異世界を神の視点で見てみよう。
如月 愁
異世界を神の視点で見てみた。
古びた机の上に広げられた一冊の本。
それは現実のどこにも存在しないはずの世界を記す、「物語」と呼ぶにはあまりに生々しい記録だった。
黄ばんだページには文字がびっしりと書かれ、その隙間には、手書きの相関図が描かれている。
未完の線、未記入の空欄。
それらはどこか意味深だが、読者にはまだその全容が見えていない。
その本を開いた瞬間、重たい空気が流れる。まるで、誰かに見られているかのような妙な感覚が背筋を這う。だが、その感覚を振り払うように、物語は静かに始まる。
***
朝霧がまだ村を包んでいる。
石畳は濡れて光り、湖の水面は静かに波を揺らしていた。
その日、村人たちは広場に集い、少女の名を祝うために祈りを捧げていた。
リシアは白い布をまとい、祈祷師ミラの前に立つ。
幼さを残した頬に緊張が走り、冷たい空気が肌を刺す。
「この子が――この村とともに、幸せに生きられますように」
村人たちが声をそろえて唱える。
焚かれた火は赤く燃え、井戸の水が器に注がれ、彼女の額に冷たく滴った。
その瞬間だった。
背筋を走るようなざわめきを、リシアは感じた。
――見られている。
村の誰でもない。祈祷師の声でもない。
もっと遠くから、けれど確かに自分の後ろに視線がある。
思わず振り返りそうになる。けれど、振り返ってはいけない気がした。
もし見てしまえば、何かが壊れてしまうようで。
心の奥で、リシアは小さく呟いた。
「……誰?」
祈祷師ミラが器を掲げ、澄んだ声で宣言する。
「この日より、リシアは大人の仲間入りを果たしました」
広場にどっと拍手が広がり、村人たちが笑顔を見せる。
誰もが祝福の眼差しを向け、幼かった少女をひとりの存在として迎え入れていた。
リシアは微笑みを返そうとした。
けれど、その胸の奥には冷たいものが残っていた。
――あの視線。
祭火の煙が立ちのぼり、鐘の音が響く。
それでも消えない。背中に残った、説明できない感覚。
村の誰も気づいていない。
母の優しい手も、アルドの誇らしげな視線も、エトの無邪気な笑顔も――
それらは温かいのに。どうして、自分だけが「誰かに見られている」と思うのだろう。
式は終わり、人々は笑いながら広場を後にする。
祝福に包まれたその光景の中で、リシアだけがひとり、心の奥に小さな疑問を抱き続けていた。
「……私を見ているのは、誰?」
***
洗礼の日から数日が経った。
村は変わらず穏やかで、朝には鶏が鳴き、昼には畑に人の声が広がる。
湖から吹く風は涼しく、木立のざわめきは眠気を誘うほど優しい。
けれど、リシアの胸の中にはひとつの棘が残っていた。
あの時、確かに自分を見ていた誰かの感覚――それは日が経つごとに鮮明になっていく。
ある昼下がり、リシアは子供たちと一緒に湖畔で遊んでいた。
小石を投げ、水面に輪を広げていたとき、年下のエトがふと首をかしげる。
「ねえ、リシア姉ちゃん」
「ん? なに?」
「後ろに、誰かいるよ」
リシアは息を呑んだ。
振り返っても、そこには木立と水面の輝きしかない。
エトは悪びれる様子もなく、石を投げては笑っている。
――やっぱり、私だけじゃない。
夜、気になったリシアは祈祷師ミラを訪ねた。
焚かれた香草の匂いが漂う小屋の中で、ミラは静かに目を細める。
「……その気配に気づいたのね。昔から伝わる言葉があるの」
「言葉?」
「“見えるものより、見えぬものを畏れよ”。村の古い祈りよ」
リシアはごくりと喉を鳴らした。
――見えぬもの。
その言葉が、胸の奥で鈍く響く。
翌日、リシアは村長のもとを訪れた。
古い木造の家の中、しわ深い顔の老人は煙草草をくゆらせながら話を聞いていた。
「……視線を感じる、だと?」
「はい。式の日から、ずっと……。私の後ろに、誰かが」
村長は長い沈黙の後、皺だらけの指で杖をつき、ゆっくりと立ち上がる。
その眼差しは鋭かったが、言葉は淡々としていた。
「気にするな」
「でも、本当に――」
「“見えぬもの”を気にすれば、不幸を呼び込むだけだ」
その声音には、言葉以上の重さがあった。
