第42話_音楽室に残る旋律

 本館の三階、音楽室の扉を開けると、わずかに冷たい空気が流れ出てきた。昼下がりの光が窓から斜めに差し込み、譜面台や椅子の影を伸ばしている。壁際には古いオルガンとグランドピアノが並び、黒光りする鍵盤が沈黙を守っていた。

  「音響の確認をする。ここは特に記録が多い」

  幸星が扉を押さえながら言った。確かに日誌には、音楽室での怪異報告が幾度となく残されている。誰もいないのに旋律が聞こえた、閉まっている窓から声が漏れた、楽譜が勝手にめくれた――どれも共通して“音”にまつわる出来事だ。

  凛音はピアノの蓋をゆっくり開けた。金属の弦が淡い光を受け、わずかに揺らめく。彼女が軽く鍵盤に触れると、「ポン」と一音が鳴った。だが音の余韻は異様に長く、部屋の隅々まで漂い続ける。

  「響きが……濃い」

  亜衣が小さく呟いた。耳を澄ませると、その余韻が単音から和音に変化しているように聞こえる。

  航大は直ちにメモを取り、

  『単音→和音化/残響=延長』

 と書き付ける。凌は部屋の奥で譜面台を調べ、ページが勝手にめくれる仕掛けがないかを確認した。

  そのとき、窓際のオルガンから「ド…」と低い音が響いた。誰も触れていない。全員が一瞬身構えたが、幸星は手で制し、音の揺れを追う。音は低音から高音へ、階段を登るように変化し、やがて小さな旋律を紡いだ。

  凛音は眉を寄せ、囁く。

  「単なる残響じゃない。……“誰か”が演奏してる」

  その言葉に、亜衣が強く唇を噛んだ。彼女の目は、窓の外に揺れるカーテンへ向かう。風は吹いていないのに布が震えている。

  凌が駆け寄り、布を一気に引いた。だが窓は閉まったままだった。外にはただの空。

  旋律は途切れず続き、今度はピアノの高音が応える。まるで二台の楽器が掛け合いをしているようだ。

  「記録を急げ」

  幸星の声に、ブレンダンがノートを開く。アナリアは震える手で付箋に走り書きをした。

  『旋律=複数楽器

  起点=不明/窓外×』

  凛音が立ち上がり、演奏に合わせて一歩前へ進んだ。

  「……聞いてる相手がいる。だから応える」

  彼女はピアノに向かい、指を鍵盤へ置いた。鳴り響く旋律の合間を縫って、簡単な和音を重ねる。すると空気が一変した。見えない何かが凛音の音を受け取り、旋律を緩めたのだ。

  しばしの静寂。最後に「ソ」の高音が鳴り、すべての音が消えた。窓際のカーテンも動きを止め、ただの布に戻っていた。

  「……応答すれば止まる。拒めば続く」

  幸星は結論を短く述べた。亜衣は深く頷き、航大は震えた手でメモを閉じる。凌は額の汗を拭きながら、楽譜を元に戻した。

  ブレンダンは最後に記す。

  『対処=応答演奏

  沈静=可』

  アナリアは赤字で囲んで付け加える。

  『音楽室→応答必須』

  扉を閉めるとき、幸星の耳にかすかに“ありがとう”という声が混じった。だが誰も言葉にはしなかった。

 その日の六限が終わると同時に、幸星は放送のチャイムより早く立ち上がった。前日、音楽室で起きた「応答すれば止む」現象は記録に残したが、手順はまだ仮だ。放っておけば、昼休みや掃除の時間にも、誰かが不用意に音を出して引き寄せてしまう。止め方を「形」にしておかなければならない。

  集合は三階の踊り場。凛音は譜面台を一台、航大は教科書数冊とメトロノーム(電池は抜いてある)、亜衣は柔らかい布を二枚、凌は鍵束。彩菜は退避動線を頭の中に二本、扉から廊下へ、廊下から階段へ。ブレンダンは英日メモ、アナリアは付箋と振動タイマー。悠と澪も呼んだが、部屋には入れず、廊下で見学だけにする。

  扉を開ける前に、凛音が短く確認した。

  「今日のルール。――“応答は三回まで”。三で終える。四の前はためない。最後は“休符”で閉じる。声は出さない。息は吸う一、吐く二」

  全員が頷く。航大はカード大の紙に三行で清書した。

  『応答=最大3/終わり=休符

  扉外で呼吸戻す(延長しない)』

  扉を押し開ける。空気は昨日より硬い。窓は半分だけ開き、薄く乾いた匂いが入ってくる。ピアノの蓋は閉じたまま、オルガンの鍵盤は覆われている。誰もいない。

  「位置を決める」

  幸星が指で示す。凛音はピアノの椅子に座らず立ったまま、鍵盤に半歩の距離。航大は譜面台を中央に置き、上に白紙の五線紙。亜衣は窓のロープの結び目を指で確かめ、結界のように緩みを作らない。凌は扉の陰に立ち、内外の直線を自分の体で塞ぐ。彩菜は退避線を一度だけ空に描き、すぐ消す。

  最初の音は、こちらから置く。凛音が鍵盤に指を軽く乗せ、息を吸う一。吐く二の終わりで、ドを一回だけ「置く」。強くない。部屋の空気がゆっくりと伸び、壁の掲示の角がわずかに震え――返ってきた。ピアノではない、室のどこかに散った響きが、同じ高さでふくらんで戻る。

