第五話:中村
入れない……。
インターホンを押すどころか、その家の門に近づくだけで、心臓が口から飛び出しそうになる。もう三時間近く、この辺りをただうろうろしているだけ。通りの角から遠目に屋根を眺めては、すぐに踵を返し、避難場所である交差点の小さなコンビニに戻る、その繰り返し。
そもそも、何を考えてたんだろう、私。お父さんから今日来ていいって言われたけど、だからってこんなに朝早くからってわけじゃない。平日の今、お父さんが仕事中に決まっている。
空がまだ白み始めたばかりの時間に家を出て、岐阜の駅に着いたのは朝の九時。電車に揺られながら、窓の外に流れる見知らぬ景色をぼんやり眺めているうちに、自分が致命的なミスを犯したことにようやく気がついた。
「ずいぶん早いのね。本当に今から行くの?」今朝、まだ仕事の準備もしていなかったお母さんが、不思議そうに聞いてきた。
私は何も考えずに頷いただけ。あの時の母の訝しげな声が、何よりのサインだったはずなのに。緊張と、ほんの少しの期待で舞い上がって、そんな簡単なことにも気づかなかった。私って、ほんとバカ。
目の前のテーブルに置かれた、空っぽの烏龍茶のペットボトルを見つめる。一時間前にはもう飲み干して、結露もすっかり乾き、プラスチックのテーブルに水の輪の跡だけを残していた。もう一本、何か買うべきかな。レジにいるパートらしきおばさんが、さっきから何度も不思議そうな顔でこちらを窺っている。きっと、待ち合わせ相手にすっぽかされた子だと思われているんだろう。まあ、あながち間違いでもないか。
ああ、もうどうしよう。
そう思って、菓子パンの棚に手を伸ばしかけた、その時だった。ポケットのスマホが、短く震えた。
知らない番号。でも、その下には、息を呑む名前が表示されていた。父の名前だ。
画面の上で指が固まる。何か、心の準備が必要なんじゃないか。どんな第一声で話せばいい?どんな声のトーンで?八年ぶりの会話だ。でも、二度目の着信音に背中を押され、深呼吸を一つして、緑のアイコンをスライドさせた。
「もしもし、モリか?」
聞き覚えのある声が、すぐに耳に届いた。
「うん」かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「今、向かっていると聞いたが。すまない、父さんまだ会社なんだ。伝え忘れていたか?」
お父さん……声の調子も、昔のまま。この気さくな感じも……私も、昔みたいに、普通に接していいのかな。
「ううん。森が勝手に早く来ちゃっただけだから」
「今どこにいるんだ?着いたら迎えに行くが」
あ……なんて言えばいいんだろう。
「それが……もう三時間くらい前に着いてて……」
電話の向こうで一瞬の沈黙があって、それから、からっとした笑い声が響いた。「はは、なんだ。早く連絡すればよかったのに。退屈だっただろう?」その声に、少しだけ肩の力が抜けるのがわかった。
私もつられて、小さく笑う。「今日が平日だってこと、すっかり忘れてた」
「まだ外にいるのか?家に入っていなさい。みんなには話してあるから、遠慮はいらない」
「あ……ううん、お父さんを待ってるの」知らない家に一人で入っていくのは、何時間もここで待つよりずっと怖い。
「父さんは四時ごろになると思うが、本当に待つ気か?」
私は黙り込んでしまう。あと四時間。
「わかった。じゃあ、また連絡する。気が変わったら、いつでもドアをノックしていいから」
「うん……ありがとう、お父さん」
通話が切れる。画面は暗くなったのに、私はまだスマホをじっと見つめていた。
全然、ぎこちなくなかった。お父さんは、私のことを昔と同じように扱ってくれる。話し方も、記憶の中の姿と少しも変わらない。
じゃあ、どうして……どうして今まで、一度も連絡をくれなかったんだろう。お母さんが、止めてたのかな。ずっと前から抱えていたはずの疑問が、今になってようやく頭に浮かんだ。
お父さんの言葉を思い出すと、このまま四時間もコンビニで時間を潰すのは、馬鹿らしく思えてきた。長いため息をついて、残っていたけじめを全部かき集める。遅かれ早かれ、通らなければいけない道だ。
自動ドアの開く音が、まるで始まりの合図みたいに聞こえた。昼の空気が肌に暖かい。私は、できるだけしっかりとした足取りで、あの家に向かった。手入れの行き届いた、クリーム色の壁の二階建ての家。もう何も考えず、木の門の横にあるインターホンのボタンに指を伸ばす。迷って、また引き返すための猶予を自分に与えたくなかった。
呼び出し音が鳴り、返事を待つ間、私の目は門柱に取り付けられた小さなプレートに吸い寄せられた。きらりと光る、銀色の金属に刻まれた文字。
『中村』
もう、私の名前じゃない。
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