳面なA型なんよ。ちなみに両親もA型じゃ」
ぐいっと鼻先を上げた紫乃には取り合わず、刑事が話を進めた。
「盗られた
「今、見たところじゃと、机の上に置いちょったノートパソコンとUSBメモリだけじゃ」
「他に貴重品とかは」
「お金やカードは財布に入れて持ち歩いちょるし、ネックレスもピアスも無事じゃ。それよりも、今朝、両親が殺されたんと関係しちょるんじゃ
一㎜だけ大きく目を開き、刑事たちは視線を交わした。
「これから尾道署へ行くところじゃったんよ……部屋へ入って、着替えてもええかのぅ?」
「すぐに鑑識が来るけぇ、ちぃーと待って
「寒いんじゃが、のう。下は半袖じゃ」
白衣の胸元をちらりと開いて見せた。青いスクラブの下には、下着しか着けていない。
「申し
刑事は二人とも、たじろぐ気配も無い。口で言うほど、申し
もう一台、赤色灯を載せたグレーの大きなワゴン車が到着した。帽子を
「
「人を呼んで、送らせますけぇ」
「ゆっくりとメークを直す暇も
こんな最悪の日に乗るのは、せめてロイの車にしたかった。
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