潔癖探偵と勿忘草のティースプーン
成海。
潔癖探偵と勿忘草なティースプーン
神楽坂の石畳が濡れ光る路地裏に、
怜にとって、世界は調和と均衡、そして何よりも「美」によって構成されていなければならなかった。彼の持つ完璧主義は、ほとんど信仰に近い。その鋭利な美学の延長線上に、彼の探偵業は存在する。歪められた真実を解きほぐし、物事をあるべき美しい姿に戻すこと。それが彼の仕事であり、存在意義だった。
午後三時。完璧な角度で設えられたマホガニーの椅子に腰かけ、怜は純白のカップに注がれたキリマンジャロの香りを静かに楽しんでいた。非の打ち所のないスーツに身を包み、銀縁の眼鏡の奥で長い睫毛に縁取られた瞳を伏せる。彫刻家が精魂込めて彫り上げたかのような端正な横顔は、それ自体がひとつの美術品のようだった。壁にかけられた古時計の振り子が、規則正しく空気を揺らす。店内には、磨き抜かれた銀製品の冷たい輝きと、古い木の香りが満ちている。塵一つない完璧な空間。怜が唯一、心の平穏を得られる聖域だ。
その静寂を破るように、ドアベルが澄んだ音を立てた。今日の予約は一件だけ。時刻は三時ちょうど。予約客は時間通りに到着したらしい。怜は、それだけで相手にわずかな好感を抱いた。時間は守られてこそ美しい。
怜は純白の手袋に包まれた手でカップをソーサーに戻すと、その一連の動作すら計算され尽くしたかのように、ゆっくりと立ち上がった。
ドアを開けると、そこに立っていたのは、怜の美学とはおよそ対極にいるような女性だった。
「あの、こちらで……探偵事務所を、されていると伺って」
少し息を切らした彼女は、慌てて言葉を紡いだ。大きな瞳は不安げに揺れている。長い髪は無造作に一つにまとめられ、数本の愛嬌のある後れ毛が、汗で湿った頬にかかっていた。服装は、着古した感のあるコットンのワンピース。足元は歩きやすさを重視したであろうスニーカーで、先端が少し汚れているのを、怜の鋭い目は見逃さなかった。
怜は無意識に眉をひそめた。彼の聖域に招き入れるには、あまりにも「無秩序」で「不調和」な存在だった。まるで、静謐な美術館に泥のついた長靴で踏み込まれたような、微細だが確実な不快感が胸を走る。
「予約された、葵様でいらっしゃいますか」
怜が発した声は、彼の怜悧な容貌に違わず、低く、落ち着いていた。
「は、はい!
元気の良い、しかし最適化されていない声量に、怜はさらに眉間の皺を深くした。怜は無言のままドアを大きく開き、彼女を中へと促した。
陽菜は「お邪魔します」と呟きながら、恐る恐る店内へと足を踏み入れる。そして、息を呑んだ。
整然と並べられたアンティークの数々。磨き上げられた床に、窓から差し込む西日が反射し、金の光の筋を描いている。まるで時間が止まった博物館のようだ、と彼女は思った。そして目の前の男に視線を戻す。艶やかな黒髪、雪のように白い肌、通った鼻筋に薄い唇。作り物めいた美貌に、陽菜は自分が場違いな場所に迷い込んでしまったような心細さを感じた。
「そちらへどうぞ」
怜が指し示したのは、客用のベルベットのソファだった。陽菜は勧められるままに腰を下ろす。しかし、その時、彼女が持っていたトートバッグの角が、近くにあった小さなテーブルの脚にこつんと当たった。テーブルの上の、細い首を持つ一輪挿しが、かたんと微かに揺れる。
怜の完璧な世界に、明確な不協和音が響いた。
「……お荷物は床へ」
怜の声は、冬の湖面のように冷たく平坦だった。その声に含まれた拒絶の色に、陽菜はびくりと肩を震わせ、「す、すみません!」と慌ててバッグを床に置いた。
怜は彼女の正面に座ると、手袋をはめた指を静かに組んだ。
「さて、ご依頼の内容を伺いましょう」
陽菜はごくりと唾を飲み込み、バッグから丁寧に布で包まれた小さな何かを取り出した。彼女はそれをテーブルの上にそっと置くと、緊張した手つきで布を開いた。
現れたのは、一本のティースプーンだった。
怜は、それを見た瞬間、息を止めた。銀製であろうそのスプーンは、長年の時を経て黒ずんではいるが、持ち手の部分に施された彫刻は驚くほど精緻だった。
