第2話 三十代へ若返った八十代の夫婦
一
ピルルッ。
院内PHSの鋭い電子音が、医局の静寂を切り裂いた。福山医大附属病院漢方診療科講師・
二年目の研修医・
「はぁーい、三阪でぇーす」
マスカラたっぷりのギャルっぽいアイメークと、行儀よく背中に
「病棟からやろ? ボサッと座っとらんと、
読んでいた漢方の古典をテーブルへ放り投げ、ロイは長い足で蹴り飛ばすように席を立った。
緑色のカラー・コンタクトがきらりんと光る目で、紫乃がロイを
「そぎゃぁにせっかちじゃけぇ、三十五にもなって彼女が
「お前、どんな立ち位置でほざいてるねん! 研修医の
「よぅ聞こえんじゃろ! 静かにしんさい。……もう一度、お願いします」
重くマスカラが
「うっさいのは、どっちやねん! お前みたいな
あとの言葉を、ロイは呑み込む。セクハラ・モラハラには、とかく過敏な昨今だ。
毎週月曜の午前は、ロイは車で片道四十分の尾道共済病院――通称・
漢方診療科には、もう一人の常勤医――六十歳の
「えっ……あんたぁ、うちに何を言うちょる? 人違いじゃ
歩き出しかけた紫乃が、動きを止めた。
「どないした? どっからの電話やねん?」
ロイが
肩を押し下げ、ようやく息を吐きながら、紫乃が小刻みに答えた。
「警、察」
厚いファンデーションとマスク越しにも、顔がみるみる血の気を失うのが分かる。
「うちの両親が、自宅で殺されたっちゅう……」
緑色の目が上転し、ふっ、と光を失った。
「おっと、アカンがな」
膝から崩れ落ちる寸前に、ロイが抱き止めた。紫乃の手から滑り落ちたPHSが、
ロイは紫乃を軽々と抱き上げ、カンファレンス・ルームの椅子に座らせた。両手で紫乃の顔を挟み、正面を向かせる。
「しゃんとせぇ! 俺の
片手でPHSを拾い、生気の無い半開きの目の前に、突き出す。
「まだ電話は
はっ、とマスカラだらけの睫毛が開き、緑色の目が光を取り戻した。
「もう大丈夫じゃ。……急に腹が減っただけじゃわ!」
「
頷き、紫乃が素早くPHSを耳に当てた。
「最後に実家へ帰ったんは、
両親の死の前後の状況を確認されているらしい。必死に涙を
「父は八十九歳、母は八十二歳じゃ」
――妙に
確か、紫乃は尾道北高から現役で福山医大へ入学し、今月中に二十六歳の誕生日を迎えると聞いた。逆算すると、母親は五十六歳で紫乃を産んだことになる。
「
紫乃がうんざりした表情を浮かべる。現場で遺体を検分している警察も、紫乃の両親の実年齢を信じ
「どう見ても三十代なら、間違い
――養子縁組やろか?
