第17話_昼休みの階段

 翌日、

 理科棟の廊下に出ると、

 昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴り終わるころ、三階の南端にある非常階段は、すでに弁当の匂いを薄くまとっていた。廊下のざわめきは遠く、窓ガラス越しの陽射しが、踊り場の手すりに白い線を落としている。

  幸星は弁当を持たず、階段の二段目に腰を下ろしていた。手すりの影が膝にかかり、足先に小さな影が二つ並ぶ。手元には、昨日凛音から受け取った封筒。厚紙の感触と、端に折れた跡がある。

  上から降りてくる足音は軽く、急がない。凛音が現れた。彼女は小さな紙袋を片手に、もう片方の手でスカートの端を整えながら降りてくる。

  「待たせた?」

  「いや、ちょうど」

  幸星は封筒を持ち上げ、視線で「開けてもいいか」と訊く。凛音は頷き、二段下に座った。

  封を切ると、中から二つ折りの紙が出てきた。表紙には手書きの文字で『昼の階段/観察記録』とある。裏には日付と『実験:会話の間隔と周囲の動き』。

  「……これ、観察?」

  「うん。昨日、一年の子たちが階段で何分ごとに通るか、測ったの。声を出したときと出さないときで」

  凛音は紙袋から小さなサンドイッチを取り出し、具が見えないように包み紙を少しだけめくった。

  記録には時刻と「通過人数」「会話の有無」「足音の速さ」が並んでいる。午前は平均して二分ごとに誰かが通ったが、昼休みの最初の十分は一分に一度。会話の有無は半々。声を出すと、足音が速くなる傾向があると矢印でまとめてあった。

  「これ、何に使う?」

  幸星の問いに、凛音はパンの耳をちぎりながら答える。

  「足音と声の速さが、階段の静けさを変える。……静けさが変わると、下の踊り場の音の聞こえ方も変わる」

  彼女は紙の余白に新しい線を引き、階段を真上から見た図を描く。上の踊り場から下へ、足音がどこで反響するかを丸で示し、その横に「声=早い足=反響早く切れる」とメモを足す。

  「だから、何かを聞きたいときは――」

  「声を出さないで、足をゆっくり」

  幸星が先に言うと、凛音は笑って頷いた。

  紙にはさらに、『会話の間隔が二分以上空くと、踊り場下の音が長く残る』と赤字で書かれていた。幸星はそれを指でなぞり、封筒に戻す。

  「これ、全員に配る?」

  「配らない。ただ、必要な時に出す」

  凛音は包み紙をきれいに折りたたみ、紙袋に戻した。

  そのとき、上から別の足音が聞こえた。二人は会話をやめ、視線を交わす。足音は一定で、踊り場で一拍止まり、再び降りてくる。現れたのは航大だった。手に水筒を持ち、視線は前に固定されている。

  「……邪魔した?」

  「いや、昼だし」

  航大は一段離れて腰を下ろし、水筒の蓋を静かに開けた。金属が擦れる音が階段に短く響き、それがすぐに消える。

  「この階段、音が残らないときあるだろ」

  航大が言った。幸星と凛音は一瞬だけ目を合わせる。

  「……足の速さ、じゃない?」

  凛音が曖昧に返す。航大は水筒を一口飲み、蓋を閉めた。

  「速さだけじゃないな。昼の後半は残りやすい」

  その言葉に、凛音は封筒を少し動かした。幸星は触れずに、それを見守る。

  昼休みの残り時間はまだあったが、三人とも次の授業の準備を考えて立ち上がった。凛音は封筒を幸星に渡し直し、「下まで持ってって」と短く告げる。

  階段を降りるとき、足音は三人分、ゆっくりだった。声はなかったが、踊り場の反響は長く、やわらかく続いた。



 翌日、

 夕方の理科棟は、廊下の白が薄暗い灰へ沈みつつあった。薬品庫の扉は閉じられ、匂いは低いところにだけ残る。準備室の前で、彩菜は掲示の要点を目で拾い、退避の矢印が剥がれていないか指先で確かめた。扉の小窓の向こうは静かだ。

  「三分で終わらせる」

  彩菜は短く言ってノブを押した。蝶番は鳴らない。中に入ると、流し台は拭き上げられ、机の上には鍵束が一つ。鍵の頭に巻かれた色テープが四色、鈍く光っている。鈴が三つ付いていた。非常時の合図用らしい。

  彩菜が鍵束を手に取ると、鈴が一度、短く鳴った。

  ちり。

  それに続いて、遅れてもう一音。

  ちり。

  同じ高さ。けれど、確かに半拍ぶん遅い。

  彼女は手首を動かさず、肩の高さで止めた。音は止まった。呼吸だけが往復する。扉の方で足音――凌が入ってくる。彼は背後の見通しを確保する位置に立ち、扉を半分の角度で固定した。