  一回目の応答。

  凛音はレの和音を低く薄く足し、すぐに手を離した。ブレンダンが『1/3』とノートに記す。アナリアのタイマーが袖の中で一度だけ短く震え、次の合図までは「空白」を置く。

  沈黙の縁を踏まないうちに、二回目の応答を準備する。凛音は鍵盤から視線を外さず、肩の高さだけ整えた。吸う一。吐く二。今度はソを、より短く。オルガンの低音が床の板から立ち上がり、ピアノの高音が細く返す。航大は『2/3/強弱=↓』と矢印を引く。

  廊下側で見ている悠と澪は、一歩も動かない。悠の肩が上がりかけ、澪が肘で軽く制する。扉の隙間から、音だけが薄く流れ、そこでほどけている。

  三回目――最後。

  凛音は鍵盤に触れず、胸の前で「黙唱」を一小節。音を出さず、拍だけ置く。四の前でためない。部屋の空気がふっと緩み、窓のロープが鳴らないまま止まる。「返ってくる音」が自分の居場所を見失ったように、三角形の余韻のまま消えた。

  「終わり」

  幸星が低く言い、全員の肩が同時に下りた。アナリアは付箋に赤で『3で終える/無音の休符』と書き、角を揃えて貼る。

  そこで撤収すれば良かった。だが、白紙の五線紙の端が、風もないのに一枚だけめくれた。音はない。ただ、紙の「縁」がこちらを見た。亜衣が眉の角度を変え、粉の気配を探す。譜面の白は白いまま。鉛筆の埋もれた跡もない。

  「……もう一つ、来るかも」

  凌が横から言った。前に立ちすぎない位置で、扉の外との境目を保つ。

  幸星はすぐにルールを追加した。

  「“追加が来たら一回だけ応答”。三へは伸ばさない。――『追い拍禁止』」

  航大が記録する。『追い拍×/1回のみ補足応答→即休符』

  五線紙は動かない。代わりに、昨日聞いたのと同じ高いソが、窓の縁で短く跳ねた。ピアノではない。風鈴ではない。

  凛音は鍵盤に触れず、喉の奥で息の形だけ作り、胸の前で二拍の箱を閉じる――“応えたふり”だけをして、音は出さない。空気がそれを受け取り、ソの欠片はそこで止まった。

  「終わり」

  今度は少し早く、幸星が言う。彩菜が退避線を一本、頭の中から消し、扉の向こうにいる悠と澪へ胸の高さで親指を立てた。二人が小さく頷く。

  扉を閉めるまでが手順だ。

  亜衣は窓のロープをもう一度締め直し、ほどけかけた結び目を指の腹で押さえる。ブレンダンは『追加→偽応答(無音)/休符へ』とメモし、日本語で『音を出さない応答』と添えた。アナリアはタイマーを切り、付箋に『撤収=早く/片付け順固定』と書く。

  最後に凛音が、ピアノの蓋の上へ柔らかい布をかけた。覆うのは鍵ではなく「縁」。楽器を静めるのではなく、こちらの視線を下げるための布。

  「今日は、これで終わり。続きは置かない」

  凛音の言葉に、幸福でも達成でもない、ただ平らな安堵が室内に広がった。

  廊下へ出ると、悠と澪が一斉に息を吐いた。

  「……返ってきた音、ここまでは来なかった」

  悠が言い、澪が続ける。

  「でも、耳の後ろが熱くなる感じはしました」

  凛音は二人の肩に軽く手を置き、吸う一、吐く二の配分を戻す合図をした。

  「見ないで済むなら見ない。――“応答は形だけ”で効くこともある」

  階段に向かう列は崩れない。凌は先頭にも最後尾にも立たず、横を受け持つ。彩菜は退避線を頭の中から消し、かわりに“明日の朝の矢印”を一本だけ描いた。航大はカードを三枚に増やし、配らない。必要なときにだけ見せる。

  『応答=3まで(弱→弱→無音)

  追い拍×/追加は偽応答→休符

  扉外で呼吸を戻す/延長しない』

  踊り場に降りる直前、音楽室の扉の向こうから、ごく小さな単音が一度だけ鳴った。誰も振り返らない。壁の白に視線を移す。四の前はためない。

  「しまう」

  幸星が胸の前で箱の形を作る。中身は詰めない。名前はつけない。閉じ方だけを共有する。

  夕方、教室に戻った彼らは、普段通りの声量で宿題の確認をした。悠がノートを出し、澪がページを揃え、ブレンダンが「できた/できない」を書き、アナリアが次のタイマーを十五分に設定する。

  窓の外の雲は薄く、色はほとんどない。階下の昇降口では、誰かが靴を履き替え、砂の音を立てた。どれも、ふつうの音。

  原因は追わない。

  誰が演奏し、どこに座っていたのかを確かめない。必要なのは、応答の回数を決めること、無音の休符で終えること、追加の誘いには形だけ応じて延ばさないこと、そして扉の外で呼吸を戻すこと。

  その夜、音楽室の窓は閉ざされ、ピアノの布はしわを作らず、オルガンの蓋は静かに光を吸った。校舎は歌わない。歌わなくてよい夜が、予定通りに訪れた。

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