まだ年齢の確認が続いているのだろうか。紫乃が涙声を荒げた。
「ほいじゃけぇ、実の両親じゃって! 子供は、うち一人で、ちゃんと血は
一瞬だけ乱れたロイの思考は、すぐに別の答えを
――
独りで納得したロイを尻目に、いきなり紫乃がPHSに向かって
「不妊治療は、受けとりゃあせん。うちは自然妊娠の自然分娩で生まれたんじゃわ!」
「んなアホな!」
思わず、声が出た。
ちらりとロイを
――五十六で自然分娩……しかも一人っ子なら、
初産なら、
「仕事が終わり次第、そちらへ伺いますけぇ」
ふうっと大きな息をつき、紫乃がPHSを下ろす。途端に、忘れていたように、マスカラ混じりの涙がポトリと落ちた。白衣の膝に、黒い
ロイは、うなだれた紫乃の黒髪を、怒声で吹き飛ばした。
「即刻、行かんかい! 『終わり次第』とか、
「あんたぁ、
涙で光る目が、覚悟で
「どうせ急いでも、両親は戻って
「……ええ度胸しとるやんけ」
――敬語も使えへん、厚化粧研修医の
ロイは、無造作にズボンのポケットへ手を突っ込み、PHSを取り出した。
「緊急事態なんや。さすがに今日こそは、最終兵器に登場して
ニタッと笑いながら番号を押し、PHSを耳に当てる。
医局のすぐ外でピルルッと電子音が聞こえ、ロイは紫乃と顔を見合わせた。電子音が、近付いてくる。
「誰が最終兵器やねんん、コラァァ!」
重低音の
「お前のデカい声は、廊下まで
PHSを切って、ほっとひと息つき、ロイは顔を
「そらぁ良かったですわ。たまには教授にツッコんで
珍しく、行木が朝から出勤している。半年前に脳出血を起こして以来、右半身不随と言語障害が残遺し、別人のように老けて欠勤がちだった。
今朝は元気そうで、滑舌も良い。ふと見ると、一時は真っ白だった髪が、黒々としている。
行木の
ロイは行木へ、
「んなわけで、まだ病棟の患者さんの朝回診が、できてませんねん。教授のお
「任せとかんかいぃ。病棟へでも天国へでも、いつでも
「申し
紫乃が深々と頭を下げた。目元のメークがあらかた落ちたギャル顔は、ひと回り小さく見える。
「
「そぎゃぁな……悪いですけぇ」
「緊急事態やし、ええがな。尾道署は、
「三阪くんは、まず着替えなぁアカンでぇ。ロイは構わんけどぉ」
行木が、紫乃を顎で指した。紫乃もロイも、スクラブと呼ばれる上は半袖・下は九分丈の青い院内着に、長い白衣を
「よっしゃ、研修医宿舎経由で、官舎の駐車場まで
研修医宿舎は、病院裏口を出てすぐのプレハブ五階建てだ。更に裏手に、ロイが住む白いコンクリート造りの官舎がある。どちらも、在来線も新幹線も停まる福山駅から徒歩圏内のうえ、賃料が法外に安い。
ロイは、ちらりと腕時計を見た。
「いや、走らなぁアカン!」
聞くなり、紫乃がひと足先に走り出した。
ペタペタペタペタ。
よく磨かれた朝の廊下で、二人のサンダルが
病院裏口を出ると、まだ冷たい四月の風が白衣の
研修医宿舎二階の、紫乃の部屋の前で、ロイは立ち止まった。
「悪いけど、五分で着替えて、メークも直して
「五分もありゃぁ、女は生まれ変わっちゃるわい!」
「どないしてん?」
「窓……」
紫乃の頭越しに、ロイも部屋を覗き込む。女性の住まいらしい花の香りが、ふわりと鼻をくすぐる。玄関から、簡素なフローリングのワンルームを、
突き当たり、一畳ほどの窓が開け
一歩、二歩と部屋へ入ろうとした紫乃を、ロイは慌てて止めた。
「アカン、まず警察や!」
まだ、侵入者が
PHSで、病院の交換台へ
「研修医宿舎の二〇七に、空き巣や。至急、警察に来て
ロイは、紫乃に向き直った。
「ええか、よぅ聞け。警備員が来たら、俺は一人で
「言われんでも、分かっちょるわい!」
紫乃が、息苦しそうにマスクを外した。品良く通った鼻と、赤みの強い唇が現れる。マスカラが落ち、むしろ凛とした目元が際立つ。背筋を伸ばして深く息を吸うと、胸の膨らみは意外に豊かだ。
不謹慎ながら、目を奪われた。メークが落ちたら、とんでもなく美人だ。
「一度、訊きたかったんじゃが」
