第十章:記憶の器、血管の道

第二十八話:魂の器、葛藤の始まり

* * 前話のあらすじ * *


 匿都ナクトの心臓部【高天原核融合炉たかまがはらかくゆうごうろ】は、二人の天才の共鳴によりついに脈動を始めた。一方、未来の物流大動脈【蟠龍ばんりゅう】計画の現場では、MIYABIの予測すら困難な「断層帯」が牙を剥く。匠の『八咫の岩戸やたのいわと』技術と黒田の『現実』の施工が融合し、ついに匿都の『血管』が貫通した。


* * *


 西暦2035年、春。

 プロトタイプ匿都ナクト【猪名野モデル】の管制室。その「MIYABIの聖域」と呼ばれる中枢で、AIは一つの非合理なエラーを検出し続けていた。


『警告:操縦者コードM-01、森野 葉月もりの はづき。バイタルに異常なストレス反応を継続検知。作業効率、規定値を35.4%下回る状態が72時間を超過』


 MIYABIの論理回路にとって、それは理解し難い「バグ」だった。

「大地の回生計画」――地上の老朽建築物を解体し、資源として再利用する、匿都建設と並行して進む国家プロジェクト。その最前線で稼働する環境再生用【かすみめぐみ】のリーダー機が、明確な機材トラブルも、身体的な異常もないまま、タスクの遅延を発生させ続けている。


 MIYABIが投影するグラフには、彼女のコルチゾール値(ストレスホルモン)の異常な上昇と、作業開始シークエンスにおける腕部(マニピュレーター)への運動指令の微細な躊躇が、相関関係をもって示されていた。


 一人の人間の「心の痛み」。

 その、あまりにも非合理なデータが、国家プロジェクトの「工期」という合理的なシステム全体を、静かに脅かし始めていた。


 ネットワークの深海。戦略AI【プロメテウス】もまた、この興味深い「感情(バグ)」によるプロジェクト遅延を、冷徹に観測していた。



 その日、現場は春霞はるがすみに包まれていた。

「大地の回生計画」D-12地区。緩やかな丘の上に立つ、廃校となった小学校。その校庭を囲むように植えられた桜並木が、まるで過ぎ去った日々を惜しむかのように、淡い桃色の花びらを静かに散らしていた。


 若草色わかくさいろの機体が、その桜の下に静かにたたずむ。

 環境再生用【霞・恵】(PA-01 YATA-RG)。鹿や羚羊かもしかのような、しなやかで軽量なシルエット。そのマニピュレーターは、植物を傷つけないよう、人間の指以上に繊細な動きを可能とする、「育む」ためだけに設計された鎧。


 だが今、その繊細な指先が向けられているのは、子供たちの「記憶の器」である、古い木造校舎だった。


 森野 葉月もりの はづきは、【真経津硝子まふつしょうし】越しに、校舎の壁に残る色褪いろあせた寄せ書きを見ていた。


『先生、ありがとう』

『ずっと忘れないよ』


 無邪気な筆跡が、彼女の心をナイフのようにえぐる。


「ごめんね……ごめんね……」


 彼女が纏う【天衣あまごろも】は、その罪悪感による心拍の乱れと、指先(マニピュレーター)へ送られる運動指令の微細な震えを、正確に読み取っていた。


「育む」ための鎧で、「記憶」を破壊する。


 この道具のジレンマが、彼女の手を完全に止めてしまっていた。彼女は、自らが信じる「正しさ」と、自らが行う「行為」の間で引き裂かれ、動けなくなっていた。



「大地の回生計画」は、地上の自然回帰という理想と同時に、匿都建設のためのコンクリートや鉄骨といった資源を確保(リサイクル)するという、極めて現実的な経済的側面を併せ持っていた。

 葉月の作業遅延は、即座に「資源調達の遅延」として、匿都ナクト建設本部の工期管理モニターに、赤色の警告として表示される。


 現場に設営された仮設事務所のプレハブ。その無機質な壁に投影された工期警告モニターを、岩のような巨躯きょくの男が、腕を組んでにらみつけていた。

 匿都建設チーム【いしずえ】現場総監督、黒田 剛くろだ ごう


 彼にとっての正義は、ただ一つ。「工期絶対」。

 国家の未来をけたこのプロジェクトを、一秒たりとも遅らせるわけにはいかない。それが、現場の現実(リアル)を知る者としての、彼の揺るぎない「壁」だった。


 葉月の「記憶こころの価値」というプライスレスな葛藤と、黒田が背負う「工期・予算(コスト)」という現実的な正義。

 二つの決して交わらない価値尺度が、この桜舞う現場で、静かに火花を散らし始めていた。



「森野リーダー。これは感傷に浸るピクニックじゃないぞ」


 ついに、黒田 剛が自ら現場(廃校)に乗り込んできた。

 降り始めた冷たい春の雨が、プレハブの屋根を叩く。その仮設事務所の中で、葉月は、黒田の圧倒的な「圧」の前に、うつむくことしかできなかった。


「お前の『心の痛み』とやらで、国家プロジェクト全体の工期がどれだけ圧迫されているか、分かっているのか」


 黒田の言葉は、正論であり、現実だった。


 その、緊迫したやり取りを、三木の工房から、藤林 匠ふじばやし たくみがホログラム通信越しに見つめていた。

 MIYABIが、彼の脇のモニターに、黒田のバイタル(「怒り」によるアドレナリン上昇)と、葉月のバイタル(「悲痛」によるコルチゾール値の急上昇)を、無機質に並べて表示している。


(黒田さんの言うことも、分かる。だが……)


 自らの思想「守るべきは人の心」を、まさに今、命懸けで体現しようと苦しむ葉月の姿。

 そして、国家プロジェクトの「工期」という現実を守ろうとする黒田の正義。

 匠は、その二つの「正しさ」の板挟みとなり、有効な解決策を示せないまま、ただ苦悩していた。


 葉月の内面的な葛藤は、黒田の介入によって、もはや彼女一人の問題ではなく、プロジェクト全体を巻き込む「工期遅延」という、公の対立へと、その姿を変えようとしていた。


* * 次話の予告 * *


 ついに全線貫通した匿都の『血管』【蟠龍】。だが、器が完成しただけでは意味がない。匠と黒田が見守る中、地下の暗闇に『血液』を通わせるべく、MIYABIの管制下で『電磁軌道』の敷設が急ピッチで進められる。果たして、未来へのレールは無事敷かれ、試験運転の時を迎えることができるのか。


 第二十九話:貫通、未来へのレール

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外伝集『逆鎖国、始まります。』全国民サムライ装備で世界は攻められなくなりました タコライス @Taco_Rice

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