第六話:簡素な家
固く閉ざされたドアの前で待つ間、私の思考は宙を彷徨っていた。さっき押したインターホンの音がまだ耳の奥で反響しているようで、その後の重たい静寂がやけに長く感じられる。今更になって、私は気がついた。お父さんが来ていいと言ってくれたからといって、この家の住人全員が、私を歓迎する準備ができているわけじゃない。
当たり前だ。やっぱりさっきのコンビニに戻って、お父さんを待つべきだった。でも、もうインターホンは押してしまった。
ドラマでよく見るようなシチュエーション。いや、ドラマなんて大袈裟なものじゃなくても、これは簡単な理屈だ。彼らにとって、私は部外者。穏やかな一日に突然現れた、招かれざる客だと思われているかもしれない。
カチャリ。
内側から鍵が開く音がはっきりと聞こえて、私は反射的に背筋を伸ばした。ああ、もう遅い。こうなったら、もう引き返せない。
ドアがゆっくりと開き、その向こうから一人の女性が現れた。長い黒髪は、綺麗に一つに結ばれている。まず目に飛び込んできたのは、その整った顔立ちと、物腰の柔らかそうな雰囲気だった。部屋着の上に、シンプルなエプロンを着けている。この人は、どんな状況でも頼りになり、常に何をすべきか的確に判断する、あの母とは正反対のタイプに見えた。
「森ちゃん、よね?」私の顔を見て、彼女はそう言って、薄く微笑んだ。
「はい。お邪魔します」ほとんど囁くような声で答え、必要以上に深く頭を下げる。少しでも悪い印象を与えないように、必死だった。
「ううん、大丈夫よ。話は聞いてるから。さ、どうぞ入って」彼女はそう言って、私を中に招き入れた。
おずおずと門をくぐり、彼女の後に続いて家の中に入る。柔軟剤の匂いと、焼きたてのクッキーのような甘い香りが、ふわりと私を迎えた。とにかく、迷惑をかけないように。心の中で、その言葉を何度も繰り返す。
「荷物、重いでしょう。そこに置いていいわよ」リビングとキッチンが繋がった空間に着くと、彼女はそう言った。
少しぎこちなく、私はリュックをソファの隅に置く。できるだけ場所を取らないように。「失礼します」そう呟いて、彼女が指差したソファの端に腰掛けた。
まだ、お土産を渡せていない。
母が贈答用によく買うお茶の入った紙袋を見つめる。今、テーブルの上に置くべきだろうか。でも、なんだか変だ。気まずい。
「何か、食べた?」私の考えを遮るように、彼女の声がした。キッチンの方から、お茶の入ったグラス二つとクッキーの乗った小さなお盆を持って歩いてくる。
チャンスだ。
私はすぐに立ち上がり、ずっと強く握りしめていた紙袋を差し出そうとした。
「いえ、お構いなく。それと、これ、もしよろしければ」両手で、持って来たお土産を差し出す。
彼女は少し驚いたようだった。「え……そんな、畏まらなくても大丈夫なのに」
私は、引き攣った笑いを浮かべることしかできない。いきなり親しげになんて、できるわけがない。彼女はそう言ってくれるけど、もし最初から礼儀を欠いていたら、反応は違ったはずだ。今の私の立場なら、なおさら。
「お茶、ありがとう。お父さんはまだもう少し帰ってこないから、森ちゃんはゆっくりしててね」彼女はそう言うと、家の用事を済ませに戻る、と断って部屋を出ていった。
家の中は、とても綺麗で、居心地が良さそうだった。壁には何枚か家族写真が飾られている――結婚式の写真、赤ちゃんの写真、旅行の写真。私とお母さんはアパート暮らしだから、こういう家の雰囲気は、暖かくもあり、同時にどこか他人事のようにも感じられる。でも今、私が感じているのは、ただひたすらの気まずさだけ。私は、最悪のタイミングで来てしまった。みんなそれぞれ自分の生活があって、忙しくしているのに、私は自分の都合だけで、その日常を邪魔しに来たんだ。彼女の言い方からすると、本当はすごく迷惑だったのかもしれない。
私は深く息を吸い込み、諦めたように吐き出した。
私、マイナス十点。
やっぱり、さっき外で待っていればよかった。
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