男が苦手な伝説の暗殺者が、殺し屋を卒業するまでの物語

@pe-pe-firstclass

男が苦手な伝説の暗殺者が、殺し屋を卒業するまで

『やぁ、殺し屋。単刀直入で悪いが依頼だ。答えはハイか、イエスしかない』

 モニター越しに凄みをきかせているこのおっさんはとある組織のボス。普段は冷静沈着で頼れる人だが、娘が関わることであれば、見境のなくなる過保護パパなのだ。この有無を言わせない物言いは、まさにその娘にまつわる依頼なのだろう。

「殺人の依頼だ。娘をたぶらかしたこの女を殺して欲しい」

 写真に写っているのは、艶のある綺麗な黒髪を靡かせ、人の目を引く甘いマスク、耽美な雰囲気を纏う魔性の男の姿。そして、その男の腕にボスの娘がコバンザメのようにベッタリと腕を絡ませている。

「失礼ですが、ボス。ターゲットは男なのでは?」

「お前が男に惚れやすいという体質はもちろん知っている。その美貌があれば色仕掛けなど容易いはずなのに、男の殺人は狙撃に頼っているのも知っている」

 そう、私は男という生き物に全く耐性がない。見るだけで赤面、触れれば拒絶反応で一本背負いを仕掛けてしまう。殺し屋稼業にも支障をきたすので治したいのは山々だが、男を拒絶するに至ったとあるトラウマを解決しなければ前に進めそうもない。

 それは小学四年生の頃だ。私は主に肉体的に男子に興味津々だった。五月蠅いところとか、ガサツなところとか、自分とは掛け離れていて話すこともまともにできなかったけれど、視線はいつも彼らを追っていた。体育の時は目が離せなかった、

 そんな初々しい性の目覚めを体験していた日々に終わりを告げる出来事は唐突に起こった。いや、目の当たりにした。

 その日は、運動部の練習が終わるのが遅かった。運動部に所属していたわけではない。運動部を図書館から眺めていたのだ。肉体がぶつかり合う姿を、その汗が煌めく姿を、うっとり眺めていれば、時間が過ぎるのも忘れてしまうというモノ。気づけば、図書室の閉館時間はとっくに過ぎていて、いくら図書委員という立場でも叱られることは間違いなかった。

 時間は7時を迎えようとしていた。夕焼けの空は沈み始め、オレンジに光っていた校舎には夜の影が落ちていた。階段を駆け下り、廊下を全力で駆け抜け、職員室の直前でその扉に恐る恐る近づいた。そして、職員室の違和感に足が止まった。

 職員室の灯りが消えている。だが、声は聞こえる。先生が残っていることは珍しくないが、電気を消しているということが解せなかった。声は男女二人の声だが、少なくとも会話をしているようではなかった。動物みたいに知性の感じない呻き声。

 怖かった。しかし、この不気味なモノの正体に対する好奇心を捨てきれなかった。

 少し空いている扉の隙間から中を覗く。

 暗闇の中、夕暮れの薄明の光に当てられて輝く教員男女二人の裸体。男性の一物が女性の体に重なって、腰を振る姿は神秘的で、生々しく。

「うわああああああああぁぁぁぁ!!!」

 訳が分からず、私はその場から逃げ出した。

 以降、私は男性に恐怖を抱くようになり、近づく度にあの日がフラッシュバックして触れるどころか、だれかれ構わず一本背負いをきめてしまうようになったのだ。

 そんな私に、男のような女を殺す依頼なんて……。

「できません」

「なぜだ?相手は女だ。恐れることはないはずだ」

「女の人でも、格好は男の人なんです。今でも緊張しているのに、実際に会ったらときめいて投げてしまいます」

「いや、まあ、それができるならそれでいいんだけど」

「できませんっ!」

「いやでも、投げれ」

「できませんっ!!」

「じゃあもう狙撃で良いから」

「できませんったら!!」

「うるさい」

「はい……」

 ボスの深い溜息。部屋が再び緊張で満たされていく。

「いいか、殺し屋。もうお前以外にこの依頼を達成できる者はいない」

「……はい」

 それは分かっていたことだ。でなければこんな依頼が私のもとに来ることもなかったはずだ。つまり、ターゲットは相当な手練れということだ。

「敵には表裏関わらず名をはせた令嬢お抱えのボディガードがゴロゴロいる。フリーの殺し屋では歯が立たない上に、この難易度ゆえに依頼を受ける者も皆無。業腹だが、打てる手が最早お前以外ないのだ」

