第43話_図書館に潜む白い頁
週の半ば、水曜日。放課後の図書館は静かだった。窓から入る西日が机の上の本を淡く照らし、閲覧席に座る生徒の影を長く伸ばしていた。普段ならこの時間、勉強机を埋めるように生徒たちが残っているのだが、今日は妙に少ない。
幸星は鞄を椅子に置き、入り口のドアを閉めた。ぎし、と蝶番の音が一度だけ鳴る。その音に反応するように、閲覧机の一番奥に積まれた資料の山が、わずかに震えた。
「……また、だな」
凛音が眉をひそめる。彼女は二日前の音楽室での応答実験を終えたばかりだった。だが校舎の“異音”は一つで終わらない。今日は「頁の呼吸」だ。
航大が調査記録を開き、手短に読み上げる。
「報告は先週から三件。“白紙の頁が勝手に増える”“閉じた本の間から白がのぞく”“読みかけの頁が戻される”。場所は全部、この図書館だ」
「しかも、どれも夜間じゃなくて放課後……」亜衣が腕を組む。観察眼の鋭い彼女は、積まれた本の列を一点ずつ確かめていた。「見間違いじゃないと思う。光の加減じゃ説明できない」
凌は入口付近で立ち位置を確かめ、廊下と館内の境界を守るように腕を組んだ。彩菜は避難経路を机の配置に沿って三本描き、視線でなぞる。二階の非常階段、館内奥の搬入口、そして正面玄関。
「やることは同じだ」幸星は声を低く整えた。「現象が出るまで待つ。無理に触らない。応答が必要なら三回まで。四は踏まない。……そして、閉じる」
凛音が机に腰を下ろす。手元のノートを開き、何も書かずに鉛筆を置いた。航大は近くの棚から適当に本を一冊引き抜き、白紙ではないことを確かめると、そのまま机に伏せた。
最初に異変が訪れたのは、ブレンダンの手元だった。彼が調査用に開いた和英辞典、その中央付近に「余白」が一枚、音もなく差し込まれた。厚みが変わったのだ。ページをめくれば確かに文字のない白紙が一枚、整った形で綴じられている。
「見えた」アナリアが即座に付箋に『白紙頁挿入』と書き留め、タイマーを動かす。
凛音が鉛筆を持ち直し、白紙に一文字だけ書いた。「休」。そして即座に閉じた。
その瞬間、紙の白は空気を吸い込み、揺れながら――返ってきた。隣の棚の中で、別の本がぱたりと開く。そこにも白紙が顔を出していた。
「一回目」幸星が呟く。航大がノートに『1/3』と記す。
次は亜衣が前に出た。観察の鋭さで、開いた本の位置を即座に特定する。彼女はその白紙を指でなぞらず、上に布を一枚置いた。「見ない応答」だ。布は音もなく沈み、白紙は力を失ったようにページの奥へ引っ込む。
「二回目」航大が記録。『2/3/視線遮断』。
残るは三回目。
だが、白紙は自分から動かなかった。代わりに、机に伏せてあった本が勝手に開き、数ページをめくって、中央に空洞のような白を見せた。
凛音が息を吸う。吐く。鉛筆を白紙に置き、何も書かずに離した。沈黙の記号。
白紙はそれを受け取り、ページは自然に閉じていった。
「三で終わり」幸星が確認し、彩菜が手で避難経路を消す。凌は扉を少しだけ開け、廊下から流れる夕方の空気を入れる。
図書館は、再び静寂を取り戻した。
白紙は閉じたはずだった。三で終える。四の前はためない。扉の隙間から入れた夕方の空気が、書架の列に沿って細く流れ、紙の匂いが落ち着いていく――はずだった。
ところが、貸出カウンター脇の返却ワゴンで、分厚い年鑑の背が、ごくわずかに浮いた。誰も触れていない。凛音が指先で「停止」を出し、幸星が半歩だけワゴンの前へ出る。凌は正面に立たない。横で受けて、通路の直線を体で折る。
「返却本、確認」
航大がワゴンのラベルを読み、日直の記録と照合する。――『返却待ち』。館員は事務室にいる。館内には自分たち以外の生徒はいない。
亜衣が年鑑の背の隙間に視線を落とし、指腹で空気の流れ方を確かめる。埃が舞わない。紙の縁だけが、呼吸するみたいに膨らんでは沈む。
「“口”がこっちを向いてる」
声は小さい。凛音は頷き、布を一枚手に取った。
――白紙が“挟まる”と、次の本も呼吸を始める。
二日前に書庫で見つけた走り書きが、航大の手帳に残っていた。『白=連鎖。視線遮断=有効。』
「やる。三回まで。二回目で終わればそれでいい」
幸星が合図を出し、配置が決まる。凛音と亜衣が前、彩菜が退避線を二本描いて消す。ブレンダンは深呼吸を十回して肩の高さを揃え、アナリアはタイマーを“無音の三十秒”にセットする。凌は入口を背で塞ぎ、廊下と館内の気圧の差を体で受ける。
一回目。
凛音は年鑑の表紙を半分だけ持ち上げ、白紙の縁に“目”を置かず、角を見る。鉛筆は使わない。胸の前で二拍の箱を閉じ、静かな“休符”を置く。白紙はそれを吸って少し沈む。航大が『1/3/無音休符』と記録する。
二回目。
