第16話

私たちは王都を出発した。

国王陛下から直接命を受け、南方のヴァロワ公爵領へ向かう旅だ。


用意された馬車には王家の紋章が輝いていた。

祝賀会の時に見たものとは違う。長旅に耐えられる頑丈な作りだが、内装はどんな高級車よりも快適だった。


「リナ様、寒くはありませんか。こちらの膝掛けを」

「いえ、アルフォンス殿下。こちらの毛皮の方が保温性に優れています。どうぞ」

「二人とも、ありがとう。でも、本当に大丈夫ですから」


馬車の中では、早速アルフォンス王子とカインさんによる過保護合戦が始まっている。

エリアスさんはそんな二人を面白そうに眺め、手にした古い書物のページをめくっていた。


護衛にはカインさんが信頼を置く騎士団の精鋭が十名ほど同行している。

彼らは馬車の周囲を固め、一切の油断なく警戒にあたっていた。


「それにしても、ヴァロワ公爵ですか。一筋縄ではいかない相手だと聞いていますよ」

エリアスさんが書物から顔を上げて言った。


「ああ。祖父の代から続く、頑固者の一族だ。王家に対しても常に批判的で、中央のやり方を快く思っていない。父上も常々、頭を悩ませておられる」

アルフォンス王子が苦々しげに答える。


「そのような場所に、リナ様お一人を行かせるわけにはいかない。俺が同行するのは当然のことだ」

「ですが、そのヴァロワ公爵家は五百年前の『闇』との戦いで、当時の聖女と共に戦った一族の末裔だという記録もあります。あるいは、我々が知らない何かを伝承しているのかもしれません」