 ボスが絞り出すように出した苦渋の声からは、娘を奪われた父親の無念が顕れていた。

 しかし、娘が死んだわけでもないのに、自分の部下を死地に送り出そうとしているのだから同情は微塵もない。こんな下らないお家騒動に巻き込まれたのだから、むしろ救出対象には憎しみすらある。

「ボスの心中お察しします……承知いたしました、ボスの依頼、拝命いたします」

 とはいえ仕事だ。感情を殺して任務に徹するのみだ。

「期待しているぞ」

「はい……」

 

「ボスの話では、この場所でお嬢様が参加する臨時のお茶会があるという話だったけれど」

 高層ビルが割拠する中で一際目立つ摩天楼。このホテルの六階層を貸し切って行われるというお茶会。どの階でそれが行われているのかボスから情報は渡されなかったが、最上階から下五階層にかけて漂う異様なオーラでその存在は明らかだった。隠すつもりもなく、ただ近づくなと威嚇しているようだ。

 尋常ではない、圧。不用意に触れれば、私という存在は跡形もなく消し去るだろう。

 このビルの前に立った時点ですでに後戻りはできない。退路を断たれ、進むだけのはずの足が竦む。周辺のビルからの撃ち抜くような視線に晒されながら、冷静になれない己の心が悲鳴を上げている。

 押し殺す。恐怖を、脆弱な自分ごと。今、必要なモノだけを纏い、ホテルに足を踏み入れる。

 私はこのホテルの宿泊客の一人。観光前にホテルに荷物を置いて、身軽になりたい。チェックインには少し早いけれど、そのくらいの融通は利く時間。事情を快く承諾した受付から部屋の鍵をもらう。

 エレベーターに足を踏み入れる。最上階行きのボタンを押す。

「待って、待って。僕も乗せてっ」

 構わず扉を閉扉のボタンを押す。一つのミスも許されないこの状況では些細なトラブルも見逃せない。善意では任務達成の確率は上がらないのだ。

「待ってって言ってるじゃないかっ!ったくもう、君には善意ってヤツがないのかい」

 エレベーターの扉が閉じるのを止めて緩慢と開いていく。閉扉間近で足を滑り込ませたその人は膝に手をついて息を切らしている。

「あの、足を退けてくれませんか。エレベーターの扉が閉まりません」

「……見て分からないのかい?誰のせいでこんなに急いだと思うんだ」

「ご自身のせいでは?」

「そうかもねっ!!」

 その人は息を整えて顔を上げる。息を飲むほどに美麗な相貌。ガラスのように儚く細く、こちらを包み込むように高い背丈。その中性的な顔と肢体をもってすればシャツにジーンズという簡素な装いも耽美な魅惑で女を惑わす。

「へぇ、奇遇だね。行先は僕と一緒か。もしかして君、僕の子猫ちゃんなのかい?」

 彼の顔がこちらに向けられる。

 トゥンク。

「ちっ、違うわよ。たっ、ただボタンを押し間違えただけよ」

 慌てて顔を背ける。この女の顔が暑苦しくて、こっちの顔まで熱くなってきた。

「違うのか……でも君のこと、気になるな。おいでよ、僕のお茶会」

 トゥンク。

 甘言を払いのけようと腰に回された腕を跳ねのけようとするが、彼女の身体に包まれるようにそれを押さえつけられてしまう。

「ちょっと、離してよっ!あなたのお茶会なんて興味ないってば」

「ほんとうに?」

 トゥンク。

 耳元に彼女の息が吹きかけられる。くすぐったくて、恥ずかしくて、嬉しくて、とろけそう。

もう、離れられない。

「もうすぐ最上階だ。僕らがイチャついている姿をみんなに見せつけようか」

「えっ、それは……」

 上昇していたエレベーターが動きを止めた。見れば液晶の数字は100を示していた。

 不意の出来事に反応できず、意識が引き延ばされる中、エレベーターの扉は帳を開くように二人の姿は衆人環視の下に晒される。

 二人が密着する姿を、100階のフロアにいる者たちの眼が捉えた。その事実に堪らず、羞恥から逃れるために身体は咄嗟に防衛本能を働かせていた。

「いややややややあああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

「えっ」

 雄叫びのような嬌声。そして、ターゲットの彼女は宙を舞う。精緻でありながら、一回り大きい体を持ち上げる荒々しい投げ。その美しいまでの完璧な一本背負いになすすべなく、彼女は床に叩きつけられた。

