男たちに知らせてよ

なつのあゆみ

第1話

 何か一つ良いことがあればよかった。

 たとえばガソリン代が安くなるとか日本米が安く買えたとか、会社の前においしいパン屋さんができるとか。


 椅子に根を張って動かないくせに、手だけはご達者で尻を触ってくる上司が僻地に異動になるとか、それほどのラッキーは諦めていた。


 夫が「まとも」になることを私は諦めようとしていた。


 半年かけて熟考した結婚式のプラン、それが実現されて二年後、夫が失業した。

 私の体には、常にどこかアザができるようになった。


「だからこれが、最後の電話なのよ」


 私はスマホの向こうにいる親友との別れを名残惜しんで言う。親友は、「ああそんな」を繰り返している。


「殺人を犯したわ。だからあなたと話すのは、これっきりよ。あなたが大切だから縁を切る。あなたに殺人者になった私をもう見て欲しくないからね。あんたのキレイな目に、私はもう毒なのよ」


 私は淡々と言う。

 手が滑ってスマホを落としそうになる。血がついた手を洗いすぎて乾燥した手のひらに、たっぷりハンドクリームを塗ってヌルヌルしているからだ。


 親友は沈黙している。私は肩と頬の間にスマホを挟んで、キッチンペーパーで手を拭いた。そして足元にある夫の手のひらを見つめる。

 この男は人生で一度もハンドクリームを欲したことがないだろう。手が乾燥するような仕事をしたことないんだから。


 ――――だから言ったのに、どうして殺すの。別れればよかったのに。DV男を訴えようと何度も言ったのに、どうしてそうなるの――――


 親友は言って泣いた。


「犬、病気の犬を最後まで看取った。動物病院でもう治らないから安楽死させた方がいいと言った医者に、私は怒鳴ったの。最後まで面倒見るって。あれとは違う、犬には愛情があった。あったのは責任ね。このクズ男を結婚という形で引き取ってしまったことよ」


 ――――訳がわからない。犬と夫はまったく別の話よ――――


「そうね。病気の犬の方がよっぽどマシ。わかるでしょ、私ってどんな面倒なことも一度引き受けたらなんとかしようとしてしまう性分だった」


 ――――で、もうさすがに嫌になったから殺したの?――――


「いいえ、それもまた違うわ。これも最悪の形だけど責任よ。武士が切腹するようなものかもね。こいつをもう生かしておいたら社会の迷惑だ、そう思ったのよね、心から。あのね、灰皿にされたのよ。パンのシールをせっせと集めてようやくもらったパンの皿。まだ一度も使ってないそれを灰皿にされたから、私は怒鳴った。そう、あのクソ上司がその日、私に『子供まだなの、旦那様と夜の方は?』って言ったの。気分悪く帰って来たら、白いお皿に汚い吸い殻。私は寝てた夫を蹴って、とにかく罵声を浴びた」


 私は一気呵成に言ってから、冷たい烏龍茶を飲む。


「そしたら、皿ぐらいなんだって怒鳴られて、皿を割られたの。ごめんなさいの一言も言えない。割れた皿と散らばった灰を見たときに、もう限界に達したのね。で、すぐキッチンから包丁を持ってきて刺した。正確に腹、胸、首。我ながら鮮やかな手際だった。映画のワンシーンぐらい鮮やか」


 一枚の皿、シールを集めないともらえない皿が私を覚醒させた。男に殴られ服従していた従順な女をやめるきっかけをくれた。


 私は、素早く急所を包丁で刺せる、凶悪な女だった。


「殺してよかったわ。私は夫を殺してから、頭が本当にスッキリしたのよね。今までどうして自分が生きづらいのかわかったの。ハイヒール穿かされて穴ぼこだらけの道を歩くのが当然だと思ってた、違った。そういう難しくて器用な生き方を女は求められるけど、間違いなんだよね」


 ――――間違っているのは、男よ。面倒なことは女に任せておけばいいと思っている――――


 親友はもう泣き声ではなく、涼やかな声だった。


「それ、ほんとそれ。それでね、私はこれから逃亡する。貯金もあるし、しばらくは逃げる。そして私の行きたいタイミングで自首するわ。私が夫を殺して逃亡していることがたくさんたくさん報道されてね、私にセクハラをしていたクソ上司が『あんな女のケツを触っていたとは』と怯える顔をまず見たい。そうして男たちに知らせるのよ、女はあんたらの下じゃない。自分につき従う女が巨悪に変貌する、とね」


 私はクスクスと笑った。


 ――――あんた、ほんと、超クールに戻ったじゃん。あんな男と結婚してあんたダサくなってたけど、やっぱあんた超クールだわ。あのさ、縁は切らない。あんたが刑務所に入ってるの見たいもん、面会してみたいもん。あのアクリルごしにエモいこと話そうよ――――


 友人が笑う。

 私も笑った。

 じゃあ、次は刑務所の面会室で会おうと約束する。


 私は床に血で「男たち思い知れ」と書いた。


 私は夫に売られないよう隠していた、結婚前に買ったブランド物をクローゼットの奥から出す。私は短期間だけキャバクラで働いていたことがある。その時に客からもらったヴィトンのバッグや、自分で買ったマックスマーラのストンとしたグレーのワンピース、ルブタンのハイヒール、ドルガバのサングラス。


 それらを身につけて、私はデパートのコスメを買って、美容室で髪を金髪に染めて、闊歩して逃亡した。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

男たちに知らせてよ なつのあゆみ @natunoayumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