  「鍵、返しに行く」

  彩菜は鍵束を胸の近くに引き、歩幅を決める。一定。踵は鳴らさない。理科準備室を出て右、廊下の端を通って、受付の鍵フックまで。

  歩き出すと、鈴は一つぶん遅れて鳴り続けた。

  ちり……ちり……。

  足音とずれて、廊下の空気の背を小さく押す。彩菜は速度を変えない。遅らせない。急がない。拍に寄りかからず、秒でもなく、ただ同じ長さで進む。

  踊り場の角で一度止まる。ぴたりと、鈴も止まった。

  凌は前に出すぎず、半歩後ろから背面を受け持つ。廊下の奥、曲がり角の死角、渡り廊下の白い光――視線で拾い、扉の隙間の角度が崩れないことを確認する。

  再び歩き出した瞬間、遅れていた鈴が追いついて、重なった。

  ちり、ちり。

  重なりは一度。すぐにまた半拍ぶんの遅れに戻る。追いつかれた圧が背中に跳ね、彩菜は肩を上げないよう意識して吐くを長めにした。四の前はためない。足はそのまま。

  「止まれば、止まる。走ると、追いつく」

  凌が低く言う。確認だけ。彩菜は頷かない代わりに、右手の指先で「一定」の輪を小さく描いて見せた。

  曲がり角の前で彩菜は速度をさらに確かめた。前後に誰もいない。彼女は踵でなく、足裏の中央で音を吸う。鈴は相変わらず遅れて鳴った。

  ちり……ちり……。

  遅れは変わらず、角を曲がっても距離を詰めない。

  階段手前で、廊下の床に黒い粉の列が細く伸びているのに気づく。午前の黒板の粉だ。滑りやすい。彩菜は進路を半足ぶん内側へ寄せ、動線を変える。凌は後ろで同じ角度を保ち、前の肩と自分の肩が重なるラインを崩さない。背面監視を続けつつ、もし後方から誰かが来たら右に避けられる余地を残す。

  下りの階段に差しかかる。彩菜は速度を変えずに一段目へ足を置いた。鈴は遅れて鳴り、金属の手すりが微かに共鳴を返す。

  ちり……ちり……。

  ゆっくり下りる――走らない。二段目、三段目。遅れは一定。踊り場で止まると、鈴も止まる。

  試しに彩菜が半歩だけ速度を上げる。鈴はすぐ追いついた。

  ちり、ちり。

  背中に掛かる圧が、肩甲骨の間で軽く跳ねる。凌がすぐに手の甲を二度、静かに打つ。退避合図。彩菜は速度を戻し、一定へ。追いついた圧は引き、鈴はまた遅れへ戻った。

  「速度、固定」

  彩菜は囁かず、目だけで伝える。凌は背後で頷かず、足幅で応じる。前の足型を踏み、間隔を保つ。背面の視界を切らず、扉の角度を脳裏で保ったまま、踊り場を抜ける。

  階下の受付の前、鍵フックが並ぶ板に達した。開かれた窓口は無人。掲示の「返却は色順」が目に入る。赤、青、黄、白。彩菜は速度を緩めず、足を止める位置を先に決め、合図を出してから止まった。ぴたり――鈴は止まる。

  ここで急ぐと、追いつかれる。彩菜は胸の前で吐くを長く取り、四の前はためない。手を伸ばす――鍵束の重さを腕で受け、鈴の輪を布で押さえずに、そのまま色順に掛けていく。赤、青、黄、白。金具が板に触れる小さな音が一つずつ。鈴は鳴らない。

  最後の一束を掛ける瞬間だけ、遅れの鈴が一度だけ追いついた。

  ちり、ちり。

  重なりは二音で終わり、板の前の空気は静かに戻る。彩菜は手を離し、合図なしで動かない。三呼吸分だけ、そのまま。凌は背後の通路を見通し、誰も来ないことを確かめる。

  「動線、戻る。速度、同じ」

  彩菜は目で言った。二人は同じ並びで廊下へ戻る。今度、鍵束は持っていない。鈴は鳴らない。だが、背中のあたりにさっきの半拍遅れの名残が薄く残り、廊下の白い光に染みている。

  角で一度だけ足を止め、扉の半開きを確認する。角度は崩れていない。蝶番は鳴らない。理科準備室の中は暗く、机の上にはもう何もない。彩菜は掲示の矢印を小さく貼り直し、「速度=同じ」をマジックで添えた。図は短い。誰でもひと目で分かる。

  戻り道、試すように彩菜はほんの一瞬だけ速度を変えかけ、すぐ戻した。廊下の空気は薄く揺れて、すぐ平らになる。凌は後ろで、前の肩と自分の肩が重なるラインを保ち続ける。前が速くなれば速く、遅くなれば遅く――ではなく、同じに。前と後ろを一つの速度へ縫い合わせる。

  準備室に鍵は戻らない。返却先である受付に掛けたまま。彩菜は扉を閉じ、鍵はかけない。ここは開放時間。閉めないことも決まりの一つ。

  廊下へ出る前、二人で短く立ち止まる。

  「速度、一定」

  彩菜が言葉にして、短く区切る。

 「背面、俺が持つ」

  凌はそれだけ答えた。

  扉が静かに閉まり、蝶番は最後まで鳴らなかった。歩き出す二人の足音は揃っていて、廊下の白が窓から窓へ流れる間、鈴はどこからも追ってこなかった。

  原因は追わない。

  鈴が一個ぶんだけ遅れて鳴った理由を、名前にしない。必要なのは、速度を一定に保つこと、前と後ろの役割を揃えること、止まるときは先に合図をして同時に止まること。

  階段の踊り場に差し掛かったとき、二人は手の甲を二度、同時に軽く打った。退避の合図が揃っていることを確かめて、同じ速度のまま校舎の明るい方へ進んだ。

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