「ゴフッ!!」

「おっ、王子いいいいぃぃぃ」

 悲鳴、絶叫、阿鼻叫喚。ひしめく嬢たちの甲高い叫びは、このフロアの全てを揺らす。皿が落ち、花瓶が割れ、窓はガタガタと震えている。人ならば耳を塞いでいなければ鼓膜を破る勢いだ。

「あの者を殺しなさいッッ!!!」

 不届き者に下される無情の裁き。その指令を受ける否や飛び出すボディガード達。瞬時に生み出された凄絶な殺気、その群集が一人に襲い掛かる。

 正面に活路はない。

気絶しているターゲットを抱え、エレベーターの中へ逃げ込む。

腰に携えたナイフを取り出す。振り上げたナイフは力一杯振り下ろされ、頑丈なエレベーターの床を貫いた。一度ではなく、何度も。突き刺したあとが円状になるように。

そして、それをまるで円状の切り取り線を貫くように一撃。拳が一方通行の活路(自由落下)を作り出した。

「逃がさん」

 槍。弾丸の如く伸びる切っ先が頬を掠める。敵。放ったナイフを避け、槍を引き戻す。瞬間、間合いは消え、拳は敵の腹を撃ち抜いた。

 赤い血が飛び散って、濡れて。その衝撃がボディガード達の足を止める。その本分ゆえに踏み込めない状況であることを知っている。

 その反応を見るや槍使いをサッカーボールよろしく嬢たちのもとに死体をパスした。宙を舞う死体から、飛び散る血液から、その御身が汚されんとすることを無視できる守り手はいない。

 踵を返したボディガード達を尻目に、地上に向かい下降する。エレベーターなどと上等なものは必要ない。脱出は速度が命。敵に追いつかれてはならない。下降中のエレベーターに追いつかれては逃げ場もない。

ならば、自由落下。エレベーターの下降速度を遥かに上回る唯一の脱出手段。

 落ちていく。底知れない闇に吸い込まれるように。いつ来るかも分からない穴の底に怯え、抱きしめる腕に力が入る。

「やっ、止めてください。ちゃっ、着地に……集中、できませんから……」

 縋るように強く求める彼女の腕。恐怖に震える姿は喰われる前の草食動物のようでなお愛らしい。その感触に血が沸き立ち、頭の先からは意識が蒸発していくようだ。

「しっかりしてくれ。それとも君は僕を殺す気なのかな?」

 心臓が跳ねる音がした。甘い吐息に、魔性の声が脳内に反芻する。

「黙って。集中が乱れます」

 ナイフ、拳銃、毒針、手榴弾、煙幕、ワイヤー。だが、私の寄る辺は己自身。状況を打開する鍵は、常我にあり。

 頂上500メートルから落下しておよそ一五秒。彼女を浮かすように上へと蹴り上げた。そして、私はさらに加速する。

 落ちた先で受け止める。しかし、このままでは両足粉砕骨折では済まない。

 ワイヤーを伸ばし、直後に一瞬身体が宙に吊られる。その刹那、身体を浮かせ、落下の勢いを殺した。高さは依然常人の耐えられるものではないが、組織位置の殺し屋ともなればその程度の所業など造作もない事だった。

 一階の床へと華麗に着地し、ほどなくプリンスがこの腕に収まった。空から舞い落ちてきた天使のようなその人を抱きかかえる麗人。スポットライトはエレベーターの扉を蹴破って、演出をカバー。

 ラウンジを抜け、外の日の下に足をかけんとした時、踏み入れ狭いとコンクリートが穿たれる。狙いは正確にいくつもの銃弾、その導線が壁の如く逃走経路を阻む。

 弾切れを待つほどの余裕はない。殺し屋にあるまじき突破手段を強行しなければ、ミッション失敗は免れない。

 幸い、彼女は敵の殺しの対象ではない。

「人質は有効に使う」

 駐車しているタクシーにかぎ付きのワイヤーで引っ掛け、それを漁網よろしく手前へと引っ張り上げる。尋常ならざる膂力は牽引トラックの如く軽々と引き寄せていく。

「どっせいッ!!」

「馬鹿な!!」

 プリンスを車内へと放り入れ、車体の下へと潜り込む。そして、酷使した肉体を休ませることなく、車体を持ち上げて日の下へと走り出した。

「打てるもんなら打ってみなさい。下手すりゃ誤射。エンジンに引火すれば爆発よ」

 狙撃手たちは遠目ながらにたじろいだ。どんなに狭い隙間でも寸分狂いなく撃ち抜いてきた猛者たちでも、車を盾に射線を突破する者などいなかった。いや、それができる生物が人間でいいはずもない。