モチーフは、勿忘草。小さな五枚の花弁を持つ花々が、茎と葉と共に、見事な曲線を描いてデザインされている。使い込まれているはずなのに、その造形には一切の歪みも摩耗もない。それは、持ち主の深い愛情を静かに物語っていた。
完璧な均衡。完璧な造形美。怜の美学を根底から揺さぶる一品だった。
「……美しい」
思わず漏れた怜の呟きに、陽菜の表情が少し和らいだ。
「祖母の形見なんです。とても大切にしていたもので……」
陽菜は顔を上げた。その瞳には、先程までの不安とは違う、強い意志の光が宿っていた。
「探してほしいものがあるんです。このスプーンと一緒に、祖母がずっと大切にしていたはずの手帳……幻の紅茶のレシピが書かれている、たった一冊の手帳を、見つけていただけますか?」
怜の目は、陽菜の顔と、テーブルの上のティースプーンとを往復した。彼女自身は、彼の美学とは相容れない。だが、彼女が持ち込んだこのスプーンは、真実の美しさを宿している。この美しいスプーンの持ち主が遺したという手帳。それは、果たしてどんな物語を秘めているのだろうか。
怜は、無秩序な依頼人が持ち込んだ、完璧な美しさを持つ謎に、抗いがたい興味を引かれている自分に気づいていた。彼は短く息を吐くと、組んでいた指を解いた。
「よろしいでしょう。その依頼、お受けします」
冷たい声色とは裏腹に、怜の心の中では、静かな好奇心の炎が確かに灯り始めていた。
こうして、潔癖探偵・一条怜と、少しがさつなパティシエの卵・葵陽菜の、ちぐはぐな調査が幕を開けたのだった。
◇◯◇◯◇
「まず、お祖母様の基本情報をお伺いします。お名前、ご逝去された日、そして、その手帳がなくなったと気づかれた経緯を、時系列に沿って正確に」
翌日、再び『Antiqua』を訪れた陽菜に対し、怜は事務的に切り出した。彼の前には真新しいノートと、寸分の狂いもなく削られた鉛筆が置かれている。陽菜はごくりと喉を鳴らし、記憶を辿るように話し始めた。
祖母の名前は、
「祖母は、小さな喫茶店を営んでいました。私がパティシエを目指すようになったのも、お店で美味しそうにケーキを食べるお客さんの顔と、祖母の優しい笑顔を見て育ったからです」
陽菜の声は、祖母を語る時、温かい色を帯びた。
「そのお店の看板メニューが、季節ごとに変わるブレンドティーでした。中でも『勿忘草』と名付けられた紅茶は、春にしか出さない特別なもので……本当に、言葉にできないくらい、いい香りがするんです。でも、そのレシピだけは、誰にも教えてくれませんでした。大事な手帳にだけ書き留めてあるんだって、いつも言っていて」
静子が亡くなった後、陽菜は遺品整理のために祖母が暮らしていた家を片付けた。店の権利や通帳など、大切なものはすぐに見つかった。しかし、陽菜にとって何よりも大切なその手帳だけが、どこにもなかったのだ。
「家の中は、隅から隅まで探しました。でも、見つからなくて……。親戚にも聞きましたが、誰も知りません。祖母は、あの手帳を肌身離さず持っていました。なくなるなんて、どうしても考えられないんです」
怜は、陽菜の話を黙って聞きながら、要点をノートに書き留めていく。彼の文字は、印刷された活字のように整然と並んでいた。
「最後にその手帳を目にしたのはいつですか」
「ええと……半年くらい前、でしょうか。祖母が、居間の机で手帳に何か書き込んでいたのを覚えています」
「お祖母様の交友関係は?特に、親しくされていた方は」
「昔からのご友人が何人か……。でも、最近は足が遠のいていたみたいです。一番仲が良かったのは、お隣に住んでいた、小野さんという方でした」
怜はペンを置いた。
「よろしい。では、まずはお祖母様が暮らしていた家と、その小野さんとやらにお話を伺いましょう。ご案内を」
祖母の家は、神楽坂から少し離れた、昔ながらの商店街が残る静かな住宅街にあった。木造二階建ての、少し古びた家。庭には、今は花をつけていないが、手入れの行き届いた薔薇の木が植えられていた。
