第17話
港町アクアフォールは、かつての美しい面影を残していた。
海に面した丘に白亜の城がそびえ、麓には赤レンガの屋根が連なる。
しかし、その活気は失われていた。
港に停泊する船は少なく、市場も閑散としている。海の色もよどんだ鉛色に見えた。
私たちは町の中心にそびえるアクアフォール城へと馬を進めた。
城は堅牢な石造りで、長い歴史を感じさせる威厳がある。だが、城壁に絡まる蔦は枯れ、手入れされているはずの庭園の木々も元気がない。
城の巨大な門をくぐると、大勢の家臣たちが出迎えた。
その中心に立つ一人の老人が、鋭い鷲のような目で私たちを睨みつけている。
年は七十歳を超えているだろうか。
豊かな白髪と見事に整えられた白髭。豪華な衣服は彼の身分の高さを物語っていた。
この人物こそ、ヴァロワ公爵、ゲオルグ・フォン・ヴァロワその人だった。
隣には、三十代半ばほどの精悍な顔つきをした騎士が控えている。おそらく息子だろう。
「これはこれは、アルフォンス王太子殿下。わざわざこのような辺境の地までご足労いただき恐縮の至りですな」
ヴァロワ公爵の声は年齢を感じさせないほど張りがあり、言葉には露骨な皮肉が込められていた。
「一体、何の御用ですかな。中央の若き獅子殿が、我らのような田舎の老いぼれに何かご教授でもしてくださるのか」
その無礼な態度に、アルフォンス王子の眉がぴくりと動いた。
「公爵、久しいな。息災そうで何よりだ。本日は他でもない。この地に広がる呪いを解くために、天が遣わされた聖女様をお連れした」
アルフォンス王子は公爵の挑発に乗らず、堂々とした態度で私を紹介する。
ヴァロワ公爵の鷲のような目が、私を上から下まで値踏みするように見た。
「ほう。聖女、とな。噂は聞いておる。だが、そのようなおとぎ話、この老いぼれが信じるとでもお思いか」
公爵は、ふん、と鼻で笑った。
「王家は、聖女などという都合の良い偶像を担ぎ出し、我が領の内政に干渉するおつもりと見える。見え透いておりますぞ、殿下」
「父上のおっしゃる通りです。我々ヴァロワの民は、王家の助けなどなくとも、自らの力でこの苦難を乗り越えてみせます。余計なご心配は無用」
隣に立つ息子も父に同調した。
彼らの態度は想像以上に頑なだった。
「貴様ら……! 聖女様に対して、あまりに無礼であろう!」
カインさんが、怒りに震える声で剣の柄に手をかける。
しかし、私はそっと彼の腕を制した。
「お待ちください、カインさん」
私は一歩前に出ると、ヴァロワ公爵の目をまっすぐに見つめ返した。
「公爵様。あなた様が私のことを信じられないのも無理はありません。ですが、この土地が深く嘆き、苦しんでいるのを私は肌で感じます。人々の悲しみの声が、私には聞こえるのです」
私の言葉に、公爵の眉がわずかに動いた。
「どうか、私にその力を示す機会をいただけませんか。もし私の力が偽りであったなら、その時は、いかなる罰でもお受けいたします」
私の静かな、しかし揺るぎない覚悟。
ヴァロワ公爵はしばらく黙って私を見つめていた。その鋭い目が、私の魂の奥底まで見透かそうとしているようだ。
やがて、彼はにやりと口の端を吊り上げた。
「面白い。面白いことを言う小娘だ。そこまで言うのなら、試してやろうではないか」
公爵はそう言うと、私たちに背を向け城の裏手へと歩き始めた。
「ついてこい。お前の力が本物かどうか、このわしの目で見定めてやる」
私たちは、公爵の後についていった。
彼が私たちを案内したのは、城の裏手に広がる鬱蒼とした森の中だった。
その中心に、ぽっかりと開けた場所がある。
そこには、かつては美しい泉だったであろう場所があった。
しかし、今は見るも無残な状態だ。
泉は黒く濁り、ヘドロが溜まって腐った卵のような悪臭を放っている。
泉の周囲の木々はすべて黒く枯れ果て、地面はひび割れていた。
まさに、死の光景だった。
「ここは『嘆きの泉』。我が領地のすべての水源であり、生命線であった場所だ」
公爵が、苦々しげに言う。
「だが、半年前からこのありさまだ。領内でも最高の腕を持つ神官や魔道士たちが、こぞって浄化を試みたが、誰一人として成功しなかった。むしろ、浄化を試みた者は、皆、原因不明の病に倒れた」