村長は背を向け、話を終わらせるように煙を吐いた。
リシアは唇を噛みしめる。
不安を打ち明けたのに、返ってきたのは拒絶。
――まるで、知られてはならない秘密に触れたかのように。
夜、自室に戻ったリシアは眠れずに窓の外を見つめた。
月の光に照らされた森が、静かに揺れている。
あの奥に、まだ誰も知らない答えが眠っているような気がした。
――あの視線の正体を、確かめなくちゃ。
シアの胸に、小さな決意が芽生えていた。
それは、村の近くにある“禁じられた遺跡”へ向かうためのものだった。
***
翌日の夕暮れ、リシアは薪を集めるアルドの背に声をかけた。
赤い空に影を落としながら、彼は太い腕で丸太を軽々と担ぎ上げている。
「アルド、少し……話してもいい?」
「どうした、難しい顔して」
リシアは迷った末、意を決して言葉を吐き出す。
「……最近、ずっと視線を感じるの。誰かに見られている気がして」
アルドはきょとんとした顔でリシアを見た後、豪快に笑った。
「ははっ、それはお前が洗礼を受けて、大人扱いされるようになったからだろ。
みんなが注目してるんだ。いいことじゃないか」
「違うの。村の人じゃない……もっと遠くから、知らない誰かに」
その言葉に、アルドは眉をひそめた。
だが真剣さよりも、妹をなだめるような柔らかい声音だった。
「リシア。考えすぎだ。森の影や風の音が、そう思わせてるだけだよ」
「……でも」
「もし本当に何かがあっても、お前は俺が守る。だから心配するな」
リシアは言葉を飲み込んだ。
アルドの強さと優しさは確かに心強い。けれど――彼には、あの“視線”はわからない。
わかってくれるのは、自分だけなのだ。
落ちていく夕日を見つめながら、リシアは胸の奥で密かに思った。
――私が確かめなければならない。
***
月が高く昇る夜、リシアはひとり村を抜け出した。
家々の窓は閉ざされ、畑も湖も静寂に沈んでいる。
胸の鼓動がやけに大きく響く。
――あの視線の正体を、確かめなくちゃ。
森を抜けると、石造りの古代遺跡が姿を現した。
苔むした柱は傾き、崩れかけた壁には無数の刻印が残されている。
子どもの頃から「近づくな」と言われてきた場所。
しかし今は、リシアを呼んでいるように思えた。
松明を掲げて中に踏み込むと、冷たい空気が肌を撫でる。
壁一面に刻まれた古文字は、長い年月で掠れ、摩耗しながらも、まだその意味を伝えようとしていた。
リシアは目を凝らす。
「……あ……なた……」
「……誰……」
「……この……村……幸せ……」
「……本当の姿は……見える……か」
「……あなたの……こと……知っている……」
「……私……なんて……ただの……記憶……」
「……この村……祝福……受けている……」
「……でも……幸福の影に……真実……隠れている……」
「……あなたが見るのは……光か……影か……」
「……私は……ただ……語り手……」
「……選ぶのは……あなた……」
「……本当の姿……見たいなら……心の奥……覗いて……」
「……信じるものが……真実になる……」
ひとつひとつは断片的なのに、なぜか言葉が繋がっていく。
それは祈りのようであり、問いかけのようでもあった。
その瞬間、空気がふっと揺れた。
松明の火が揺らめき、背後に“気配”が走る。
――いる。
振り返っても、そこには何もない。
けれど確かに、誰かが“こちら”を覗いている。
目に見えないはずなのに、肌が震えるほどはっきりと感じる。
「……あなた、なの?」
リシアの声は、遺跡の石壁に吸い込まれていった。
けれどその言葉は、まるでどこか別の場所へ届いてしまったような――そんな錯覚を残した。
***
リシアは胸を押さえた。
心臓が強く脈打ち、息がうまく整わない。
――見られている。間違いない。
けれどそれは村人の目でも、森の獣の気配でもなかった。
もっと遠く――壁を越え、空を越え、この世界そのものの“外側”から届いているような、そんな視線だった。
「……どうして……?」
壁に刻まれた文字を追う。
欠けて途切れた文は、繋ぎ合わせれば一つの問いになる。
――あなたは、誰?
