第四話:第一幕
「あのことがあってからかな、物事を深く考えるようになったのは」私は自分の視点と、小林先生と話した結論をそう締めくくった。
一息ついて、ヒナの反応を待つ。普段の彼女なら、頭の回転が速いからすぐに何か返してくるはずだ。でも今回、ヒナは黙ったままだった。顔をわずかにしかめ、眉を寄せている。今話したことを、頭の中で整理してるんだろうか。
「あれが?」やがて彼女が口を開いた。信じられない、とでも言うような、どこか探るような声だった。
私は静かに頷くだけ。視線は、溶け始めた私たちのバナナパフェに落ちていた。クリームの雫が、グラスの壁をゆっくりと滑っていく。
「でも、モリちゃんは本当に違ったよ」ヒナは続けた。その目は私をまっすぐに捉えている。「私、あの時、モリちゃんにお父さんがいないなんて知らなかったし」
私は首を傾げた。それが性格に影響するほど大事なことだとは思えない。ドラマとかでもよくあるじゃないか。お父さんは出張がちだったり、仕事で忙しかったり。お母さんがちゃんと見ててくれれば、それでいいはずだ。
「そう…かな?」自信なく答える。「でも、態度としては、そんなに変わらないと思うけど。今のヒナの友達はどんな感じなの?」なんでそんな話になるのか、少し戸惑いながら尋ねた。
「全然違う」彼女は即答した。迷いは一切ない。「モリちゃんが一番優しい」
その褒め言葉にどう返せばいいか分からなかった。そんなことないのに。私の見方なんて、私の狭い世界の中だけの話で、ヒナから見たらきっと全然違う。私は小さく笑った。「ヒナだって、こんな分厚いまとめ作ってくれるなんて、優しすぎだよ」
私の返事の後、ヒナはまた黙り込んだ。気まずい沈黙が、思ったより長く続く。さっきまで暖かかったカフェが、少し肌寒く感じられた。
「昔のモリちゃんなら」ヒナが、ついに沈黙を破った。静かで、何かをじっと考えているような声だった。「断ってたよね?」
ドキッとした。どういう意味?さっきの質問?じゃあ、今の「優しい」って言葉も、試されてたってこと?でも…そうかもしれない。私の甘い考えを、いつまでも正しいなんて思えない。昔の私なら、そんな風に言われたら拒絶しただろう。人にはそれぞれ立場があって、見えてる世界が違うんだから、踏み込んじゃいけないラインがある。
「さっきの質問のこと?」私は確認した。
彼女は頷いた。
私はゆっくりと首を横に振る。「わかんない。そうだったかもしれないけど、今は…」
「じゃあ、病気のこと以外で、モリちゃんが前ほど人に心を開かなくなったのって、私のせい?」
え?私は眉をひそめた。なんでそれが、悪いことみたいに聞こえるんだろう。というか、なんで話がそっちに飛ぶの?
「どういうこと?私は変わんないよ。ただ、周りの人の気持ちを、もっと考えるようになっただけ」
「違う」ヒナはきっぱりと言った。「今のモリちゃんは、自分の悩みを人に話すことが、ずっと少なくなった」
なんて返せばいいんだろう。それって、良いことじゃないの?みんな、それぞれ自分の問題を抱えてるって、分かってるってことだから。「いいことじゃない?みんな、自分のことで大変なんだし」
「よくない…」彼女の声が、弱々しく震えた。
彼女の目に、何か見覚えのある光が宿る。目が、潤み始めていた。
「ヒナ…ちゃん?」私はためらいがちに呼びかけた。
ゆっくりと、彼女は俯いて、カフェの他の客に見られないように両手で顔を隠した。
パニックになる。なんでこうなるの?叱られて泣くのは、私の役のはずなのに。想像してたシナリオと全然違う。私は彼女の耳に顔を近づけ、できるだけ小声で囁いた。
「ごめん、ヒナ。私、何か変なこと言った?ごめんね」
「昔のモリちゃんが…いたから、私たちは今、友達でいられるんだよ」声は手のひらでくぐもっていたけど、泣いているせいで掠れているのがはっきりと分かった。隣のテーブルの客たちが、ちらちらとこっちを見ている。
「わかった、わかったから、ごめん。ちゃんと聞く、約束する。でも、まずは場所を移そ?」私は彼女をなだめようと、再び囁いた。
彼女は一瞬黙り、それから顔を上げて手の甲で涙を拭った。これで落ち着くかと思ったのに。
「うん…分かってる。あんまり自分を曝け出すと、迷惑に思う人がいることも」彼女は、まだしゃくりあげながらも、何事もなかったかのように話を続けた。とりあえず、場は収まった。私は彼女の話を聞くことにした。
「私も、もう一度謝る。昔の私は、あまりにも自己中心的で、自分の世界に閉じこもりすぎてた…」
そんなこと、気にしてない。私はすぐにそう思った。彼女みたいな人は、ヒナだけじゃない。私にとって、それは覚えておくべき境界線みたいなものだ。誰かとどれだけ親しくなっても、相手の負担にならずにどこまで手伝えるか、考え続けるだろう。
「心を開けるようになったのも、モリちゃんから学んだからなんだよ…」彼女は、私をまっすぐに見つめて言った。「だから、自分の気持ちを言うのを、絶対にためらわないで。たとえ、それがくだらない愚痴だったとしても。私に何かを頼むとき、私が怒るんじゃないかなんて、心配しなくていいから。モリちゃんは…もっと私に頼っていいんだよ」
返事をする間もなかった。彼女が言い終えた瞬間、奇妙な感覚が頭を駆け巡った。普通のめまいじゃない。これは強い感情の波――胸を刺すような悲しみ、深い罪悪感、そして息が詰まるほど強烈な、変わりたいっていう衝動。
