第19話_標本の呼吸
夕方の標本室は、理科棟の中でも一番温度が安定している。窓は高く、すりガラスの向こうに白い空が薄く残っているだけだ。棚は床から天井までびっしりと並び、硝子瓶が同じ向きで静かに光を返す。ラベルの紙はところどころ角が丸く、手書きの文字が褪せて茶色い。蓋の金属輪がかすかに冷え、フォルマリンの匂いが背の低い場所にたまっている。
亜衣は扉を半分だけ開け、蝶番が鳴らない角度を手の甲で確かめてから中へ入った。凛音は扉の内側に位置を取り、退避の動線が塞がれないことを先に確認する。
「今日はラベルの照合と、棚の順の確認だけ」
声は出さない。凛音は口の形でそう作り、指先で「短時間」を示した。亜衣は頷かず、まず床の粉を見た。黒板の粉が靴に運ばれ、点々と伸びている。棚の足の周りには粉がない。掃除が行き届いている。足運びは左右の幅を変えず、踵は鳴らさない。
最初の棚は魚類。銀色の腹が光の向きで白く見え、横に並ぶ鰭が薄い紙のように重なっている。亜衣は瓶の列に沿ってラベルの番号と台帳の数字を照らし合わせ、人差し指で一つずつ確かめた。凛音は彼女の肩越しに室内全体の空気の流れを見張る。
次の瞬間、瓶の一つの表面がうっすら曇った。
霧が外からではなく、内側から立ち上がる。最初は呼気が当たったのかと亜衣は思い、息を止めた。だが曇りは広がり、やがて一点から輪を描くようにして薄く弾け、外周へ流れた。水滴は形成されない。表面だけが、何かに触れられた痕のように白くなって消える。
凛音は扉の方へ視線を走らせ、退避合図の手の甲二度を軽く示した。すぐには出ない。まず呼吸だ。彼女は胸の前で四拍を切り、吸う一、吐く二で配分を整える。四の前はためない。亜衣も肩の高さを変えず、同じ配分に移る。
曇りは次の瓶へ移った。今度は輪が二つ。二つ目の輪が最初よりも少し遅れて外へ流れる。そのタイミングで、廊下の向こうから足音が一つ通り過ぎた。
――一致している。
亜衣は喉の奥で短く息を押し、台帳の端に鉛筆で小さく点を打った。足音の間隔と、曇りの輪の発生。次に曇った瓶は、反対側の列にある細長いものだった。輪は一度だけ。廊下の足音も一度。
「廊下のテンポ」
凛音が声にせず口形で言う。亜衣は視線を扉へ運んだ。扉は半開き、その隙間の白が細い線で床に落ちている。廊下の足音は急ではない。二拍目が少し長い――理科棟の歩き方。曇りの輪も、二拍目の後にわずかに膨らんでいた。
亜衣は歩を止め、棚と棚の間に体をまっすぐ置いた。曇る瞬間、瓶の向こうで魚の鱗が光を吸い、影が薄く揺れる。彼女はラベルの数字を指でなぞり、瓶の脚が棚に均等に乗っているかを確かめた。ずれてはいない。
「見る位置、ずらす」
凛音は彼女の背中の上で手を二度、横へ滑らせた。真っ正面を避け、斜めから。視線で瓶の中心を貫かない。亜衣は半歩ずれ、鼻先の角度を固定した。
曇りは弱くなるかと思われたが、次の打ち寄せは三つに増えた。輪が三つ、時間差で瓶の表面に現れ、外周で消える。廊下の足音は先ほどの一人に加え、別の列が踊り場へかかったのか、反響が増えた。理科棟に入ってから、廊下の空気はわずかに重くなる。瓶の曇りも、その重さと連動するみたいに厚くなった。
凛音は退路を確認するために微かに首を巡らせた。単独行動禁止。列は崩さない。背面を見る者がいない。ここでは二人。彼女は自分が扉側、亜衣が棚側――役割を入れ替えないことを一度だけ手の動きで確認した。亜衣は頷かず、その指の動きを目の隅で拾い、台帳の角を軽く叩いた。合図を受けた。
曇りは、次に「息」を刻み始めた。
輪が一つ、吸う。外周へ薄く伸びる。次の輪が、吐く。内側にわずかに戻り、また外へ。吸って、吐く。外→内→外。瓶の表面なのに、中から押し返しているみたいな奇妙な動き。廊下の足音が階段を折れるタイミングと、吐くの戻りがぴたりと揃う。
亜衣は視線を瓶から離さない。離せない。だが、ここが終わり時だ――身体が先に言った。