「ッッ!!」

 それは安堵。そして、あり得ないという錯覚が起こした確かな油断。

 銃声。狙いは車か、プリンスか。どちらであっても嬢たちに対する裏切りには違いない。彼女たちの宝物に傷をつけることは何人たりとも許されてはいない。ボディガード達にとっても信頼を欠く行為だ。であれば、その意思は全く異なる場所から放たれたことは明確であった。

 貫かれる車体。内部から溢れるような爆発。吹き上がる炎と衝撃は二人を飲み込まんと迫る。

 燃え盛る車体。黒煙を立ち昇らせ、炎は二人の生存を否定するかのように燃え上がっていく。あの一瞬に飛び出せるわけもなく、その様子を捉えた天上の嬢たちの悲鳴が下界に響き渡る。

「任務完了しましたよ、ボス。あの王子様と、それにあの殺しの女王様も一緒だ」

『そうか、でかしたぞ。目障りな邪魔者が一気に二つも消えて、景気のいいことこの上ない』

 雑居ビルの一室からスコープを覗くスナイパー。電話の向こうの主はマフィアのボス。ボスはその知らせに愉快愉快と手を叩く。

「しかしですねボス。あの女王様、車が爆発する前にターゲットを車の外へ逃がしたんです。しかも、どちらも欠けずにまだ生きていて、爆発に紛れて身を隠せる場所まで逃げている。化け物ですよ」

「なんだと?お前、私に嘘をついたのか」

「いいえ、生きているといっても女王様の方は爆発に巻き込まれて重傷です。あのプリンスの腕ではそう遠くへも逃げられない。後は数と俺の狙撃で仕留めるだけ。任務はほぼ完遂したというわけです」

「……そうか、ならばいい。だが、報酬は標的を仕留めてからだ。分かったな?」

「もちろん」


 路地裏。日の差す場所が遠くに映る陰鬱とした世界。

 膿んで爛れた血肉が裏路地の床を綴り、身体の熱は冷めつつあった。

「もう少しだからね。頑張って」

 ずるずると華奢な身体に背負われ進む。遠のく意識は彼女の言葉に引っ張られ、かろうじて保つことができている。だが、眠い。寒くて、眠い。

「もう……置いていって。お嬢たちを呼びつければ、あなたはまだ生きられる。こんな足手まといを抱えて手段を渋っていたらッ……せっかく助けたあなたの命も、危ない」

「彼女たちは来ないよ。いや、彼女たちのボディガード達は僕を助けに来ない」

 まるで経験済みというような、無知な自分に有無を言わせない説得力があった。だが確かに、そうでなければ今、彼女が壮麗な服を血で汚してまで私を運ぶこともなかっただろう。

「あの人たちは仕事をしているだけ。主人のおもちゃが壊れないように気を付けているだけ。僕はたしかに彼女たちのヒモだけど、彼女たちのために生きて、彼女たちの望む姿でいなければ生きていけない鳥かごの中の鳥だよ」

 彼女はニヒルに笑う。嘲笑にも、諦念にも見てとれたその表情に言葉を失う。叱咤も慰めもでてこない。ただ、彼女という一人の人間を垣間見た、ただそれだけに心の底から悦びがジワリと込み上げてきた。

 口角が上がろうとするのをグッと抑える。その事に夢中になっている時に彼女がこちらの顔を覗き込んでくるんだから張りつめた表情筋が崩壊しそうになる。

 こちらが吹き出すのを抑えていると、彼女はフッと笑みを浮かべる。うっとりするような完成された男装麗人としての笑みではなく、朗らかさとあどけなさが光る欲望を逆撫でる妖艶な笑み。

「ねぇ、私のボディガードになってよ」

「―――――」

 一瞬時が止まった。そして、表情筋で抑えていた全てを口から吹き出した。唾液と血が彼女の顔面に吹きかけられる。

「もぉー、汚いぁ。そんなにびっくりすること?」

 体裁を保つことはできなかった。瀕死の相手に頼むようなことではない。それに、

「自分を殺そうとした暗殺者をボディガードなんて……」

「そんなに変な事は言ってないと思うけどなぁ」

「じゃあなんでッ……」

「爆発する車内から私を助け出してくれた。私にはそれが全て」

 その言葉には、魔性の女としての彼女はいない。身の丈通りの、彼女の真実がある。そう思った。彼女の顔をはじめて正面から見た。その顔は見れば誰もが振り向く美麗な相貌の持ち主であれど、あどけない普通の女の子に見えた。