陽菜が鍵を開けて中に入る。空気が止まったような、ひんやりとした静けさが二人を迎えた。怜は玄関先でぴたりと足を止めると、持参した革鞄から、使い捨てのスリッパと、医療用の薄いゴム手袋を取り出し、慣れた手つきで装着した。その流れるような仕草に無駄がなく、陽菜は思わず見入ってしまう。
「……用意周到、なんですね」
「当然です。現場の汚染は、調査の基本を揺るがします。憶測や感傷は、真実を濁らせるノイズに過ぎない」
怜は、まるで未知の惑星に降り立った探査機のように、慎重に家の中を観察し始めた。陽菜が「もう何度も探したんですけど……」と呟くが、怜は意に介さない。
彼の調査は徹底していた。本棚の本は一冊ずつ抜き取り、ページの間を確認する。箪笥の引き出しは、底板を外し、裏側まで調べる。陽菜が「そんなところに!?」と驚くような場所まで、怜は淡々と、しかし執拗に調査を進めていく。その集中力は凄まじく、陽菜はただ圧倒されるばかりだった。
「……あなた、本当に探偵なんですね」
「それ以外の何に見えるというんですか」
怜は、キッチンの戸棚の奥から、古い缶を取り出しながら答えた。その時だった。怜が調べていた戸棚の天板から、ぱらぱらと黒いものが落ちてきた。長年の油と埃が混じった塊だ。そのいくつかが、怜の寸分の隙もなく整えられた黒髪に、そして寸分の汚れも許さないスーツの肩に、はらりと落ちた。
怜の動きが、凍りついたように止まった。
陽菜は「あ!」と声を上げると、咄嗟に手を伸ばし、怜の肩に落ちた埃を払おうとした。
「触るな!」
怜の鋭い声が、静かな室内に響いた。それは拒絶というより、悲鳴に近い響きだった。陽菜の手は、怜に触れる寸前で、行き場をなくして空中に停止する。
怜は、まるで猛毒の蟲でも振り払うかのように、自身の肩を素早く、しかし乱暴に払い、ハンカチで神経質に拭った。その顔は蒼白になり、眼鏡の奥の瞳が、コントロールできない嫌悪に揺れている。呼吸が浅く、速くなっているのが陽菜にも分かった。
「……すみません」
「……」
怜は何も答えない。ただ、固く唇を結び、忌々しげに床を見つめている。彼の内側で、激しい嵐が吹き荒れているようだった。
陽菜は、自分がしでかしたことの大きさに気づき、胸がちくりと痛んだ。彼の潔癖さが、単なる綺麗好きなどというレベルではないことを、今、はっきりと理解した。それは彼の心を守るための、痛々しいほどに分厚い鎧のようなものなのかもしれない。
気まずい沈黙が流れた。怜はしばらくその場で動かなかったが、やがて深く息を吸い込むと、無理やり平静を取り繕うように、何事もなかったかのように調査を再開した。しかし、彼の動きは先程よりもぎこちなく、どこか苛立っているように見えた。
結局、家の中から手帳は見つからなかった。
「……やはり、ありませんでしたね」
陽菜が力なく呟く。
「家の中にないことは分かりました。それはそれで一つの成果です」
怜は手袋を外してゴミ袋に捨てながら、冷ややかに言った。
「次は、隣家の小野さんです」
隣の小野家は、静子の家と同じくらいの年月が経っていそうな家だった。呼び鈴を鳴らすと、人の良さそうな笑顔を浮かべた初老の女性、
「あら、陽菜ちゃん。どうしたの?」
「こんにちは、小野さん。少し、祖母のことでお伺いしたいことがあって。こちらは……探偵の一条さんです」
陽菜の紹介に、和江は目をぱちくりさせた。
「探偵さん?まあ、一体何事?」
事情を説明すると、和江は快く二人を居間に通してくれた。麦茶を出され、怜がそれに一切口をつけようとしないのを、陽菜はハラハラしながら見守った。
「静子さんの手帳ねえ……。ええ、知ってますよ。いつも大事そうに持っていましたからね。綺麗な刺繍のカバーがかかった、分厚い手帳」
「その手帳に、何か心当たりはありませんか」
怜が静かに尋ねる。
「さあ……。あの方が亡くなる少し前、一度だけ、手帳を眺めながら泣いていたのを見たことがあるのよ」
「泣いていた?」
