第16話_顕微鏡の端

 放課後の理科室は、窓の曇りガラスが白に傾き、壁にかかった骨格模型だけが細い影をつくっていた。流し台は乾き、金属の匂いは薄い。机の上に置かれた顕微鏡は二台。接眼レンズのゴムは少し擦れていて、焦点ハンドルの目盛りには指あとの粉が点々と残る。

  凛音はまずカーテンを半分閉め、外光の筋が直にステージへ落ちないよう角度を調整した。アナリアは備品の引き出しからレンズペーパーと小さな砂時計型タイマー、そして方眼の付箋を取り出し、机の端に横一列で置く。

  「まず、見る前の準備。……声にしなくていい」

  凛音はアナリアの横顔を見て、眉間の力が抜けているのを確かめる。彼女は頷かない代わりに、付箋へ短く書いた。『視野=円/端=黒の帯?』。ペン先は迷いなく、次に『三分観察・二分休止(仮)』と細く記す。

  プレパラートは植物の切片。色は薄く、細胞壁の線が静かに並んでいる。凛音が低倍率で光量を整え、ピントを合わせる。視野の中央は落ち着いている。問題は、端。黒い、まぶたのような太い影が、ほんの一瞬だけ開閉する。形は決まらない。円の外側で、黒が薄く集まり、さっと引く。

  凛音は喉の奥で息を整え、肩を上げないように手の甲で自分に合図を出す。アナリアはタイマーのダイヤルを回した。三分。アラームは鳴らない設定にし、代わりに彼女は腕時計の短いバイブを二度だけ鳴らして時の始まりを指先に覚えさせる。

  最初の三分。低倍率のまま、視野の縁で黒が瞬く。頻度は高い。開いて、閉じる。拍に似ているが、息に寄せると速すぎる。凛音は目を逸らさず、ただ中央の切片の輪郭を見続ける。端は視界の端に放置する。

  「……端を見ると、中央が動く」

  アナリアが小さく囁いた。記録のための音量。凛音は、彼女の視線がまだ中央にあることだけを確認し、返事をしない。

  バイブが二度、小さく震えた。三分だ。凛音は目を閉じない。視線だけを机の淡い木目に落とし、焦点を外す。アナリアは砂時計を逆にし、二分の休止を指で示した。

  休止の間、二人は椅子から立たない。首を回さない。まばたきを増やさない。代わりに、呼吸の配分を「吸う一、吐く二」に伸ばして、眼球の裏の熱を喉の奥へ流す。アナリアは付箋に『休止=視点をずらす/閉眼に非ず』と書き足し、角を斜めに折って机に貼る。

  二巡目。アナリアは倍率を一段上げる。視野は狭まり、中央の細胞壁は太い線になって、流れる水のように見える。端の黒は、さっきより遅い。ゆっくり開いて、ゆっくり閉じる。視野が狭まるほど、まばたきは遅くなる――付箋にそのままの言葉で残す。

  凛音は視野の円と机の角を重ねて固定し、鼻先の角度を変えない。視線が揺れると円が揺れ、端の黒はそれを真似る。彼女は唇を閉じたまま、指先で「四の前でためない」の合図を作り、胸の内側で拍を平らにする。

  「三分」

  アナリアが囁く。バイブは鳴らさない。彼女の声は、英語で「Three」と言いかけて飲み込まれ、日本語の短さへ置き換わる。二分の休止。今回は、意図的に遠くを見る。黒板の角のテープ、時計の白い針。焦点を遠くへ投げると、視野の端に残っていた黒の残像が薄くなっていく。

  「遠く、良い。次、上げる」

  アナリアは自分に言い聞かせるように、英語で小さく付け足す。「Good. Next up.」

  三巡目。さらに高倍率。視野はさらに狭い。中央の線は乱れず、端の黒は、もはや「開閉」というよりは「影が通り過ぎる」に近い。速度はさらに遅く、二分の休止に入る直前には、一度も現れない瞬間があった。

  アナリアは眉を少し上げ、付箋に丸を一つ書いた。『倍率↑→端の黒↓(頻度/速度)』。線で矢印を引き、最後に『→三分観察・二分休止=妥当。延長はしない』と囲む。

  凛音は三分の終わり際、あえて視線を端へ寄せた。黒はそこにいた。だが、ゆっくりだ。彼女はそれを追わず、中央へ戻す。追うと、呼吸が細かくなる。追わないことを選ぶ。その選択が、視野の中に静けさを戻す。