紫乃が唐突に、緑色の大きな目で顔を覗き込んできた。心を読まれたようで、ロイはドキリとした。
「あんたぁ、若返りの薬って存在すると
「ひょっとして……『
昨年一月、
――中国雲南省の奥地に自生し、原住民が「時騙し」と呼ぶ寄生植物が、老化を劇的に改善する――
「知らん医者は、
驚天動地の事態となったのは、医学界ばかりでは無い。「時騙し」の衝撃は、生物学、文化人類学、はては経済学まで、あらゆる分野の専門家たちを震撼させた。ヒトの老化を前提とした従来の研究が全て、一瞬で無に帰したのだ。
「俺は、信じてへん。動物実験の段階では著効した薬が、ヒトに投与したら全然効かへんかったっちゅう例は、腐るほどあるからな。それに、昔から西洋の薬の有効性って、世界へ売り込むための戦略ありきで誇大広告されがちやねん」
「どぎゃぁな意味じゃ。アホな研修医でも理解できるように、分かり
「まず、欧米の有名大学の教授が、『この症状にはこの新薬が効く』って言い始める。次に、他の研究者も『ホンマや、効くわ!』ってワーワー騒ぎ出して、証拠固めをする。そしたら信頼度バツグンになって、新薬は世界じゅうで売れまくるやろ? 売り上げは全部、新薬を創った欧米が、ガッポリと吸収する仕組みや」
「あんたぁ、大学病院の講師の
「
紫乃が、頭のてっぺんから足の先までロイを眺め廻し、ピシャリと言い放った。
「西洋ふうの見てくれで西洋へ悪態をつかれても、違和感しか残らんわい!」
ロイの外見は、ほぼ白人だ。母は日本人だが、フランス
「うっさいわ。元々俺の外見自体が、違和感だらけやねん」
生まれつき、左頬にケロイドがある。静脈が青く透けるほど白い肌に、赤褐色に盛り上がったケロイドは、異様に目立つ。いつ頃からだろうか。好奇の視線を浴び続けたせいか、興奮すると真っ赤に
「『時騙し』は、有効成分まで特定されたじゃろ? それでも、嘘じゃと言い張るんか」
――コイツ、よぅ勉強してるやん。
内心、ロイは舌を巻いた。ギャル崩れの外見はさておき、向上心は
昨年五月、異例の速さで、
夢の若返り薬の誕生には、思わぬ方面から
「嘘とは言わへん。有効性の
紫乃がぶるんぶるんと首を左右に振った。
「そぎゃぁなんとは、次元が違うわい。うちが言うちょる『若返りの薬』は、飲んだら何十年も前の体に戻れるような、劇的なやつじゃ。心にだって、少年や少女のように
ロイは、即答した。
「あるわけ無いやん。タイムマシンに乗るくらい心身の時間を逆戻りさせるなんて、いくらなんでも自然の摂理に
「もし『時騙し』を超える若返りの薬を手に入れたら、あんたぁ、どぎゃぁするんね? 億万長者になれるがのぅ」
アスタリスク製薬は、IT系やクリーン・エネルギー系を抑え、一気に時価総額トップの企業となった。資本家たちは、「timeless」が医薬品として認可された
「
「研究だけなら、やってみたぁか? 若返り効果を持つ自然生薬が存在したら、じゃ」
うーん、と答えに詰まったところで、タンタンと階段を上る靴音が近付いて来た。
思わず、ロイは唇をひん
「病院の警備って、どんだけ
現れたのは、制服がぶかつくほど痩せた、老警備員だ。二階まで上っただけで、ハァハァと息を切らし、足元がふらついている。紺の制帽から乱れ出た髪は、真っ白だ。七十を過ぎていそうだ。
「まだ、不審者がうろついてるかも知れへん。警察が来るまで、三阪先生と一緒に
すぐに状況を呑み込めるはずもなく、老警備員が反射的に頷いた。
遠くから、パトカーのサイレンが近付く。
「紫乃ちゃん、何か相談があったら、すぐに電話でもLINEでもして
指導中の研修医には、いつも最初に連絡先を教えてある。
「あんたぁ、女心を分かっちょるのぅ。そぎゃぁに優しゅうされると、乙女は
「だからお前、どんな立ち位置でほざいてるねん!」
ツッコミつつ、内心、ほっとする。紫乃が、鼻に掛かった甘え声を取り戻している。
ほな、と足早にロイは去った。
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