第七話:理想
見慣れないリビングに一人。ただ時間を潰すために、意味もなくスマホの画面をスクロールする。どういうわけか、最近のタイムラインは子猫の動画で溢れていた。今回は、灰色の毛をした子猫が、生の肉片を不器用に食べようと奮闘している。可愛いけど、なぜか集中できない。
私、ここで何してるんだろう。
ちょっと外に出させてもらおうかな。近くの公園で待つとか?
そんな考えが頭をよぎった、ちょうどその時、彼女がリビングに戻ってきた。許可をもらおうと口を開きかけたが、私の意図を打ち砕くような質問を、彼女が先に投げかけてきた。
「ここまで、どのくらいかかったの?」
「三時間、ちょっとです」
「ごめんなさいね。疲れたでしょう。さっきはまだ、片付けないといけないことがあって」申し訳なさそうな声で彼女は言った。コーヒーテーブルの上の雑誌を数冊整えながら話し、それから私の向かいのソファに腰を下ろした。
「いえ、謝るのは私のほうです。突然お邪魔してしまって」
気まずい沈黙が、私たちの間に流れる。私のこの硬い口調が、すべてを物語ってしまっているのかもしれない。
「記憶の再体験のことなんだけど……それって、どういうものなのかしら。おばさん、少し調べてみたんだけど、まだよく分からなくて」彼女はそう続けた。その微笑みは、この場の空気を和ませようとする、心からの努力のように感じられた。そして、それは成功した。少なくとも、私の存在は歓迎されてはいないかもしれないけど、憎まれてはいない、と分かったから。
これからは、できるだけ迷惑をかけないようにしよう。これは私の都合なんだから、せめてこの数日間は、何かプラスになるような存在でいなければ。
「細胞の若返り治療の副作用なんです、おばさん。今までの私を形作ってきた大事な記憶を、もう一度体験し直さないといけなくて。そうしないと、その記憶が永遠に消えちゃうかもしれないんです。細かいことはたくさん忘れちゃうんですけど、一番大事なものだけでも、残せるようにって」
彼女は少し俯き、視線をテーブルに落とした。「そんな治療を受けなくちゃいけないなんて……どんな病気だったの?」
「肺がんでした。一時期は、病室から一歩も出られないくらい、結構ひどかったんです」もう同情される必要のない過去の話だよ、とでも言うように、私は少し笑いながら答えた。
それから、私たちの会話は少しずつ弾むようになった。彼女は私の健康を気遣い、治療がうまくいくことを祈っていると言ってくれた。
それから間もなく、玄関のドアが開く音と、それに続く元気な小さな足音が聞こえてきた。
「ただいまー!」
その声を聞いて、今や「おばさん」と呼ぶことにした彼女は、すぐに立ち上がった。「あ、直樹が帰ってきたわ。ちょっと待っててね」
彼女はソファを立つと、すぐに男の子の手を引いて戻ってきた。彼が着ている水色の幼稚園の制服は、少し大きく見える。
この子が……私の弟、ってこと?え?二人いるって言ってたから、もっと小さい子もいるのかな?
目が合うと、その子の顔つきが真剣なものに変わった。彼は部屋の隅にある小さな棚に駆け寄ると、一つの箱を取り出し、私たちの間のテーブルの上に、どすん、と置いた。
「あそぶ」彼は短くそう言うと、箱を開け始めた。中身は、サイコロと色とりどりのコマが付いた、すごろくのような簡単なボードゲームだった。
思わず笑ってしまった。「いいよ」頷きながら答える。おばさんもつられて笑い、直樹が迷惑をかけたらごめんね、と言った。でも、私はむしろ嬉しかった。ここにいる自分の存在が、少しでも役に立てるなら、と。
午後四時きっかりに、父が帰ってきた。家に入るなり、まっすぐ私の方へやってくる。
「ちゃんと寛いでるか?すまないな、遅くなって。父さん、ちょっとシャワー浴びてくるから。ああ、そうだ。お前の好きな菓子も買ってきたぞ。後で車から取ってくるからな」
「え、あ……うん、ありがとう」
戸惑ってしまう。私なんかのために、ここまでしてくれなくてもいいのに。私は、他人なのに。でも、さっきから父の態度は、まるで私がずっとここに住んでいたかのようだ。ちらりとおばさんの方に視線を送るが、彼女の顔に嫌な素振りは全く見られない。
しばらくして、父は私にチョコレート大福を、直樹には苺のパックを持ってきてくれた。温かいおしゃべりは、夜になるまで続いた。
夕食の時間、私たちは食卓を囲んだ。おばさんが作ったカレーの匂いが、部屋中に満ちている。会話は途切れることなく続く。父が帰ってきてから、この家が静かになる瞬間は一度もなかった。
「だから言ったでしょ、客間は大事だって」今夜私がどこで寝るかという話の最中、おばさんが言った。彼らは何も準備していなかったことを、心配しているようだった。
私自身は、ソファで寝るのでも構わないと思っていたのに。母から、父がここに泊まるように言っていると聞かされてはいたが、駅の近くのビジネスホテルに泊まることさえ考えていた。
「わかってる、わかってる。あの物置を部屋にするから。でも、中の物は売るなよ」と父が返す。
「そこが問題なのよ。森ちゃん、あなたのお父さんって、昔から役に立たないものを溜め込む癖、あったでしょう?」
突然私に振られた質問に、少し驚く。私はただ、曖-昧に笑って答えることしかできなかった。
私は、二人の会話をじっと見ていた。お父さんが、こんな風に冗談を言うなんて。記憶の中では、昔、家族で食卓を囲んでも、いつも静かだった。母との一日の会話だって、指で数えられるほどだったのに。
ここにいる父は、もっと伸び伸びとしていて、自信に満ちているように見える。自由に、自分を表現できている。この家は、私たちのアパートより質素だけど、住むにはずっと暖かく感じられた。
一体……昔、二人の間に何があったんだろう。
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