その言葉は脅しでもあった。
生半可な力で手を出せば、ただでは済まない、と。
「小娘。もし、お前がこの泉を元の清らかな姿に戻すことができたなら、聖女と認め、王家の要請に全面的に協力しよう」
公爵の目が鋭く光る。
「だが、もしできなかった場合は……。王家を騙った大罪人として、この場でその首を刎ねる。覚悟は、できておるな?」
あまりに過酷な条件。
アルフォンス王子とカインさんが、血相を変えて前に出た。
「お待ちください、公爵! あまりに危険すぎます!」
「リナ様! お受けになる必要はありません!」
しかし、私は静かに首を横に振った。
そして、ヴァロワ公爵に向かって、はっきりと答える。
「承知いたしました。お任せください」
私の返事に、公爵親子は少し驚いたような顔をした。
私は一人、泉のほとりへと歩み寄る。
足元から、ぞっとするような冷たい気が立ち上ってきた。
目を閉じると、泉の底から深い悲しみと激しい怒りの声が聞こえてくる。
これは、ただの呪いじゃない。
嘆きの谷で感じたものよりも、さらに強力な『闇』の力がこの泉の底から直接溢れ出している。
私は、静かに息を吸い込んだ。
そして、今までにないほどの強大な力を全身にみなぎらせる。
私の髪が金色の光を放って、ふわりと宙に浮いた。
両手を、黒く濁った泉の水面にかざす。
「還りなさい。あなたたちがいるべき、闇の底へ」
私の声と共に、手のひらから眩いほどの金色の光が巨大な奔流となって泉へと注ぎ込まれた。
ゴボゴボゴボッ!
泉の水が激しく沸騰し、黒い水蒸気が立ち上る。
水面が大きく盛り上がり、中から何か巨大な黒い影が姿を現そうとした。
それは無数の触手を持つ、おぞましい化け物のような姿だった。
『オオオオオオオオッ!』
化け物が、鼓膜を破るような断末魔の叫びを上げる。
しかし、私の放つ聖なる光はその存在を許さない。
金色の光が、黒い影を焼き尽くしていく。
じゅううう、と肉の焼けるような音と不快な臭いが立ち込めた。
黒い影は、あっという間に光の中に掻き消されていく。
そして、奇跡が起きた。
黒く濁っていた泉の水が、みるみるうちに浄化され水晶のように透き通っていく。
泉の底から、こんこんと清らかな新しい水が湧き上がり始めた。
奇跡は、それだけでは終わらない。
浄化された水が川となって枯れた大地を潤していく。
水が触れた場所から次々と緑が蘇り、枯れ木には美しい花が咲き乱れた。
死んでいたはずの森が、生命の喜びに満ちた楽園へと生まれ変わっていく。
「……ば、かな……」
ヴァロワ公爵が、呆然と呟いた。
彼の息子も、家臣たちも、目の前で起きた奇跡を信じられないといった表情でただ立ち尽くしている。
ヴァロワ公爵は、震える足でゆっくりと泉へと近づいた。
そして、その清らかな水を両手でそっとすくい上げる。
その水からは、温かく優しい生命の力が感じられた。
次の瞬間。
あの頑固で威厳に満ちた老人が、私の前に崩れるように跪いた。
「……おお……。まことの、聖女様であらせられたか……!」
その声は、深い感動と畏敬の念に打ち震えていた。
「この老いぼれの、長年の不明……! 万死に値いたします……! どうか、この無礼、お許しくださいませ……!」
公爵は、地面に額をこすりつけんばかりに深々と頭を下げた。
彼の息子も、慌てて父の隣に跪き同じように頭を下げる。
私の力が、最も疑り深かった者の心を完全に打ち砕いた瞬間だった。
泉を浄化した、その時。
私の脳裏に、一瞬だけ奇妙な光景が映し出された。
薄暗い、古代の遺跡のような場所。
その中央にある祭壇の上には、嘆きの谷で見たものと同じ巨大な黒い水晶が安置されている。
そして、その水晶を取り囲むように黒いフードを被った何人かの人影が、何かの儀式を行っていた。
フードの一つに描かれた紋章。
それは、エリアスさんから聞いた、『日蝕の御子ら』の紋章とまったく同じだった。
「……今のは……?」
私の呟きに、エリアスさんが鋭く反応した。
彼はすぐに私のそばへ来ると、心配そうに私の顔を覗き込む。
「どうかなさいましたか、リナ様? 何か見えたのですか?」
私は、今見たばかりのビジョンについて仲間たちに話した。
私の話を聞いたエリアスさんの表情が、険しいものに変わる。