彼女は台帳を閉じ、右手の指を二本、胸の前で揃えてから下へ落とした。
「ここで終わり」
声にはしない。凛音は一瞬だけ「まだ見られる」と思いかけ、すぐにその思いを拾い直した。合図に従う。終わりは先に出す。彼女は扉側へ半歩下がり、退避の矢印を頭の中で描く。
「列、保つ」
凛音は口の形で伝え、肩の高さを揃える合図をした。四の前はためない。吸う一、吐く二。足を踏み替えるとき、瓶に背を向けない。視線を落としすぎず、しかし余分なものを直視しない高さ――棚の縁の少し下――へ置く。
扉へ向けて歩き出す。歩幅は一定。廊下の足音が一度だけ近づき、標本室の前を通り過ぎる。瓶の曇りは背中で感じる程度に弱くなり、扉の隙間の白が広がって、匂いの層が薄くなる。
最後の一歩で、亜衣は振り返らなかった。扉の枠に手をかける前に、室内の空気に背を向ける形を一瞬だけ取り、そのまま出た。
廊下に出ると、足音の列は二組に分かれていた。遠くの踊り場で一拍ぶんだけ重なり、すぐに解ける。理科棟の白い壁に光が帯のように走り、掲示板の端のピンが鈍く光る。
扉を半開きの角度で止め、二人は廊下側で三呼吸。吸う一、吐く二。四の前はためない。肩を同じ高さに維持する。
「戻る?」
凛音が視線で訊いた。
亜衣は首を横に振り、扉の縁に小さなメモを貼った。白地に黒一色で、文字は短い。
『ここで終わり。背を向けず退く。呼吸=1:2。四の前×』
隣に、透明のテープで細長い紙をもう一枚貼る。
『列を崩さない。影を数えない。』
そのとき――扉の隙間から、黒い影が一瞬だけ床に伸びた。二人分の影の横に、もう一つ。背丈は同じくらい。輪郭は薄い。扉を完全に閉じたわけではないのに、室内からの光が標本室の床をわずかに満たし、その境界に影が三つ、静かに並んだ。
凛音はそれを直視しなかった。視線は踵よりも少し前、床のタイルの目地に置いた。亜衣はメモの位置を微調整し、文字が真っすぐになるように指の腹で撫でた。影は薄れ、その輪郭は扉の影と重なって見えなくなった。
「歩き方、練習」
亜衣が短く言った。凛音は頷いて、廊下の白線――ワックスの線――を歩幅の基準にした。二人は並んで、四の前でためない歩き方を反復する。踵は鳴らさない。曲がり角で単独にならない。合流してから数える。
廊下の掲示に「単独行動禁止」の紙がまだ残っている。凛音はその下に、小さな紙片を貼り足した。
『影を直視しない。合図を先に。』
理科準備室のほうから、誰かの足音が近づいてくる。二人は速度を変えず、肩の線を崩さないまま横へ半歩よけ、通過を待つ。足音は彼らの間に風を作らず、ただ通り過ぎた。
標本室へ戻ったのは、それからずいぶん後のことだ。扉は半開きの角度を保ち、室内は静かだった。瓶の表面は平らで、曇りは見当たらない。凛音は入らず、扉の枠に指を軽く当てただけで離した。合図は済んでいる。終わった場所をもう一度開けない。
「先に終わらせるの、難しくない?」
廊下に出てから、凛音が小さな声で言った。
「難しい。でも……曇りが“息”になったら、終わり」
亜衣は言葉を継がない。台帳の端に打った点のリズムが、指の腹に残っている。二拍目のわずかな長さと、曇りの輪の膨らみ。その一致を身体が覚えている。
凛音は深く頷き、呼吸を一度だけ長く吐いた。
「次、皆にも“ここで終わり”の合図を先に教える」
「うん。合図が先。理由は、書かない」
階段の踊り場に出ると、窓の外の白はすっかり灰に変わっていた。二人の影は床に二つ――それ以上増えない。
原因は追わない。
瓶の曇りが誰の息に似ていたのかを、言葉にしない。必要なのは、「終わり」の合図を先に出すこと、列を崩さずに退く歩き方を練習し続けること。
踊り場の角で、二人は手の甲を二度、同時に軽く打った。退避の音は小さく、廊下の白に吸い込まれた。
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