陽菜が驚いて聞き返した。
「ええ。『もう一度、あの紅茶を淹れてあげたかった』って……。誰のことかは教えてくれなかったけど、きっと、手帳に関係のある、大切な人のことだったんでしょうね」
和江の話は、それ以上の進展をもたらさなかった。
帰り道、夕暮れの商店街を歩きながら、陽菜は俯いていた。
「すみません、私のせいで……調査、やりにくかったですよね」
「……事実です」
怜は前を向いたまま、簡潔に答えた。その声にはまだ棘がある。
「でも、あの……ありがとうございました。私一人じゃ、あんな風に隅々まで調べること、できませんでしたから」
陽菜がそう言うと、怜は不意に足を止めた。そして、陽菜の方を振り向く。その表情は相変わらず涼やかだったが、彼の目が、先程までとは違う光を宿していることに陽菜は気づいた。
「一つ、訂正を」
「え?」
「今日の調査の成果は、ゼロではありません。家の中になかった、ということは、お祖母様が誰かに手帳を渡したか、あるいは家の外で失くした可能性が高いということ。そして……」
怜は、わずかに視線を泳がせた。
「あなたが、お祖母様を深く愛していることが分かった。それもまた、重要な情報です」
そう言い放つと、怜は再びくるりと背を向け、歩き出した。夕日が彼の背の高いシルエットを、くっきりと道に落としている。
陽菜は、その場に立ち尽くした。怜の予期せぬ言葉が、胸の中でじんわりと温かく広がっていくのを感じていた。潔癖で、冷たくて、何を考えているか分からない人。でも、この人は、ちゃんと見ている。物事の、そして人の、本質を。
ちぐはぐで、ぎこちなくて、失敗ばかりの初日の調査。それでも、陽菜の心には、一条怜という探偵に対する、確かな信頼感が芽生え始めていた。
◇◯◇◯◇
調査二日目。
怜は、静子が営んでいた喫茶店『憩いの木』の常連客リストと、古い日記を手に入れていた。それらは陽菜が家の片付けの際に見つけ、重要ではないと判断して段ボールに仕舞い込んでいたものだった。
怜は『Antiqua』の完璧に整頓されたデスクで、まるで古代の文献でも解読するかのように、それらを一枚一枚、丹念に調べていた。
「このリストの中に、特に親しかった方はいませんか。毎週同じ曜日に来ていたとか、閉店間際に長話をしていたとか」
「うーん……皆さん、祖母とは仲良くしてくださってましたけど……」
陽菜はリストを覗き込みながら首を捻る。その時、一つの名前に目が留まった。
「あ……藤代さん。藤代時計店の、ご主人です。祖母が亡くなる少し前まで、よくお店に来てくださっていました。いつもカウンターの端に座って、静かに本を読んで……祖母と時々、楽しそうに話をしていました」
「藤代……」
怜は、その名前をノートに書き留めた。
「その時計店はどこに?」
「商店街の、一番端の方です。とても古いお店で……」
怜は立ち上がった。
「行きましょう」
藤代時計店は、まるで昭和の時代から取り残されたかのような、趣のある店だった。ショーウィンドウには、止まったままの振り子時計や、革ベルトの傷んだ腕時計が並んでいる。
店に入ると、チリン、と懐かしいドアベルの音が鳴った。
奥から、白衣を着た、白髪の老人が姿を現した。穏やかそうな、しかし、どこか寂しげな瞳をした人だった。彼が藤代さんだろう。
「いらっしゃいませ。……おや、君は確か、静子さんのお孫さん」
藤代は陽菜を見ると、少し驚いたように目を細めた。
「ご無沙汰しております、藤代さん。こちらは探偵の一条さんです。祖母のことで、少しお話を……」
陽菜が事情を説明すると、藤代は静かに頷き、二人を店の奥の小さな応接スペースへと通してくれた。そこには、時計の部品や工具が整然と並べられ、独特の油の匂いがした。
怜が、わずかに眉を寄せたのを陽菜は見逃さなかった。
「静子さんの手帳、ですか。ええ、存じておりますよ。あの方が、ご自身の命と同じくらい大切にされていたものですからな」
藤代は、遠い目をして語り始めた。彼が静子の店に通うようになったのは、もう二十年も前のことだという。