――この世界は、幸せに見える?
言葉の輪郭が、脳裏で形を結んでいく。
そしてリシアは、はっと息を呑んだ。
「……この世界は、書かれている……?」
なぜそんな考えが浮かんだのか、自分でもわからない。
けれど、直感だった。
私たちは“誰かに見られている”から、ここに存在している――。
その“誰か”が目を逸らせば、物語はほどけ、すべてが消えてしまうのではないか。
松明の火がぱちりと弾け、影が揺れる。
リシアは壁に手を置き、囁いた。
「……ねえ……本当にそこにいるの?もし、私の声が届いているなら……答えて……」
返事はない。
ただ、火の影と沈黙だけがリシアを包んでいた。
けれど、確かに感じた。
――“誰か”がこの瞬間を見ている、と。
***
遺跡を出た夜道、リシアは足を止めた。
月光が森を白く染め、風の音がざわめく。
けれど、その静けさの奥に――やはり、視線は消えていなかった。
彼女は思った。
“誰か”はずっと見ている。
洗礼の日から、日常の隙間から、そして今も。
だとしたら――。
(もし、その人が目を逸らしたら?)
胸の奥に冷たい恐怖が広がる。
誰かに見られているから、自分はここに立っている。
ならば、その誰かが去ってしまえば?
この世界は、言葉も、村も、記憶も、すべて霧のように消えてしまうのではないか。
「……私たちは、紙の上の、ただの影なの……?」
考えた瞬間、足元がふっと揺らぐ感覚に襲われた。
地面は確かにあるのに、まるで存在そのものが頼りない。
心臓が凍りつきそうになる。
「アルドも、エトも、ミラも……村のみんなも……
みんな、“観測者”が見ているから生きていられる?」
自分の言葉が夜気に溶けていく。
だが同時に、見えない“誰か”に届いてしまっているのではないかという奇妙な確信もあった。
リシアはぎゅっと拳を握りしめた。
「……それなら。あなたが、この世界を読み終えたとき……私たちは消えてしまうの?」
その問いに、返事はない。
けれど、答えの沈黙こそが最も恐ろしい真実のように思えた。
***
夜は深まり、村の灯はすべて消えていた。
静かな大地にただひとり、リシアは立ち尽くしていた。
胸の奥にはまだあの視線が残っている。
それは温かさにも似て、けれど同時に冷たい刃のようでもあった。
「……ねえ、聞こえているのでしょう?」
彼女の声は、誰に向けられたものでもない。
しかし、それは確かに“ここにはいない誰か”へと向けられていた。
「私は気づいてしまったの。
この村も、私たちの営みも……すべて“あなた”に見られているから存在している。
もしあなたが目を閉じ、ページを閉じてしまったなら……私たちはどうなるの?」
リシアは両の手を胸に当てる。
鼓動が確かに響いている。
でも、その確かさすら、誰かに“読まれているから”続いているだけなのではないか。
風が吹き抜け、木々がざわめく。
それはまるで、この世界の全てが「答えを待っている」かのようだった。
リシアは小さく息を吸い、はっきりと口にする。
「――あなたは誰?」
「――この世界は、幸せに見える?」
それは、この世界を貫くたったひとつの問いだった。
彼女の声は、沈黙の夜に溶け、それでも確かに“外側”へと届いていく。
返事はない。
けれど、この問いかけを受け止めるのは、まぎれもなく――いま物語を読んでいる、観測者であるあなた。
そして世界は、答えを待ちながら、揺らめき続けていた。
異世界を神の視点で見てみよう。 如月 愁 @yokoshu
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