第10話 交差する二本の秤
厚い扉が、軋みを上げながらゆっくりと開いていった。
押し出される瞬間、内部に淀んでいた空気が外へと吐き出される。
湿った木材の匂いに混じって、葡萄酒の甘ったるい残り香、油を吸い込んだ羊皮紙の匂い、そしてどこか金属が錆びたような苦い気配が鼻腔をかすめた。
一歩、足を踏み入れる。
広がったのは、石と影で満たされた玄関広間だった。
床には灰白色の大理石が敷き詰められ、燭台の淡い炎がその表面に鈍い光を散らす。
高い天井を支える梁には、鳥や獣、葡萄の蔓を象った精緻な彫り物が施されていた。だがそこに宿るのは祝祭や豊穣の気配ではない。長きにわたる支配の象徴、力の誇示が染み込んでいるのだった。
奥の壁に掲げられた紋章が、すべてを物語っていた。
交差する二本の秤、その下に刻まれた金貨の意匠。
――富と権力をこの街において独占する者たちの印。
リアナは小さく肩をすくめ、アレンの背に身を寄せるようにして周囲を見渡した。
重厚なテーブルの列。その背後に並ぶのは、絹や毛皮に身を包んだ男たち。商人組合の幹部である。
彼らの指は太く、腹は肉と酒で膨れ、顔は朱に染まっていた。
だが、その目だけは濁っていなかった。
数多の取引で金を握り、時に命さえ秤にかけ、街を思うがままに支配してきた者たちの目。欲望に曇りながらも、計算と恐怖を読み取る光だけは鋭く生きている。
広間の中央には、ひときわ大きな椅子が据えられていた。
そこに腰を掛けるのは、白髭を蓄えた老商人。
この組合を統べ、都市の均衡を握る男――組合長だった。
老商人の手には杯があった。葡萄酒をわずかに揺らし、赤紫の液面に灯火を映し込む。
その視線は、広間へと歩を進めるアレンにまっすぐ向けられている。
「……来たか。闇医者」
低く乾いた声が、石造りの広間に響く。
それだけで空気の密度が一段と増し、燭台の炎さえ細く息をひそめたように感じられた。
アレンは応じなかった。
ただ歩みを止めず、広間の中央へと進んでいく。
灰色の瞳は周囲の誰にも怯むことなく、ただ正面を射抜いていた。
組合員たちの間に、ざわりと小さな波が走る。
これまで影の中で噂されるだけだった存在が、今ここに実体を帯びて姿を現したのだ。
虚飾も誇張もなく、ただ「揺るがぬもの」として。
リアナはその背を追いながら、胸の奥が強く締めつけられるのを感じていた。
この場に立つこと自体が、既に死地へ踏み込む行為に他ならないと、彼女にはわかっていた。
老商人はゆるやかに杯を口へ運び、ひと口含んでから静かに置いた。
その仕草には一分の乱れもなく、長年にわたり権力を握ってきた者の余裕がにじんでいた。
「昨夜、我が組合の者を打ち据えたそうだな」
低い声が石壁に反響し、広間を覆う。
「噂かと思ったが……こうして自ら現れた以上、真であると認めてよいのだろう」
アレンは静かに答えた。
「……事実だ」
低く乾いた声。
そこには怒りも畏れもなく、ただ確固たる断言だけがあった。
幹部の一人が立ち上がり、声を荒げる。
「ふざけるな! この街に秩序をもたらしているのが誰かわかっているのか! 組合を敵に回すということは――」
「秩序……?」
アレンはその言葉を繰り返し、口の端をわずかに吊り上げた。
それは嘲笑でも怒りでもない。ただ、診察結果を淡々と伝える医者の笑みに似ていた。
「……病んでいるのは、どちらだろうな」
言葉が落ちた瞬間、広間に重い沈黙が走った。
燭台の炎が一度だけ揺れ、壁に映る影が歪む。
そのわずかな揺らぎが、広間全体の空気を震わせたように思えた。
リアナは息を詰めた。
彼女には理解できていた。
――ここからが始まりだ、と。
アレンは組合の権力者たちの前に立ち、自らの存在を突きつける準備を整えていた。
静かな灰色の瞳には、恐怖も迷いもなかった。
そしてその瞬間、この都市の均衡はわずかに軋み、未来へと続く音なき亀裂が走り始めていた。
異世界に転生したので、闇医者稼業を始めます。 じゃがマヨ @4963251
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