「妻に先立たれて、気が滅入っていた私を、静子さんの紅茶はいつも慰めてくれました。特に、春に出される『勿忘草』……。あれは、ただの紅茶ではなかった。飲むと、忘れていたはずの温かい記憶が、胸に蘇ってくるような、魔法の紅茶でした」
その言葉に、陽菜は胸が熱くなった。祖母の紅茶が、こんな風に人の心を温めていたことを、改めて知ったからだ。
「その手帳を、祖母が誰かに渡した可能性について、何かご存じありませんか」
怜が核心を突く質問を投げかけた。
藤代は、少しの間、黙り込んだ。そして、何かを決心したように、ゆっくりと口を開いた。
「……静子さんには、心に決めたお方がいた。ずいぶん昔の話ですがね」
陽菜は息を呑んだ。祖父は、陽菜が生まれる前に亡くなっている。祖母が再婚することはなかったし、そんな素振りは一度も見せたことがなかった。
「その方は、静子さんの喫茶店の常連で、絵描きだったそうです。しかし、ご両親の反対で、二人は結ばれなかった。彼は、夢を追って遠い街へ行ってしまった……。静子さんは、ずっとその方を待ち続けていたのです。いつか彼が帰ってきた時に、最高の紅茶を淹れてあげられるように、と。その想いが、あの一冊の手帳に詰まっている」
藤代の話は衝撃的だった。陽菜の知らない、祖母の秘められた恋。
「その方の、お名前は……」
「……それは、私からは申し上げられません。静子さんの大切な秘密ですから」
藤代は、そう言って固く口を閉ざしてしまった。
時計店からの帰り道、陽菜は混乱していた。祖母の恋。手帳の秘密。情報が増えたようで、かえって謎は深まったように感じられた。
「一条さん、どうしましょう……」
「……焦る必要はありません。糸は、繋がりつつあります」
怜は、珍しく落ち着いた声で言った。
その時、不意に空が暗くなり、大粒の雨が降り始めた。天気予報にはなかった、突然の夕立だった。
「わっ!」
二人は慌てて近くの店の軒下に駆け込んだ。雨は、あっという間に地面を叩きつけるような豪雨になる。陽菜は、トートバッグを抱きしめて雨粒から守った。
「すごい雨……。これじゃ、身動きが取れませんね」
陽菜が隣の怜を見上げると、彼は忌々しげに、スーツの袖についた雨粒をハンカチで拭いていた。やはり、この人は……。そう思った時だった。
ザアアッという激しい雨音に混じって、小さな鳴き声が聞こえた。見ると、軒下の隅で、段ボールに入れられた小さな子猫が、雨に濡れて震えている。おそらく、誰かが捨てたのだろう。
「子猫……」
陽菜は、思わず駆け寄った。子猫は、か細い声で鳴きながら、陽菜の手を怖がるように身を縮こませる。雨が吹き込み、段ボールはぐっしょりと濡れてしまっている。このままでは、体温が奪われてしまうだろう。
「どうしよう、このままじゃ……。そうだ、私のカーディガンで……」
陽菜が羽織っていたカーディガンを脱ごうとした、その時だった。
すっと、怜が隣にしゃがみ込んだ。その長い脚を折り曲げる優雅な動きに、陽菜は目を奪われる。そして、怜は躊躇した。ほんの数秒、雨に濡れそぼる不潔な子猫と、塵一つない自分のスーツとの間で、彼の瞳が激しく揺れるのを陽菜は見た。彼の潔癖という名の鎧と、彼自身の美学がせめぎ合っているようだった。
やがて、彼は何かを決断するように小さく息を吐くと、何の躊躇いも見せずに、彼が着ていた上等なスーツのジャケットを脱いだ。そして、それでそっと子猫を包み込んだのだ。
「え……一条、さん?」
陽菜は目を疑った。潔癖で、汚れを何よりも嫌うこの人が。雨に濡れ、泥が跳ねるかもしれない道端で、捨て猫を、自分のジャケットで。信じられない光景だった。
怜は、陽菜の驚きなど気にも留めない様子で、子猫を優しく抱き上げる。子猫は、ジャケットの温かさに安心したのか、おとなしく身を委ねていた。
「……一時的な保温です。このままでは衰弱する。近くに動物病院はありますか」
彼の声は、いつも通り冷静さを装っていたが、どこか硬い。