「でもほんとうに馬鹿だと思う。さっきまで殺そうとしていた他人を、そんなに傷ついて助けようなんて普通は思わないよ」

「せっかく、助けたのにッ……ひどい言われよう」

「うん、でもそんなところが好き」

「…………えっ」

 二度目は心臓が止まり、危うく世界に取り残されるところであった。

「ねえ、私が告白するたびにショックでフリーズするの止めてよ。一生懸命言ってるのに、恥ずかしくなってくるから」

「いや、無理でしょ。アンタにそんなこと言われたら時止まるわよ」

 前言撤回。やはり、こいつは魔性の女だ。素で私の心を掴む通り越して握りつぶしに来る。

「私だって恥ずかしいのになぁ。王子様は驚いてばっかりいないで少しは返事してよ」

「誰が王子様よ、こちとらいっぱしのレディよ」

「私にとっては王子様なのっ、いつだって私の傍にいて、ピンチの時は必ず助けてくれる私だけの王子様」

 ナイフで弾く銃弾の感触。反射的に手が動いたのは手負いの虎がみせる火事場の馬鹿力。人の気配、ナイフや銃の音、殺気。感じ取った気配は見逃さない元来の集中力に加え、瀕死の状況で目覚めたリミッターなしの獣の全力。たとえ裏路地を埋め尽くす殺しの軍団が来ようと、予見しようのない簡易爆弾が配置されていようと、4キロ離れた地点での狙撃であっても、関係ない。

 死角はない。

 不意打ちは意味をなさない。

 そして、獣の牙は4キロ離れた狙撃地点にも届く。

「は―――」

 弾道と同様、直線を描く小石は敵の脳を貫いた。銃よりも遥かに正確に、強力で。数の不利、距離の不利。その常識はもはや通用しないまでにその野生は賢く、鋭い。

「おかえし」

 殺意さえ感じ取れば、位置の把握は容易い。彼女は見らずして、その方角への警戒を解いた。

「ねぇ、そこの奴から鳴っているスマホ取って」

 その先に待つ者を知っている。そして、言うべきことを言うのだ。

 彼女が取ってきた血まみれのスマホをもらい、電話を取った。

『おいっ、状況はどうなっている!!スナイパーの奴、いつまで経っても連絡を寄越さないどころか俺の呼びかけにも応じねぇぇ!!どいつもこいつも、この俺様に対して生意気しやがって、そんなに死にたいか、ええ!!?』

 耳の奥にツンと響くボスの怒号。以前ならその言葉の端々からボスの感情を読み取ろうと必死だったが、今では全て通り抜けていく。そうであったころの自分がとても懐かしく感じた。

「……ボス」

「ッッ……お前、なんで」

「考えるまでもないでしょう。それよりお伝えしたいことがあります、ボス。私はグループを抜けます。それと、私のフィアンセを二度と狙う事がないように、約束ですよ?」

「誰がそんな約束ッ」

「お嬢……次も元気におうち帰れるといいですね」

 ごくりと固唾を飲み込む音がした。電話の向こうで空気が恐怖でひりつているのが分かる。この男に手駒はもうない事は分かっているが、私の知らなかったスナイパーの一件もあるので、念入りにする必要があった。

「次にもし、あんたもしくはその刺客を見かけたら例外なく殺し、約束を違えたとしてあなたの家族を皆殺しにする。慈悲はない、必ず殺す。その事をゆめゆめ忘れぬように」

 電話は切らずに握りつぶした。せいせいする想いとともに、ひと段落を得た安心感が胸に去来した。まだまだ安心はできないが、私は新しい人生を勝ち得たのだ。

「過激だねぇ」

「まだ足りないくらいよ。必要以上に圧をかけないと何度でも殺しに来るゴキブリみたいなやつよ?殺しに行かなかっただけでマシと思って欲しいわね」

「ふーん……まあ、何はともあれ一件落着って事だね」

 彼女は他人ごとみたいに言って、嬉しそうに呟いた。自分が中心で起こっている出来事なのに全く無関心でいられるのは、もはや才能なのだと諦めがつき始めたころだ。

「ところで誰かさんのせいで、わたし無職になっちゃった」

「そーなんだ、大変だね。そんなあなたに紹介したい仕事があるんだけど」

「世界中の女性を誑かして、世界中の男に嫌われている魔性の女のボディガードとか?」

「最低……でも正解っ!!」

 こうして、暗殺者はボディガードへと転職を果たすも、彼女を待ち受けるのは追われて、守るを繰り返す怒涛の毎日。

 ボディガードと、魔性の女が繰り広げるアクション百合物語はまた別の機会に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

男が苦手な伝説の暗殺者が、殺し屋を卒業するまでの物語 @pe-pe-firstclass

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