「やはり、そうでしたか。この土地に、彼らの拠点があるのは間違いないようです。そして、あの『呪いの晶石』。あれこそが、この土地の呪いの元凶。泉は、ただの通り道に過ぎなかったのです」
彼の言葉を、跪いていたヴァロワ公爵が、はっとしたように顔を上げて聞いていた。
「呪いの晶石……? まさか……。その話は、この地の南に広がる『禁忌の森』のことでは……?」
公爵の声が震えている。
「その森の奥深くには、我らヴァロワの一族が代々守り続けてきた古代の遺跡と、そこに封印されし『何か』があると伝えられております。父祖より、決して近づいてはならぬと……」
話が、ついに核心へと近づいていく。
「公爵様。その遺跡の場所を、教えていただけますか」
私の問いに、公爵は迷うことなく頷いた。
「もちろんです、聖女様! この城の書庫に、一族に伝わる古い地図が保管されております。そちらへ、ご案内いたします!」
私たちは、ヴァロワ公爵に導かれ、城の書庫へと向かった。
そこは、天井まで届く本棚にびっしりと古い書物が並べられた、広大な部屋だった。
公爵は厳重に鍵をかけられた棚の中から、一枚の古びた羊皮紙を取り出す。
それは、このヴァロワ公爵領の詳細な地図だった。
「これが、我が家に伝わる『封印の地図』にございます」
公爵が地図を大きなテーブルの上に広げた。
私たちは、その地図を囲むように集まる。
地図には、私たちが今いるアクアフォール城から南へ向かって、広大な森が描かれていた。
その森の中心部に、赤いインクで一つの印がつけられている。
「ここが、『禁忌の森』の奥にある、古代遺跡の入り口です」
公爵が、震える指でその場所を指し示した。
私たちの視線が、地図上の一点に集中する。
エリアスさんが、その印の周りに描かれた古代文字に気づいた。
「これは……! 神代文字で、『太陽の祭壇』と書かれています。太陽……日蝕と、何か関係があるのかもしれません」
彼の言葉に、私たちの間に緊張が走る。
アルフォンス王子が、決意を込めた声で言った。
「決まりだな。我々の次の目的地は、その『太陽の祭壇』だ」
カインさんも、力強く頷く。
私も、静かに頷いた。
『日蝕の御子ら』。そして、大地の呪いの元凶である『呪いの晶石』。
すべての謎を解く鍵が、その場所にある。
これから始まるであろう戦いを前に、私は気を引き締めた。
公爵は、地図の隣に置かれていた古い木箱をそっと開けた。
中には、美しい装飾が施された一本の銀色の鍵が納められている。
「これは、その遺跡の扉を開けるための鍵だと伝えられております。聖女様、どうかこれをお持ちください」
彼は、その鍵を恭しく私に差し出した。
私がその鍵を受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間だった。
城全体が、ごごご、と不気味な音を立てて大きく揺れた。
「な、何だ!?」
「地震か!?」
書庫の本棚から、何冊もの本が床に落ちる。
私たちは、咄嗟に身構えた。
揺れが収まった直後、一人の兵士が血相を変えて書庫へと駆け込んできた。
「申し上げます! 港に……! 港に、所属不明の巨大な黒い船団が現れました! その数、およそ三十隻! 船には、不気味な紋章が掲げられております!」
兵士が差し出した伝令の羊皮紙。
そこに描かれていた紋章を見て、私たちは息をのんだ。
それは、黒い太陽が月を喰らう、『日蝕』の紋章だった。
エリアスさんが、忌々しげに吐き捨てる。
「……どうやら、向こうからご挨拶に来てくれたようですな」
アルフォンス王子が、窓の外に広がる港の方角を睨みつけた。
その瞳には、王族としての怒りの炎が燃え盛っている。
「面白い。聖女様の力を前に、どこまでやれるか見せてもらおうか。全員、戦闘準備だ!」
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会社をクビになった私、花魔法Lv.MAXの聖女になりました。旅先で出会うイケメンたちが過保護すぎて困ります ☆ほしい @patvessel
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