「あ、は、はい!この先の角を曲がったところに!」
怜は、ジャケットで子猫を包んだまま、静かに立ち上がった。その横顔は、雨に濡れていたが、陽菜には、今まで見たどんな彼の表情よりも、美しく、そして優しく見えた。
この人は、ただ潔癖なだけじゃない。彼の中には、彼だけの譲れない「守るべきもの」の基準があるのだ。そしてそれは、か弱く、美しい命も含まれている。
陽菜は、激しく降る雨の中で、怜という人間の、硬い甲羅の下にある柔らかな部分に、確かに触れた気がした。そして、自分の胸が、トクンと大きく音を立てたのを、はっきりと感じていた。
◇◯◇◯◇
動物病院で子猫を預けた後、雨が小降りになるのを待って、二人は『Antiqua』に戻った。
怜は無言でシャワールームに消え、しばらくして、寸分の乱れもない別のスーツに着替えて現れた。まるで先程の出来事が幻だったかのように、彼はいつもの「潔癖探偵」に戻っていた。
「ジャケット、汚れてしまいましたよね。クリーニング代、お支払いします」
陽菜が申し訳なさそうに言うと、怜は「不要です」と短く答えた。
「それより、先程の話の続きを」
彼は何事もなかったかのように、思考を事件へと切り替える。
「お祖母様の秘めた恋。相手は絵描き。しかし、名前が分からない。手詰まり、ですか」
「そんな……」
陽菜は落胆の声を上げた。
「いいえ。ヒントは、むしろ増えました」
怜は、静かに首を振った。
「藤代氏は、名前を『言わなかった』。それは、彼が名前を知っている証拠です。そして、彼は静子さんの秘密を守ろうとしている。つまり、彼は静子さんにとって、それだけ信頼できる友人だったということです」
怜は、ノートに書き留めたキーワードを指でなぞる。
「『喫茶店』『時計店』『絵描き』『勿忘草』……そして、藤代氏が語った『忘れていたはずの温かい記憶が蘇る』という言葉。紅茶に、何か記憶を呼び覚ます効果があったとすれば……」
怜は、そこで言葉を切ると、窓の外に視線を向けた。雨上がりの空は、澄んだ紫色に染まっている。
「葵さん。お祖母様の日記を、もう一度、詳しく見せていただけますか」
陽菜が差し出した古い日記を、怜は再び手に取った。先程よりもずっと集中した目で、ページをめくっていく。それは、日々の出来事が淡々と綴られた、何の変哲もない日記に見えた。
「……あった」
怜が、あるページで指を止めた。それは、三十年以上も前の日付のページだった。
『藤代さんの奥様が、古い柱時計を譲ってくださった。チクタクと優しい音がする。彼が、この音を好きだと言ってくれたことを思い出す。いつかまた、二人でこの音を聞ける日が来るだろうか』
怜は、その一文を陽菜に示した。
「『彼』。おそらく、この絵描きの男性のことでしょう。そして、重要なのは『柱時計』です。藤代氏は時計店の店主。奥様が時計を譲った……つまり、藤代夫妻と、お祖母様は、単なる店主と客以上の、親しい関係だったと考えられます」
「でも、藤代さんは何も……」
「彼は、静子さんの秘密を守りたかった。だから、核心には触れなかった。しかし、彼は我々にヒントを与えてくれたのかもしれません。『時計』というヒントを」
怜の目が、鋭く光った。
「藤代氏の店です。もう一度、行く必要があります。彼が守っている秘密は、おそらく、あの店の中にあります」
陽菜は、怜の推理の速さに圧倒されながら、強く頷いた。
再び訪れた藤代時計店。店主の藤代は、二人の姿を見ると、驚いたような、それでいて、すべてを察したような複雑な表情を浮かべた。
「藤代さん。単刀直入にお伺いします」
怜は、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで切り出した。
「あなたは、葵静子さんが恋した絵描きの男性の、正体をご存じですね?」
藤代は、観念したように、深く長い溜息をついた。
「……敵いませんな、探偵さん。ええ、存じておりますよ。そして、その手帳のありかも」