亜衣が布をそっと被せる。布の重さは軽いが、視線が切れると白紙の“呼吸”は半分に減る。布の裾が紙の繊維にひっかからないよう、指先で空気の逃げ道を作る。アナリアのタイマーが袖の中で短く震え、止まる。『2/3/視線遮断+空気路』。
三回目――の前に、亜衣が息を吸って、顎でわずかに横を示した。返却ワゴンの下段、別の本の小口(ページの外側)が白く膨らんできている。連鎖だ。
「分割。上→凛音、下→私」
亜衣の提案に異論はない。幸星は「四にしない」を目で念押しし、航大が『並行×/時間差=◎』と書く。同時は連鎖を引き寄せる。片方ずつ、時間差で畳む。
凛音は年鑑へ向き直り、胸の前で一度だけ“無音の拍”を置いた。四の前はためない。布の下で白紙の縁が細くなり、紙の重みが“本”へ戻る。ここで手を離さない。
その間に亜衣は下段の本を、背表紙を自分の胸へ向けるように少し回転させた。小口がこちらを向かないよう、いわば“口を逸らす”。そして、布は使わず、付箋を一枚。白いままの付箋の角を、胸の前で二呼吸あわせてから、小口の“白”に重ねて貼る。――視線ではなく“合図”で塞ぐ。アナリアが『付箋=合図/白で白を封』と記す。
「終わり」
幸星が短く言った。凛音は布をめくらず、端だけ持って退かす。布の下の白紙は“紙”に戻り、息をしない。亜衣の付箋は隙間を残さず、小口の輝きを吸い取っている。
ワゴンの車輪がひときわ小さく鳴り、静寂が戻った。
「四の前、踏まない」
彩菜が空に残像を描く仕草をして、退避線を頭の中から消す。凌は入口から半歩離れ、廊下の空気を一度だけ入れる。ブレンダンはノートに『Return cart: split, no overlap → calm』と書き、日本語で『並行せず時間差で畳む→静まる』と添えた。
そこで撤収……のはずが、貸出カウンター奥のカード引き出しが、スッと二センチ出た。誰も触れていない。紙の小箱の列が、唇を開くみたいに等間隔でずれ、白い貸出カードの端がいくつか見えた。
「名前の列」
亜衣が息を呑む。カードには生徒の名前が並ぶ。呼べば、来る。呼ばなければ、ただの紙。
「引き出し、正面に立たない」
凛音が小さく指示する。凌は横から、引き出しを“背にする”角度で前へ。正面からは見ない。幸星は半身で立ち、指先で取っ手を押して“半歩だけ戻す”。完全に押し込まない。空気が抜ける道を残す。
航大が新しいカードを取り出して、三行の簡易手順を書いた。
『白頁:①無音休符→②視線遮断(布)→③付箋=白で封
連鎖時=時間差処理/並行×
カード列=正対×/半身→半押し』
配らない。日誌に挟むだけ。
アナリアは付箋をもう一枚取り、赤で『名前=読まない』と書いてカード箱の手前に伏せた。読めば、記録になる。記録は呼び戻す。ブレンダンは胸の前で短い黙祷のかたちをつくり、音を立てずに両手を離す。
引き出しは、音もなく元の位置へ戻った。
「ここで終わり」
幸星が結ぶ。延長しない。扉の前で列を組み、肩の高さを揃える。悠と澪は廊下の端で見ていたが、近寄らない。凛音は二人の顔を見て、短く頷く。――“いまは見る側でいい”。
図書館を出る直前、凛音はカウンターに一枚の小さな札を置いた。表には整った字でこうだけ。
『傷んだ紙を見つけたら、上に布を置き、三呼吸。決めた棚へ静かに戻す。――図書委員』
白紙とは書かない。怪異とは書かない。手順だけを置く。
廊下へ出る。扉は閉め切らない。拳一つぶんだけ開けて、空気の逃げ道を残す。凌が先頭にも最後尾にも立たない位置に入り、横を受ける。彩菜は“次の見回りの矢印”を頭の中に一本だけ描く。航大は鉛筆の芯を紙で包み、手帳を閉じた。
階段を降りはじめたとき、背後で一度だけ、薄い紙の擦れる音がした。誰も振り返らない。壁の白に視線を置き、四の前でためない。
教室に戻ってからも、誰も図書館のことを口にしなかった。代わりに、亜衣が静かに“札”をもう数枚作った。布の端切れと白い付箋、鉛筆で書いた「休」の小さな印。ブレンダンは英語で『PAUSE』とだけ書き、裏に日本語で『休』を重ねる。アナリアはタイマーを十五分にして、次の授業に間に合うように片づけの順番を決めた。
原因は追わない。
白い頁がどこから挟まれ、誰が初めに息を吹き込んだのか。貸出カードのどの名前が先に揺れたのか。――書かない。必要なのは、正対しないこと、三で終えること、視線を遮って“白を白で封じる”手順、連鎖には時間差で応じること、そして終わりを延長しないこと。
夕焼けは淡く、窓のガラスは均一に赤い。校舎は紙の匂いを少しだけ残して、夜の前に呼吸を整えた。
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