第18話_体育館裏の声

 放課後の体育館は、部活の掛け声とバスケットボールの弾む音で賑やかだった。だが、その裏手の渡り廊下は、不自然なほど静まり返っている。日が傾き、金属の手すりは冷たく光り、風はほとんど動かない。

  幸星は廊下の端に立ち、正面の体育館裏口を見ていた。鍵は掛かっておらず、少し開いた隙間から、ほんの一瞬だけ人の気配が漏れる。続いて――くぐもった声が届いた。

  「……たすけ……」

  それは明らかに、体育館の奥からだった。だが、部活中の喧騒の中で、こんなかすれた声が届くのはおかしい。

  凛音が廊下の角から現れた。手には練習用のビブスを持ち、額には薄く汗が滲んでいる。

  「聞こえた?」

  幸星は小さく頷いた。

  「奥からだ。けど、声の高さが……変だ」

  二人は裏口に近づき、開いたままの扉の前で足を止めた。体育館の中は照明が落ち、舞台袖だけが薄く照らされている。中央のコートは闇の中に沈み、ボールの音や声は反響して届くが、距離感が掴めない。

  「……たす……け……」

  再び声。だが今度は、先ほどより低く、間延びしている。言葉の終わりが吸い込まれるように消え、空気が重たく感じられた。

  凛音は腰のスマホを握り、光を点けずにポケットへ戻した。

  「入る?」

  「二人で。俺が前、凛音が後ろ。合図は二回肩を叩く」

  幸星がそう言い、扉を押し開ける。蝶番が、わずかに金属音を立てた。

  中へ踏み込むと、床板の冷たさが靴底越しに伝わる。バスケットボールの音は相変わらず遠くで響いているが、不思議と近くには人の気配がない。コート中央に立つと、四方の壁が高くそびえ、天井の梁が影を落とす。

  舞台袖の奥――そこに、声の主がいるはずだった。二人は足音を抑えて近づく。凛音は背後を絶えず確認し、非常口の緑色の明かりを目印に位置を覚える。

  「……た……」

  今度は、すぐ近くで声がした。

  幸星は一歩前に出て、舞台袖の幕を指でめくる。そこには、古いバレーボールネットが山積みになっており、その陰に誰かが――いない。

  ただ、床に小さな白い粉が撒かれている。チョークの粉に似ているが、指で触れるとざらつきが強く、皮膚に張り付く感触があった。

  「誰もいないな」

  幸星が振り返った瞬間、背後から――

  「……け……」

  声が真後ろで響いた。二人は同時に振り返る。しかしそこには誰もいない。

  凛音が小声で告げた。

  「今の……体育館の外からじゃない。ここで響いた」

  「位置が動いてる。さっきは奥、今は背後だ」

  幸星は床の粉を目で追った。粉は体育館裏口の方へ細く続いている。

  二人は視線で合図を交わし、その跡を辿る。粉は廊下へと抜け、やがて体育倉庫の前で途切れた。倉庫の扉は半開きで、中は薄暗い。木製の棚が並び、古い用具の匂いがこもっている。

  幸星が棚の間を覗くと、一番奥の隅に、誰かが立っていた。

  背を向けたまま、肩を小さく揺らしている。声は出していないが、呼吸のたびに微かに鈴の音が混じる。

  「……たすけ……」

  今度は、はっきりと聞こえた。だが、その声は口元からではなく、どこか別の場所から響いているようだった。凛音が幸星の肩を二度叩く。退避の合図だ。

  しかし幸星は、一歩だけ前へ進んだ。相手の背中に声をかけようとした瞬間――棚の陰のその姿が、音もなく消えた。残ったのは、白い粉と鈴の小さな破片だけだった。

  凛音が破片を拾い上げると、指先が冷たく痺れた。

  「これ……あの鍵の鈴と同じ音だ」

  幸星は無言で頷き、倉庫の扉を静かに閉じた。

  廊下へ戻ると、夕陽はすでに沈みかけていた。遠くで部活の声が響く中、二人は互いに目だけで合図を交わす。ここでは追わない。調べるのは――次だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る