彼は、店の奥へと二人を導いた。そこには、壁一面に、古い柱時計がかけられていた。その中央に、ひときわ大きく、美しい彫刻が施された時計があった。
「これは、妻が静子さんに譲ったものです。そして、静子さんが亡くなる少し前、私に『預かっていてほしい』と、持ってこられた」
藤代は、その柱時計のガラスの扉を、そっと開いた。そして、振り子の裏側に隠されていた、一冊の古い手帳を取り出した。表紙には、忘れな草の刺繍が施されている。陽菜がずっと探していた、祖母の手帳だった。
「どうして、これを……」
陽菜が、震える声で尋ねる。
「静子さんは、自分の死期を悟っていたのでしょう。そして、この手帳を、陽菜さん、あなたに託したかった。しかし、ただ渡すだけでは、そこに込められた想いは伝わらないかもしれない、と。だから、信頼できる私に預け、いつかあなたが『本当の意味で』この手帳を必要とした時に、渡してほしい、と」
藤代は、手帳を陽菜に差し出した。
「そして、もう一つ。静子さんが待ち続けた絵描きの男性……その人が誰なのかも、この時計が知っています」
藤代は、時計の文字盤の裏側を指差した。そこには、小さな文字で、サインが刻まれていた。
『S.F.』
「S.F. ……?」
「静子さんの、旧姓をご存じかな」
藤代が、優しく尋ねた。
「え……?たしか、古川、だったと……」
「そう、古川静子。そして、私の名前は、
陽菜は、はっと息を呑んだ。S.F.は、宗一郎・藤代。
「まさか、藤代さんが……?」
藤代は、静かに、そして少し寂しそうに微笑んだ。
「……若い頃、私は絵描きを目指していました。そして、彼女の喫茶店で、彼女の淹れる紅茶を飲みながら、絵を描くのが何よりの幸せでした。私たちは、将来を誓い合った。しかし、私の両親に猛反対され……私は、夢も恋も諦めて、この時計店を継いだ。そして、別の女性と結婚したのです」
それは、あまりにも切ない、長い年月の果ての告白だった。
「静子さんは、ずっと、私のことを……。そして、私の妻も、すべてを知った上で、静子さんと友人として付き合ってくれていた。二人には、頭が上がりません」
藤代は、手帳を持つ陽菜の手に、そっと自分の手を重ねた。
「陽菜さん。静子さんは、あなたにパティシエとして、自分の夢を託したかったのです。そして、人を愛し、待ち続けることの尊さを、伝えたかった。この手帳は、そのためのものです。開いて、彼女の想いを、受け取ってあげてください」
陽菜は、涙で滲む視界の中で、強く頷いた。手にした手帳が、ずしりと重く、そして温かく感じられた。それは、祖母が生きた証そのものだった。
隣で静かに話を聞いていた怜は、何も言わなかった。ただ、彼の涼やかな横顔が、いつもより少しだけ、優しく見えたのを、陽菜は見逃さなかった。すべての謎が解け、長い間止まっていた物語の針が、今、静かに動き出した。
◇◯◇◯◇
『Antiqua』に戻った時、窓の外はすっかり夜の闇に包まれていた。怜は、店の照明を落とし、テーブルの上に小さなランプだけを灯した。琥珀色の光が、静かな室内に温かい影を落とす。
陽菜は、テーブルの上に、祖母の手帳をそっと置いた。刺繍の施された表紙を、震える指でなでる。何十年もの想いが詰まったこの手帳を開くのに、少し勇気がいった。
「……開けないのですか」
隣に座った怜が、静かに尋ねた。
「……はい。なんだか、祖母の心の奥を、覗き見てしまうようで」
「それは違う」
怜の声は、珍しく断定的だった。
「お祖母様は、あなたに読んでほしかった。だからこそ、藤代氏に託したのです。それは、覗き見などという無作法な行為ではない。遺言を受け取るのと同じ、神聖な儀式です」
怜の言葉に、陽菜は背中を押された気がした。彼女は、ゆっくりと手帳のページを開いた。
そこには、美しいインク文字で、紅茶のレシピがびっしりと書き込まれていた。茶葉の種類、配合、蒸らしの時間、お湯の温度。そして、それぞれのレシピには、その紅茶にまつわる短い詩や、思い出が添えられていた。