そうか…私、自分を縛りすぎてたんだ。人によっては、面倒をかけられることなんて何でもない。むしろ、どうでもいいことまで、知りたいって思ってくれてる。
はっきりと覚えてる。これは、あの時と同じ感覚だ。喧嘩の後、夜に彼女からの長いメッセージを読んだ時と。どうして?でもこの症状、突然感情が溢れ出すこの感覚は、治療の説明にあったものと全く同じだ。記憶の複製。
私の意識は、ヒナの言葉が引き金になった新しい感情と気づきの中に、漂い、流されていった。
「ごめん、話が逸れちゃった」ヒナは、まだ頬を伝う涙の残りを拭いながら、再び口を開いた。「さて、どうやってその記憶を再現するか、考えよう」
「ヒナ…」私は静かに呼びかけた。自分の声が、自分でも少しぎこちなく聞こえる。「たぶん…もう、終わったみたい」話しながらも、さっきの感情の余韻が胸の中で渦巻いていた。頭が少し重くて、手のひらに寄りかからせる。
「は?何が?」彼女はさらに素早く目をこすり、きょとんとした顔で私を見つめた。
「本当だよ」どう説明すればいいのか分からず、私は言った。額に手を当て、一瞬目を閉じて、意識を集中させようとする。
「え?マジで?」彼女は、信じられないというように、もう一度尋ねた。
私は頷くことしかできなかった。ヒナの顔には、完全な混乱が浮かんでいる。
長く感じられた数瞬の後、その感覚はついに和らいだ。頭が軽くなり、溢れ出ていた感情は、深い静けさへと変わっていった。
「本当にめまいじゃないの?吐き気は?」ヒナの医学部生モードが、すぐに起動した。
「うん、感覚が違う。症状の説明にあったのと、全く同じ」
「じゃあ…もう終わり?私たち、もう喧嘩しなくていいの?」
「うん…みたいだね」
「なによ、それ」彼女はぶすっと言ったが、口角はわずかに上がっていた。「嬉しいはずなんだけど、まだ何もしてないじゃん」
私はすっかり普段の状態に戻り、体を起こす。視線の先には、クリームとバナナの水たまりになったパフェ。私の意識は、すぐにそっちへ移った。
「とりあえず、これ食べちゃお」
ヒナも自分のアイスが溶けていることに気づき、頷いた。
*
「たった一日で終わるなんて、まだ信じられないな。ネットだと、普通は難しいって書いてあったのに」駅へ向かって彼女と歩きながら、私は言った。
ヒナはすぐには答えず、何か考えているようだった。「私は最初から、それが重要な記憶だなんて思ってなかったけどね。私が考えてたのは、モリちゃんの残りの二つの記憶のことだけだよ」
私は小さく笑った。否定はできない。彼女からすれば、そうなのかもしれない。でも、どれだけ軽く見えても、この記憶は私を形作る大事な情報だったってことだ。
「むしろ、感謝してる。一日で終わるなんて、すごいことだよ」私は歩道の小石を蹴るふりをしながら、物思いに耽った。次の記憶は、こんなに簡単にはいかない。それは、よく分かっていた。
「お父さん、今は岐阜に住んでるんだよね?」ヒナが不意に尋ねた。
「うん。ってことは、もう…」私は心の中で数える。私が小六の時からだから。「八年近くになるかな」すごく長い。次に会う時には、顔を忘れてるかもしれない。「子供が二人いるって言ってた…うーん、義理の弟か妹になるのかな」
ヒナはまた考え込んでいるようだった。でも、彼女が何を考えているのか、なんとなく分かる。
「じゃあ、明日はもう大学に来ないんだね?」
私は頷いた。頭の中で計画を練り始める。どうやって、あの記憶を繰り返せばいい?父を失った時、一番心に残ったのは、無力感だった。どれだけ叫んでも、どれだけ手を伸ばしても、もう二度と届かないっていう感覚。
彼からこんなに遠ざかってしまった今の私には、最初からやり直さなくちゃいけない。もう一度、彼を好きにならなくちゃ。
ただ、もう一度、あの喪失感を味わうために。
構わない。これは私の大事な一部で、まだ私にできることだ。
「それと、あの男の子のことだけど」ヒナは続けた。声に心配の色が滲む。「私としては、やらなくてもいいと思う」
彼女の心配は、私の考えと同じだった。私自身も迷ってる。それを繰り返すのはリスクが高すぎて、自分の一部を失ってもいいとさえ思える。それに、トラウマを維持することが、自分の人格の一部を失うより良いことなのかも分からない。あの記憶を繰り返すのは、新しい自分の中に、そのトラウマをもう一度刻み込むのと同じことだから。
「私も、分かんない」私は正直に答えた。「今は、どうすればもう一度お父さんを失う気持ちになれるか、それを考えることに集中する」
ヒナは、ただ理解して頷いた。
私たちは駅の改札に着いた。おしゃべりの時間も、もう終わりだ。
「今度、私の回復期間が終わったら、私がおごるからね。今日は、こんなに色々してくれたのに、急がせちゃってごめん」別れる前に、私は言った。回復したら、全部お返しするって、心に誓った。そして、彼女が望むように、もっと彼女に頼ろうと。
「モリちゃんも、無茶しないでね」彼女は真剣な眼差しで返した。「もし、あの男の子との記憶を繰り返すことになったら、連絡して。絶対に、連絡してね」
こうして、私の自己の一つの柱を守り抜いた一日が終わった。予想外にも、すごく順調に、そして早く。でも、同じ偶然が、残りの二つの柱で起こるはずがないことを、私は知っていた。
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