エリアスさんの言葉に、私たちは顔を見合わせた。

ただの頑固な地方貴族というわけではなさそうだ。


「いずれにせよ、まずは会ってみなければ始まりませんね」

私の言葉に、三人は静かに頷いた。


旅は順調に進んだ。

道中でいくつかの村を通り過ぎたが、王都から離れるにつれて大地の活気が失われていくのを感じる。

道端の草花の色は薄れ、畑の作物もどこか元気がない。


「聖女様、どうか我々の村にもお恵みを!」

ある村を通りかかった時、道端で村人たちが懇願するように跪いていた。

彼らの村では、もう何か月も井戸の水が濁ったままだという。


私は馬車を止めてもらい、村の中央にある井戸へ向かった。

アルフォンス王子たちは心配そうにしていたが、私を止めはしなかった。


「大丈夫です。少し、この井戸と話してきますから」

私はそう言うと、濁りきった井戸の縁にそっと手を触れた。

ほんの少し力を込めると、濁っていた水は見る見るうちに清らかさを取り戻していく。


村人たちの歓声が空に響き渡った。

「おお……! 聖女様、ありがとうございます!」


私はにっこりと微笑んで、馬車へ戻った。

護衛の騎士たちが、畏敬の念を込めた眼差しを私に向けている。

「リナ様は、本当に慈悲深い御方だ」

「ああ。我々は歴史の生き証人になっているのかもしれんぞ」

「聖女様をお守りするためなら、この命、惜しくはない」

そんな彼らの声が聞こえてきて、少し気恥ずかしくなった。

私はただ、困っている人を見過ごせないだけだ。


野営の夜は穏やかに過ぎていった。

騎士たちが手際よく準備を整え、私たちは焚き火を囲んで食事をとる。

王宮の料理人が用意してくれた保存食も美味しかったが、私は花魔法で採れたての野菜や果物を実らせた。


「これは……! なんと瑞々しいトマトだ!」

「このパンも、聖女様が魔法で育てた小麦で作られているのか……! 味わいが違う!」

騎士たちが子供のようにはしゃぎながら、食事を楽しんでいる。

その光景を見ていると、私の心も温かくなった。


「リナ様、夜は冷えます。こちらの温かい薬草茶をどうぞ」

「いや、リナ様。こちらのスープの方が体が温まる」

アルフォンス王子とカインさんは、食事の時でさえ私を巡って火花を散らしている。

そのやり取りにも、もうすっかり慣れてしまった。


エリアスさんはそんな私たちを眺めながら、南の地方にしか咲かないという珍しい薬草の話を熱心にしてくれた。


旅を始めて五日が過ぎた。

私たちはついに、ヴァロワ公爵領の境界を示す大きな石碑の前にたどり着いた。


領地へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

ひんやりとした、生命力の薄い空気だ。

王都周辺の豊かな大地とは、明らかに違う気配が漂っている。

道沿いの村は活気を失い、家々の窓は固く閉ざされていた。

畑は放置され、雑草が生い茂っている。すれ違う領民たちの顔には、深い疲労と諦めの色が浮かんでいた。


やがて、街道に設けられた検問所にたどり着く。

厳めしい鎧に身を包んだ兵士たちが、槍を交差させて私たちの行く手を阻んだ。

「止まれ! 何者だ!」


護衛の騎士が前に出て、王家の紋章が刻まれた旗を示す。

「我々はアルフォンス王太子殿下の護衛である! 道を開けよ!」

しかし、兵士たちの態度は変わらない。

その目は王家の紋章を見ても、一切揺るがなかった。


「王太子殿下のご訪問とは、いかなるご用件か。我々はヴァロワ公爵閣下より、いかなる者も通すなとの命を受けている。たとえ王太子殿下であろうとも、例外ではない」

その頑なな態度に、アルフォンス王子が苛立ったように馬車の窓から顔を出した。

「無礼者! 私が誰だか分かっておるのか!」

「もちろんです。ですが、これは公爵閣下のご命令。我々にはどうすることもできません」

兵士たちは一歩も引かない。

ヴァロワ公爵が、いかに王家へ反抗的かよく分かった。


このままでは、埒が明かない。

私はそっと馬車を降り、兵士たちの前に進み出た。

カインさんが慌てて私の隣に立つ。

「お待ちください、リナ様!」

私は彼を手で制すると、兵士たちに静かに微笑みかけた。


「こんにちは。私はリナと申します。あなたたちの土地を苦しめている呪いを解くために、王都から参りました」

私の体から、温かく清らかなオーラが自然と放たれる。

兵士たちはその気配に、はっとしたように息をのんだ。


私が一歩足を踏み出すと、乾いた地面から可愛らしい白い花がぽつりと咲いた。

さらに一歩踏み出すと、また別の色の花が咲く。

私が歩いた後には、ささやかな花の道ができていた。


「な……!?」

「花が……何もない地面から……!」

兵士たちは目の前の光景が信じられないといった表情で固まっている。

その目にあった敵意と警戒心は、純粋な驚きと畏怖へと変わっていった。


「……ま、まさか……。あなたが、噂の……聖女様……?」

兵士の一人が、震える声で呟いた。

どうやら、私の噂はこんな辺境の地まで届いているらしい。


「どうか、私たちを通してはいただけませんか。私は、あなたたちの公爵様とお話ししに来たのです。この土地を救うために」

私の真摯な言葉と、目の前の奇跡。

兵士たちは顔を見合わせ、やがて深々と頭を下げた。


「……失礼いたしました、聖女様! すぐに公爵閣下へ使者を送ります! どうか、近くの宿場町にてお待ちいただけますでしょうか!」

彼らの態度は百八十度変わっていた。

アルフォンス王子が、呆気にとられた顔でその様子を見ている。


私たちは兵士に案内され、検問所からほど近い宿場町で待つことになった。

その宿場町もひどいありさまだった。

道端には病に苦しむ人々が力なく座り込み、町全体が暗い絶望の空気に包まれている。


私は、黙って見ていることなどできなかった。

すぐに町の広場にある、濁りきった井戸へと向かう。

そして、その水を一瞬で浄化してみせた。

さらに、町の子供たちが使っていたという小さな畑を、豊かな実りをもたらす菜園へと生まれ変わらせた。


町の人々は、最初は何が起きたのか分からない様子だった。

しかし、清らかな水とみずみずしい野菜を目の当たりにして、やがて歓喜の声を上げる。

「水が! 水が飲めるぞ!」

「見てくれ! こんなに立派なカボチャが!」

「聖女様だ! 我々の町に、救いの女神様が来てくださったんだ!」


町はあっという間にお祭りのような騒ぎになった。

人々の顔から絶望の色が消え、希望の光が宿っていく。

その光景が、私にとって何よりの報酬だった。


「……リナ様。君は、本当に……」

アルフォンス王子が、感動を込めた眼差しで私を見つめている。

カインさんは、どこか誇らしげに胸を張っていた。


私たちの起こした奇跡の噂は、風よりも速く公爵領を駆け巡った。

ヴァロワ公爵からの使者が町に到着した頃には、領民たちの間で「聖女様待望論」が巻き起こっていた。


使者は、ヴァロワ公爵が私たちを居城に招くと告げた。

その態度は恭しかったが、どこかまだ私たちを試すような響きが含まれている。


「ふん。ようやく、話を聞く気になったか。だが、油断は禁物だ」

アルフォンス王子が、気を引き締めるように言った。

私たちは、公爵の待つ港町『アクアフォール』へと馬車を進めた。

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