第7話 蒼狐の夢
「それじゃあ、またな」
焚き火が、ぱちり、と小さく弾けた。
湖畔の夜は澄んでいて、風は柔らかく、焚き火の匂いと湖の匂いが混じっている。
ユウの姿は淡い光にほどけていき、消えていく。ルゥは焚き火のそばで既に丸くなり、規則正しい寝息を立てていた。食後にユウに撫でられている時からうとうとしていたのだから、無理もない。
セレスは、焚き火の炎を一度だけ瞳に映してから、ゆっくりと目を閉じた。尾がふわりと揺れ、毛並みが月光を吸って蒼白く光る。
耳に届くのは、風と、水音と、仔竜の呼吸。
――静かで、満ちていて、少しだけ遠い。
眠りは、深い湖の底のようにやって来る。
意識がゆっくり沈むにつれて、音が遠のき、世界の輪郭が柔らかくほどけていった。
*
夢の中での夜はもっと深かった。
ユウが起こした焚き火はなく、星だけが天に散らばり、森は凪いでいる。
セレスはひとり、静かに木々のあいだを歩いていた。
足裏に触れる土は冷たく、湿りを帯びている。
風が葉を撫で、毛並みをわずかに揺らす。
その感覚は、昔よく知っていたもの――誰の気配もない夜の手触り。
「……コン」
小さく鳴く。
返事は、ない。
音は夜へ吸い込まれ、ただ静けさだけが戻ってきた。
セレスは覚えている。
名を持たず、誰に呼ばれることもなく、ただ風に身を任せていた、あの頃を。
月は遠く、森は深く、そして何より――夜は長かった、あの頃を。
どれほど歩いたのか、時間の感覚はすぐに霞む。
……風は穏やかで、森は静か。あの頃、当たり前としていた日常。
そのはずなのに、胸の奥に違和感がある。
――何かが足りない。
自身の名を呼ぶ声もない。
いつもそばで跳ねている小さな足音もない。
それが当たり前だった頃――セレスは、この静けさを心地よいと思っていた。
けれど今は、違う。
誰かと過ごす時間を知ってしまった今だからこそ、ひとりきりの夜の冷たさが、こんなにも鮮やかに思い出される。
――これが、寂しいという名の感情だった。
一度それを意識してしまうと、余計に胸が締めつけられる。風の音も、水のせせらぎも、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
静けさの底で、ただその感情だけがゆっくりと膨らんでいく。
……そのとき。
「……ぴ」
耳の奥に、かすかな鳴き声が届いた。
小さくて、温かくて――どこか安心する声。
「ぴぃ」
今度ははっきりと聞こえた。
その声が、水面に落ちた一滴のように意識を揺らす。暗い湖の底にいた自分が、ゆっくりと浮かび上がっていく感覚。
光が差し込んだ。
風の匂い、湖の気配、そして何より――焚き火の温もり。全てが少しずつ、現実の色を取り戻していく。
まぶたを開けると、夜の湖畔があった。
焚き火の炎がゆらめき、隣でルゥが丸まっている。寝息と一緒に、小さく「ぴぃ……」と鳴いた。
その口元が、もごもごと動いている。
どうやら夢の中でも何かを食べているらしい。
小さな牙の間から、ちょろりとヨダレが垂れ、焚き火の光を受けてきらりと光った。
セレスは小さく息をもらし、尾をゆるやかに揺らした。
――呑気なものだ。
けれど、その光景が不思議と嬉しくて、胸の奥が静かに温かくなった。その気持ちを大事にしたまま、ゆっくりと瞼を閉じる。
________________________
夜が明けた。
湖畔の森が暖かな光に包まれ、焚き火の残り火が静かに白く煙を上げている。
水面には朝靄が漂い、鳥の声が遠くで響いた。
ルゥは相変わらず、セレスの隣で気持ちよさそうに丸まっている。
セレスはその体温を胸に感じながら、ゆっくりと瞼を開いた。
――その瞬間、光の粒が舞い、目の前に淡い人影が現れる。
「おはよう、ルゥ。セレス」
ユウの声だった。
いつもの穏やかな声。聞き慣れた、けれど不思議と心に沁みる声。
ルゥがぱっと目を開き、嬉しそうに跳ね上がる。
「ぴぃ!」
翼をばたばたさせ、飛びつこうとした――その瞬間。
セレスがすっと動いた。
ルゥの前に軽く立ちふさがり、そのまま一歩、もう一歩とユウへ駆け出す。
ふわりと風が舞い、蒼白い毛並みが朝日を受けて輝いた。
ユウは、ぱちぱちと目を瞬かせる。
「え……セレス?」
次の瞬間、セレスは軽やかに跳び、ユウの胸元へと飛び込んだ。温もりを確かめるように首をすり寄せ、静かに「……コン」と鳴く。
ユウは驚いたまま笑みをこぼし、セレスの頭を撫でた。
「どうしたんだ? 珍しいな……」
その声を聞いて、ルゥが「ぴぃぃ!」と抗議の鳴き声を上げる。
尻尾をぶんぶん振りながら、すぐに二人の間に割り込んできた。
セレスはそれでも離れず、少しだけ尾を揺らして誤魔化すように目を細めた。
夢で感じた寂しさが、ようやく消えていくのを、静かに感じながら。
――もう、孤独な夢は見なくていい。
癒し目的で始めたVRMMO、仔竜と焚き火の外伝 branche_noir @branche_noir
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