  四巡目は、あえて低倍率へ戻した。視野が広がる。黒は、速い。アナリアはタイマーを同じ三分に合わせ、付箋に新しい項を作る。『戻す際=黒↑(頻度)/疲労と誤認しやすい→ルールで抑制』。

  「ルール、書く」

  アナリアは姿勢を崩さず、箇条にした。

  ①観察三分/休止二分(閉眼ではなく視点ずらし)

  ②倍率↑は視野↓、端の黒↓。上げるほど安全に見えるが、長居はしない

  ③戻す時は低倍率で一巡のみ。連続で戻さない

  ④呼吸配分=吸一・吐二。四の前はためない

  ⑤タイマーは音を鳴らさない(振動のみ/声で合図はしない)

  凛音は書き終えた付箋の角を指で撫で、視線で「いいね」を送る。彼女は言葉を足さず、ふっと笑うだけにして、次の準備をした。

  「一年生にも、渡せる形に」

  アナリアは付箋を重ね、上から透明のテープで小さくラミネートのように補強した。『ルール(顕微鏡)』と表題を細く書き、裏に『アラーム×、バイブ○』の丸バツまで添える。

  そのとき、視野の端で黒が一度、いつもより深く閉じた。レンズの縁が、ごく短い時間だけ暗くなる。凛音は呼吸の配分を崩さず、目を逸らさない。アナリアはタイマーを見ずに、手の中のペンを静かに置いた。

  黒はすぐに薄くなり、視野の円は戻る。

  「今の、記録」

  アナリアがペンを取り直し、『四巡目後=戻し直後に一度深い閉。以降、弱化』と書く。その下に小さく『※疲労兆候/休止を延長しない→“頻度”でなく“ルール”で戻る』。

  二分の休止。今回は、首を横にも縦にも回さない。手のひらで目を覆わない。覆うと、静けさが別の静けさに変わり、戻る合図が遅れる。休止の終わりにだけ、黒板の角へ視線を投げ、顕微鏡の円へ戻す。

  アナリアは最後の一巡を提案した。

  「六巡りはしない。最後、一回だけ低倍率。三十秒で切る」

  凛音は頷き、タイマーを三十秒に合わせる。黒は、出た。だが、遅い。三十秒の間に二度。どちらも浅い。バイブは鳴らない。アナリアは終わりを言葉で告げなかった。代わりに、机を人差し指で一度だけ軽く叩いた。合図。凛音は視線を遠くへ跳ばし、呼吸を吐いてから装置から目を離した。

  後片づけ。レンズは外から内へ円を小さく描くように拭く。切片はカバーガラスをずらさず水分だけを拭き取り、乾いた紙で受ける。焦点ハンドルはゼロへ戻し、ステージは下げ、光量は最小。二人は声を出さず、確認の付箋を一枚ずつ貼っていく。

  「配布用、もう五枚」

  アナリアは同じルールを書いた付箋を黙々と作り、最後に砂時計タイマーの裏に『3/2』とだけ記したシールを貼った。

  凛音は顕微鏡台の上に小さな紙を斜めに置く。『ここで“止まる”。見る前に、三呼吸。』色は黒一色。装飾はない。

  理科室を出る前、凛音はアナリアの表情をもう一度読んだ。額の緊張は薄く、口の端はわずかに上がっている。彼女は自分のメモを指で整えながら、英語で小さく言った。

  「Not perfect, but steady.(完璧じゃない。でも揺れない)」

  そしてすぐ日本語に置き換える。

  「……ゆっくり、広げられる」

  廊下に出る。理科棟の空気は午前よりも乾き、匂いは弱い。掲示板の縁に、アナリアが作った『3分観察・2分休止』の紙が新しく貼られた。矢印は視線の移しかたを示し、「閉眼×/遠く○」の丸バツがひと目で分かる。

  凛音は一年生の集団が曲がり角から来るのを見て、足を止めずに進路を半歩ずらした。付箋の一枚を、その班の前の子に無言で手渡す。子は紙を見て、うなずいた。声を出さず、目で礼を言う。

  階段の踊り場で、二人は同時に息を吐いた。四の前でためない。

  原因は追わない。

  視野の端で黒がまばたいた理由を、名前にしない。必要なのは、見る時間と休む時間を決め、視線の置き場所を選び続ける手順だ。

  下りの階段は静かで、踵を鳴らす足音は一つもなかった。

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