雨色の花屑

夏目凪

雨色の花屑

 春はひたりとやってくる。そうして知らぬ間に轍すらなくなり通り過ぎる。苺の甘さも要は夏的な明るさを用いて舌を痺れさせるので、私にとっては春らしさを捨てた春の象徴だった。はたまた、桃色の光が落ちる季節であった。それは桜の花びらである。その輪郭に虹色を抑えられている。プリズムのように光を透過して、鮮やかさを叫んでいるのである。

 けれどそんな春らしい春などなく、冷たい大粒の雨が薄青のビニール傘を叩いて、靴の裏側にへばりついた冬が治りきらない霜焼けを刺激してくる。出会いと別れの季節はまるいのではなく尖っていた。今日はそんな春。

 雨は大抵どの季節も煩わしい。梅雨の時期の小雨で、例えば一切家から出ないリモートワークを推奨している会社に勤めているならば、雨の音だけが響く部屋というのも快適だろう。けれど私は学生で、登校が義務であるのだからやはり雨というものの煩わしさを全面に受け取っていた。

 漸く雨で良かったと思ったのは、灰色の空の下で濡れた黒い塊を見つけたときだった。貴方は水を滴らせて、重いものに潰されそうになっているように見えた。きっかけに手を伸ばす覚悟すらない私に、貴方が振り向いたとき、勝利の女神様なんてものを信じた。日本人の殆どが無宗教で、私も例に漏れずそうなのであるが、それでも都合の良い精神体を生み出した。それほどの衝撃と歓喜だった。

 傘入る、なんて柄にもないことを聞いた。少し戸惑って、控えめに頷いた姿が頼りなさげで嬉しかった。傘を貴方の方へ傾ければ、気まずそうな顔をするから、じゃあ持って、なんて言った。他人の良心の呵責を引き受けるのは嫌だけれど、貴方のものならば進んで受け取りたかった。

 足を進める度に地面の水が跳ねる。踵を地面に下ろすときは耐えているのに、つま先を下ろすと靴の上面や脛辺りを濡らす。濡れたところが風に曝されて痛みを発する。普段ならば諦めるそれにも細心の注意を払った。貴方の方へ跳ねさせるわけにはいかなかった。貴方はもう充分濡れたのだから、これ以上は蛇足だった。

 会話はあまりなかった。沈黙が心地よい関係でもなんでもなく、ただお互いに気恥ずかしかった。貴方の口は何かを言いたげに動かされていて、私はそれを見て口角が上がった。気まずいとも取れる時間すら暖かかった。貴方の傍でだけ再来した冬から春が守られているようだった。

 貴方の顔をずっと見ているのも違和感を持たせてしまうから、傘の持ち手を握る手を見つめた。貴方の手が好きだった。バレーのときに、優しくトスを上げる手。毎授業ごとにノートに重要なところを書き留める手。生物の授業中に豚の腎臓を切り開く手。少し太くて角ばっていて、不器用なところもある貴方の手。何をするにもその手が好きだった。

 それに自嘲してやはり気持ち悪いなと思った。オタクの言う男らしい角張った手がエロいという視点よりも、具体性という点において気持ち悪さを凌駕している。露見すれば今まで話してくれていた人すらいなくなるのではないかと思うほどに、私は貴方を見ていた。見てきたのだ。そこまで考えて、私は手を握りしめた。切り忘れた爪が手のひらの中央に跡を残すほど握りしめていた。

 溜息を吐いた。一度思考を止めるべきだ。こんなにも後ろ向きに考えていると、いつか暴走してしまいそうだった。ダイヤモンドのようなのだ。とても硬くて、多少のことではびくともしないけれど、柔軟性のあるものに強く一点を突かれたら、きっと壊れてしまう。隠している想いも、黒いものに変化してしまう。だから、悪い方に転がっていく思考は止めるべきなのだ。ただ好きと思うだけで成立するような恋の形でなくてはだめなのだ。


 校門から少し行ったところにある満開の桜の傍を通る。雨は木の枝々や花々に遮られて、代わりに花吹雪が降ってきた。そこで漸く貴方が笑ったので、冬に埋もれた春の欠片が途端に愛おしく思えた。雨の音も耳から遠ざかっていき、そこに隠れた貴方の吐息を感じた。クラスの誰かに聞かれたら気持ち悪いと言われるのかもしれないけれど、それほどまでに心中を占めていた。一挙手一投足を見逃したくなかった。

 瞼によって遮られる視界さえ煩わしく、人間を一面からしか見ることが出来ないことが惜しく思える。四次元の高次生命体であれば、貴方を余す所なく愛すことだってきっと出来た。次元の隔たりがあれば、なんて思うのは驕りだろうか。人間は二次元の推しを見て、その世界に生まれたかったと言うのだから。

 桜はよく貴方に似合っていた。夕焼けや快晴を背景にした貴方も素敵だけれど、暗い中でも桜さえ背負えばそこはもう桃源郷の一歩手前だった。貴方がいるからで、桜の散りざまに頼るところも大きかった。

 桜が綺麗だね。そう言葉にしようとして口を噤んだ。沈黙が落ち込んだ場所で話しかけることは、一人でいる貴方に話しかけるよりも難しいことだった。だから右手で左手の袖口を掴んだ。袖を弄るということで暇を潰すしか出来なかった。

 桜色とは始まったばかりのピュアな恋の色である。だから、同じ色に染まった貴方の頬を見て、その視線の先だって、きっと私はすぐに気付くのだ。なぜ同じ傘に入っているのだろうか、なんて期待さえかき消すほどの純粋さを貴方は持っていた。だから苦しくて仕方がないのだ。純粋さは尊く、そして凶暴だ。彼の視線の先で一人濡れて帰る誰かが、このまま雨に流されてしまったのならなんて思う私の想いはきっと腐ったさくらんぼのように濁った色をしている。だから、透き通った貴方には相応しくないのだ。だから、貴方はごめんと言って私に傘を返すのだ。

 一つの強い風が吹いた。一つの小枝は冬の雪で限界を迎えていた。一つの軌道は私の傘に落っこちた。

 それは小さな小さな穴を作った。傘として使っていくには問題のない本当に小さな穴。けれど何故か寒かった。きっと全身が濡れた二人の方が寒いけれど、この瞬間私は激しい震えに襲われた。

 傘の持ち手にある私の親指と人差し指の間に雫が一つ落ちた。私も傘を忘れれば良かった。誤魔化せない雫が絶え間なく落ちていた。


 翌日は晴天で、昨日の桜はすっかり散っていた。地面に落ちた花びらが一晩で片付けられるはずもなく、茶色く濁った地面をその桃色が覆い隠している。その一方で、桃色自身ももう鮮明さを失いつつあった。帰る頃には普段通りの地面が広がっていることだろう。

 地面から顔を上げた。その木の先で、手を繋いでいる二人が見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨色の花屑 夏目凪 @natsumenagi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画

同じコレクションの次の小説