ページをめくるたびに、陽菜の知らない祖母の姿が浮かび上がってくる。恋に悩み、夢に焦がれ、日々の小さな出来事に喜びを見出す、一人の女性としての静子。
そして、最後のページに、『勿忘草』のレシピは記されていた。
ブレンドされるのは、ダージリンのファーストフラッシュ、そして、微量のラベンダーと、カモミール。特筆すべきは、隠し味として、極めて少量の岩塩を加える、という一文だった。
『塩は、涙の味。悲しい記憶も、切ない思い出も、すべてを優しく包み込み、甘さを引き立ててくれる魔法。いつか、愛しいあなたが帰ってきた時、これまでの涙をすべて喜びに変える、そんな一杯を淹れてあげたい』
レシピの最後は、そんな言葉で締めく括られていた。
陽菜の頬を、一筋の涙が伝った。祖母は、藤代のためだけに、この紅茶を作り上げたのだ。叶わなかった恋の、涙の味が、この魔法の紅茶の秘密だった。
「……すごい。おばあちゃん……」
陽菜は、涙を拭うと、顔を上げた。その顔は、悲しみではなく、誇らしさと、決意に満ちていた。
「一条さん。私、この紅茶を淹れてもいいですか。ここで」
怜は、静かに頷いた。
「ええ。そのために、準備は整えてあります」
見ると、カウンターの上には、怜が選び抜いたであろう、完璧なフォルムのティーポットと、二客のティーカップ、そして、レシピにあったすべての茶葉とハーブが用意されていた。
陽菜は立ち上がると、カウンターの中に入り、心を込めて紅茶を淹れ始めた。お湯を沸かす音、茶葉がポットの中でゆっくりと開いていく香り。その一つ一つが、今は亡き祖母との対話のように感じられた。
やがて、琥珀色の美しい液体が、カップに注がれる。立ち上る湯気と共に、ラベンダーとカモミールの甘く優しい香りが、店内にふわりと広がった。それは、陽菜が子供の頃から知っている、祖母の喫茶店の香りだった。
陽菜は、二つのカップをトレイに乗せ、怜の前に運んだ。一つを彼の前に、もう一つを自分の前に置く。
「どうぞ。これが、祖母の『勿忘草』です」
怜は、カップに注がれた紅茶の色を、その香りを、まるで美術品でも鑑定するかのように、静かに味わっていた。そして、ゆっくりとカップに手を伸ばす。
その時、陽菜は息を呑んだ。
怜が、いつも彼の指を覆っている純白の手袋を、ゆっくりと、外したのだ。露わになったのは、日に当たらない、色の白い、骨張った長い指だった。それはまるで、ピアニストか外科医のように繊細で、美しい指だった。
彼は、その素手で、温かいティーカップをそっと持ち上げた。彼にとって、それはきっと、世界に直接触れるに等しい、覚悟のいる行為なのだろう。陽菜は、その仕草から目が離せなかった。
そして、怜は一口、静かに紅茶を含む。
陽菜は、心臓の音が聞こえそうなくらい、緊張して彼の反応を待った。
長い沈黙の後、怜はカップをソーサーに戻した。そして、陽菜の目をまっすぐに見つめた。彼の瞳は、夜の湖のように深く、静かだった。
「……美味しい」
その一言は、いつもの冷たい響きではなく、心の底から漏れたような、温かい音色をしていた。
「とても、美しい味がします」
その言葉を聞いた瞬間、陽菜の目から、堪えていた涙が溢れ出した。嬉し涙だった。祖母の想いが、この潔癖で美しい探偵に、確かに届いたことが、自分のことのように嬉しかった。
怜は、何も言わず、ただ静かにそこに座っていた。彼が手袋を外したままの手で、もう一度カップを持ち上げるのを、陽菜は涙で滲む視界の向こうに見ていた。
硬い蕾が、ゆっくりと綻び始めるように。凍てついた湖の氷が、春の日差しに融け始めるように。一条怜の世界が、ほんの少しだけ、変わった瞬間だった。
依頼は終わった。しかし、忘れな草の紅茶が繋いだ、潔癖探偵とパティシエの卵の物語は、今、静かに始まったばかりなのかもしれない。
ランプの灯りが、二人の姿を優しく照らしていた。
潔癖探偵と勿忘草のティースプーン 成海。 @Naru3ta
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